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おっさん、三国志の世界で軍師をやる 〜200回読んだ知識と計略で気づけば英傑が集まっていた〜  作者: ライディーンたけ


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第三十二話 ─ 別邸に火が舞う、最後の罠




【前回までのあらすじ】

 関明徳の隠れ家で、林徳は救出作戦を三段構えで組み立てた。第一段、蓮の長弓で衛兵を無力化。第二段、関明慶と関明徳が客間に侵入し、雪麗を連れ出す。第三段、林徳と張が正門で騒ぎを起こす。一方、別邸では雪麗が呉永寿と対面し、情報統制を貫いた。彼女は内側からの戦士になっていた。だが、林徳は知らない。関所通過は季雲の意図的な見逃しだったこと。そして、彼女が用意した最後の罠は、別邸の中で、林徳と関明徳を同時に引き込むものだったことを。明日、玄朝の山際の地で、二人の転生者の本物の対決が始まろうとしていた。



【主な登場人物】

 林徳(りん とく)    主人公。十歳

 関明慶(かん めいけい) 主人公の最初の家臣

 関明徳(かん めいとく) 関明慶の弟、元玄朝近衛

 (れん)       北方民の女猟師

 (ちょう)      関明徳の隠れ家の協力者

 雪麗(せつれい)    亡国の姫、別邸の客間

 呉永寿(ご えいじゅ)  玄朝・袁派最高幹部

 季雲(き うん)     もう一人の転生者(本話で本格対峙)

 夏明国王       明国の若き君主




 夜明け前。

 月は雲に隠れていた。

 呉永寿の別邸の塀の外、雑木林の中。

 蓮が長弓を握っていた。

 半径二百歩。

 彼女の射程の中に、内庭の衛兵が八名いた。

 配置は事前に把握済み。

 関明徳が五年かけて調査した、別邸の構造。


「徳殿」


 蓮が低く囁いた。


「八名いる。──四名が客間の側。四名が、主の寝室の側」


「客間の側を優先で。──雪麗さまのお側の衛兵」


「承知した」


 蓮が長弓を引き絞った。

 ぎりっと、弦が鳴った。

 最初の矢が、夜の闇を切り裂いた。

 客間側の衛兵の、首の付け根。

 声を上げる間もなく、倒れた。

 二発目、三発目。

 蓮の矢は確実に、衛兵を無力化していった。


 四名、無音。

 北方民の戦士の、本領発揮。

 戦盤で読むまでもない。

 蓮の弓の技は、玄朝の衛兵の練度を遥かに超えていた。



   ◇  ◇  ◇



 四名が倒れた瞬間、関明慶と関明徳が塀を越えた。

 二人は客間の外の縁側に、音もなく着地した。

 関明徳が客間の戸の前で、低く合図を送った。

 内側で、わずかな気配。

 雪麗が、起きていた。

 彼女はすべての音を、聞いていた。

 戸が静かに、内側から開いた。

 雪麗が立っていた。

 白い衣。髪に形見の、銀の簪。

 その表情に、驚きはなかった。

 ただ深い覚悟があった。


「関どの」


 関明慶の体が止まった。


「雪麗さま、ご無事で何より」


「お話は後で。──まいりましょう」


 雪麗の声に、震えはなかった。

 関明慶と関明徳が雪麗を真ん中に、内庭を裏手の塀へ向けて走った。

 予定通り。

 ここまでは、すべて計画通り。



   ◇  ◇  ◇



 その同じ時、別邸の正門。

 林徳と張が正門の警備兵に、声を上げていた。

 二人とも、商人風の装い。


「夜分に申し訳ございません! 北の街道で賊に襲われました! 助けを、お願いいたします!」


 林徳の声が、玄朝風の方言で響いた。

 社畜時代、彼は何度も客先の言葉を、聞き取りで覚えてきた。

 いま、その経験が、十歳の口で、本物の玄朝商人を、演じていた。

 正門の警備兵、四名が戸を開けた。


「賊は何処に」


「北の街道の半里先! 数は二十名以上!」


「分かった。──奥に報せる。お主らは、ここで待て」


 警備兵が走り去った。

 林徳と張は、しばらくその場で、声を上げ続けた。

 別邸の内部で、騒ぎが始まる。

 衛兵が動き出す。

 その間に関明慶たちが、雪麗を連れて裏手から逃げる。

 計算通り。



   ◇  ◇  ◇



 その時、客間の裏手の塀。

 関明慶、関明徳、雪麗が塀に取り付こうとした、その瞬間。

 雪麗の足が止まった。

 彼女の鋭い目が、客間の方向を、見た。


「お二人とも」


「雪麗さま?」


「客間の中に、何かが置かれています」


「お話は後で──」


「いえ、関どの」


 雪麗の声が、低く厳しかった。


「私がここに連れて来られた時から、机の上に、ある書状が置かれていました。──私には触れさせず、ただ見せられただけ。──しかしその封蝋(ほうろう)は、明国の戸部の正式な紋章でございました」


 関明徳の体が、瞬時に止まった。

 元・玄朝近衛として五年潜伏した、男。

 明国の戸部の紋章を、彼は知っていた。

 そして、その意味も瞬時に理解した。


「兄上、これは罠でございます」


「明徳?」


「私たちが雪麗さまを連れ去った後、客間に明国戸部の偽造書状が残る。──玄朝側の証拠として」



   ◇  ◇  ◇



 関明慶の体が震えた。

 夏明国王の最後の言葉が、耳に蘇った。

 ──「玄朝の領内では、明国の名は、お出しにならぬよう」。

 明国側は、林徳の玄朝入りを極秘扱いにしていた。

 もし明国戸部の正式な書状が、別邸に残れば。

 ──「明国が玄朝の最高幹部の屋敷を、軍隊で襲撃した」という玄朝側の、正式な証拠になる。

 明国は玄朝に対する宣戦布告を、行ったことになる。


「明徳、書状を取り戻さねば」


「兄上、それを取りに戻れば衛兵に囲まれます。──既に騒ぎは、別邸全体に広がっています」


 雪麗が、低く、続けた。


「お二人さま。──書状の内容は私には見せられませんでしたが、おそらく『林徳どのへ。雪麗の救出を命じる。明国戸部』、というような、林徳どのを名指しで明国の指示で動いた、と読み取れる文言でございます」


 関明徳の目が、瞬時に鋭くなった。


「季雲。──彼女の本当の目的は、雪麗さまの誘拐ではなかった。──林徳どのを明国の反逆者に、仕立て上げることだった」



   ◇  ◇  ◇



 その時、別邸の中。

 季雲は別棟の二階で、窓から内庭を見下ろしていた。

 彼女は、すでに別邸に到着していた。

 夜明け前、ぎりぎりに移動を終えていた。


(関明慶どのと関明徳どの。──予想通り、雪麗を連れ出されましたね)

(だが、肝心の書状は、まだ客間にある)


 季雲の目には、深い確信があった。

 歴史学者の計算。

 彼女は林徳の動きを、完全に先読みしていた。

 関明徳が書状の意味に気づくのは、雪麗を連れ出したその時。

 彼がそれを取りに戻れば、衛兵に囲まれる。

 戻らなければ書状は、玄朝側の手に渡る。

 ──「どちらにせよ、林徳どのは明国の反逆者になる」。


 季雲の口元が、わずかに緩んだ。

 その笑みには、悲しさも混じっていた。


(林徳どの。──あなたが私の手を取らなかった、結果でございます)



   ◇  ◇  ◇



 客間の裏手。

 関明慶、関明徳、雪麗がしばらく、動かなかった。

 時間との戦い。

 別邸の内部で、騒ぎが、広がっていた。

 衛兵が、すでに内庭に、戻り始めている。


「兄上」


 関明徳が、低く、口を開いた。


「私が書状を、取りに戻ります」


「明徳、それは──」


「兄上は雪麗さまを、お連れ出しください。──私は玄朝近衛として五年、ここに潜伏してきました。別邸の中の道は私が、最もよく知っております」


「明徳、お前──」


「兄上、父上の遺志を、私が、果たします」


 関明徳の目に、迷いはなかった。

 関明慶の目から、涙が流れそうになった。

 武人として二十年。

 弟が、自分の代わりに、命を懸ける選択を、した。


「明徳。──必ず戻れ」


「兄上。──雪麗さまを、お頼み申し上げます」


 関明徳が、塀から、別邸の中へ、戻った。

 暗い廊下を、音もなく、走った。

 彼は、別邸の構造を、完全に、暗記していた。



   ◇  ◇  ◇



 その時、別邸の正門。

 林徳と張に、警備兵が戻ってきた。


「お主ら、本当に賊に襲われたのか」


 警備兵の声に、わずかな、疑念が、混じっていた。


「左様でございます!」


「奇妙だな。──別邸の中で、騒ぎが起きておる」


 林徳の戦盤が、瞬時に回り始めた。

 半径百歩。

 別邸の中で、複数の動き。

 関明慶たちが雪麗を連れて、裏手の塀の外に出た。

 だが、もう一人が別邸の中に戻っている。

 ──「関明徳どの?」


(何かが起きている)

(予定外の動きだ)


 林徳の心臓が波打った。

 戦盤は、深い詳細を読めない。

 だが、何かが、計画から、外れていた。


「お主、なぜ震えておる」


 警備兵が、林徳の方を、見た。


「夜分の寒さで、ございます。──失礼を」


 林徳の十歳の声が、わずかに震えていた。

 社畜時代に、初めての、客先で、声が、震えたあの瞬間に、似ていた。

 だが、彼は、すぐに立て直した。

 ──「いまはここを、引きつけ続けるだけだ」。



   ◇  ◇  ◇



 別邸の客間。

 関明徳が、戻ってきた。

 机の上に確かに、絹の書状が置かれていた。

 封蝋に明国戸部の、正式な紋章。

 関明徳は書状を、懐に入れた。

 その時、客間の戸の外で衛兵の足音が、聞こえた。


「明国の侵入者が、この棟におる!」


 声が響いた。

 関明徳は瞬時に、別の戸に走った。

 別邸の構造は、彼の頭の中で、完全に、組み上がっていた。

 裏手の使用人通路。

 そこから、雑木林へ、抜ける。

 彼は、走った。

 だが、廊下の角で、一人の衛兵と、鉢合わせた。

 衛兵が、剣を、抜いた。

 関明徳も、剣を、抜いた。

 二人の剣が廊下で、交差した。



   ◇  ◇  ◇



 関明徳は玄朝近衛として五年、訓練を受けてきた。

 剣の技は、上だった。

 最初の太刀を、捌き、衛兵の喉を、突いた。

 衛兵が、倒れた。

 関明徳は走り続けた。

 その時、別の角からもう二人の衛兵が、現れた。

 二対一。

 関明徳の剣が、最初の敵の剣を、払った。

 二の太刀で、相手の腕を、切った。

 だが、もう一人の衛兵の剣の切っ先が、関明徳の左肩に深く入った。


「うっ」


 関明徳の声が、低く、漏れた。

 血が流れた。

 だが、彼は止まらなかった。

 次の一撃で、相手の首を、切った。

 二人とも倒れた。

 関明徳は左肩を押さえながら、走った。

 書状は、まだ懐の中。

 あと五十歩で、使用人通路。



   ◇  ◇  ◇



 その時、客間の裏手。

 関明慶と雪麗は、塀を、越えていた。

 雑木林に入った瞬間、雪麗が、足を、止めた。


「関どの。──もう一人、後から来ます」


「明徳でございます」


「お一人でここに置いていけません。──少しお待ちを」


 関明慶が、雪麗の方を、見た。

 その目に、深い、感謝があった。

 亡国の姫が、彼の弟を、待つと、言った。


「雪麗さま、ありがとうございます」


 二人は、雑木林の中で、しばらく関明徳を、待った。

 別邸の中から、激しい音が聞こえた。

 関明徳の剣の音。

 衛兵の叫び声。

 二人の心臓が、波打っていた。


 その時、雑木林の枝が、わずかに揺れた。

 関明徳が、現れた。

 左肩から、血を流していた。

 だが、彼は立っていた。

 懐に、書状を、握っていた。


「兄上、雪麗さま」


「明徳!」



   ◇  ◇  ◇



 関明慶が、弟の傷を、見た。

 深い切り傷。

 だが、致命傷ではない。

 関明徳は笑った。


「兄上、書状は取り戻しました」


「明徳、よくやった」


「逃げましょう。──衛兵が追ってきます」


 三人は走り出した。

 雑木林を抜けて、山際へ。

 張が、馬を用意していた。

 四頭の馬。

 関明徳が、雪麗を、自分の馬に、乗せた。

 雪麗の細い体を、後ろから、しっかり、抱えた。


「雪麗さま、お走りいたします」


「ありがとうございます、関明徳さま」


 四頭の馬が山際の道を、駆け始めた。

 林徳のいる正門とは、別の方向。

 予定通りの退路。



   ◇  ◇  ◇



 別邸の正門。

 林徳と張のもとに、警備兵の数が増えてきた。

 すでに十名以上が、二人を、囲んでいた。


「お主ら、誰だ」


「明国の商人で、ございます」


 林徳の声に、もう震えはなかった。

 戦盤で、関明徳が、書状を持って、雪麗と共に、逃げたことを、感じていた。

 ──「役目は果たした」。


「ふん。──別邸の中で明国の侵入者が出た。お主らも、明国だな」


 警備兵の剣が抜かれた。

 張が、林徳の前に、立った。


「林徳どの、お逃げください」


「張さま」


「私は二十年、関子陽さまの遺志を果たすために生きてきました。──ここが、その最後の機会」


「張さま──」


「林徳どの。──早く雪麗さまのもとへ」



   ◇  ◇  ◇



 張が剣を抜いた。

 彼は若くはなかった。

 四十代後半。元・役人。

 だが、その剣の構えに本物の覚悟があった。

 林徳は深く、頭を下げた。

 涙をこらえた。

 もう一人、彼の手下が命を捨てようとしていた。


「張さま。──ありがとうございます」


 林徳は、馬に飛び乗った。

 張が、衛兵に、突っ込んだ。

 彼の剣が、最初の衛兵を、討った。

 二人目を討った。

 三人目で、彼の体に、剣が、深く入った。

 張はそれでも、立っていた。

 林徳の馬が走り出すまで、彼は衛兵を止め続けた。


「徳殿……関子陽さま、ご無念を……」


 張の声が、夜明けの空気に、消えた。

 林徳の馬が、別邸を、出た。

 彼の十歳の頬を、涙が、伝った。

 ──四人目。

 徐、陳、張(田家村)、そして張(玄朝)。

 四人の男が、彼の戦の中で、命を、落とした。



   ◇  ◇  ◇



 その時、別邸の中、別棟の二階。

 季雲が窓から、内庭を見下ろしていた。

 関明徳が、書状を持って、逃げた。

 雪麗が、関明慶と共に、雑木林の中に、消えた。

 張が、正門で、衛兵に、討たれた。

 すべて、彼女の予想の範囲内だった。

 いや、書状を、取り戻されたのは、予想外だった。

 関明徳が戻る決断をしたのは、季雲の計算をわずかに超えていた。


(関明徳どの。──歴史学者の私を、わずかに出し抜きましたか)


 季雲は、わずかに笑った。

 その笑みに、敗北の苦さはなかった。

 彼女には、まだ第二の手があった。

 書状は奪い返された。

 だが、その前に、すでに玄朝中央には、別の書状が、届いている。


 ──「明国の使者・林徳、夏明国王の指示で玄朝最高幹部・呉永寿の屋敷を襲撃」。


 季雲は、ゆっくり机に向かった。

 筆を取り、新しい書状を書き始めた。

 宛先は明都の、夏明国王。



   ◇  ◇  ◇



 夜明け。

 林徳、関明慶、関明徳、蓮、雪麗の五人が、関明徳の隠れ家に、戻った。

 張(玄朝)は、別邸の正門で命を落とした。

 関明徳の左肩は、深い傷。

 だが彼は、書状を持ち帰っていた。

 雪麗は二月ぶりに、林徳と再会した。

 二人とも、しばらく口を開けなかった。


「徳殿」


「雪麗さま」


 雪麗が、ゆっくり林徳の前に、跪いた。


「お迎えに来てくださり、ありがとうございました」


「雪麗さま、ご無事で何より」


 林徳の十歳の体が、わずかに震えた。

 四十年の社畜の心がようやく、雪麗を取り戻した実感を噛みしめた。

 関明慶が横で、深く頭を下げた。

 関明徳の傷を、蓮が、手当てしていた。

 その時、関明徳が、懐から、書状を、取り出した。


「林徳どの。──これが客間に置かれていた書状でございます」



   ◇  ◇  ◇



 林徳は、書状を、開いた。

 絹の薄紙。墨の文字。

 封蝋には確かに、明国戸部の正式な紋章。

 書状の内容は、簡潔だった。


 『林徳どのへ


 雪麗の救出を、命じる。

 玄朝・袁派最高幹部・呉永寿の別邸を、襲撃せよ。

 明国の名において、雪麗を、奪還せよ。


 明国戸部』


 林徳の戦盤が、瞬時に回り始めた。

 ──「これは明国戸部の本物の紋章。──だが明国側は、私の玄朝入りを極秘にしていた。戸部の正式な書状で、このような指示は絶対に出されていない」。

 ──「これは偽造書状。だが紋章は、本物に近い。何者かが、明国戸部の紋章を複製した」。

 林徳の手が、わずかに震えた。

 季雲の真の目的が、ようやく、見えた。


(雪麗さまの誘拐は、目的ではなかった)

(私を明国の反逆者に仕立て上げ、明国に帰れなくする)

(そして、私を玄朝の亡命者として玄朝の手の中に、置く)



   ◇  ◇  ◇



「林徳どの」


 雪麗が静かに、口を開いた。


「これは、奪い返した書状でございます。──ですが」


「ですが、何でしょうか」


「私が、別邸で、過ごした三日の間に、別の書状が、すでに玄朝中央に、送られている、と思います」


「……」


「呉永寿さまは私に何度も、林徳どのの人物像を聞きました。──彼は林徳どのを明国の使者として、玄朝中央に報告する材料を集めていたのです」


 林徳の戦盤が、深く停止した。

 ──「もう遅い」。

 ──「玄朝中央には、すでに別の証拠が、届いている」。

 彼の心の中で、何かが、ゆっくり崩れ始めた。

 雪麗を取り戻した。

 だが、その代わりに彼は明国に帰れなくなった。

 季雲の罠は、完璧だった。



   ◇  ◇  ◇



「皆さま」


 林徳は深く、息を吐いた。


「私は明国に、帰れないかもしれません」


「主、それは──」


「玄朝中央には、私が、明国の使者として、玄朝の最高幹部の屋敷を、襲撃した、という証拠が、すでに届いております。──玄朝は、明都に、私の身柄の引き渡しを、要求するでしょう」


「主、夏明国王さまが、お守りくださいます」


「関どの、夏明国王さまもお苦しい立場に立たれます。──私を守れば玄朝との戦になる。守らなければ、私を玄朝に引き渡すか、または明国国内で追放処分にせざるを得ない」


 関明慶の体が震えた。

 雪麗の目から、涙が、零れた。

 季雲の罠の真の意味が、ようやく五人の前に見えた。

 ──「林徳から、帰る場所を奪う」。



   ◇  ◇  ◇



(俺は、ホームを失った)


 林徳は、心の中で、呟いた。

 社畜時代、彼は客先で何度も難しい交渉を、こなしてきた。

 だが、その時彼にはいつも、戻る会社があった。

 戻る家族があった。

 いま、彼には田家村と明都という、二つのホームがあった。

 季雲は、その、明都を、奪った。

 残りは、田家村だけ。

 しかし田家村も、玄朝の追っ手が来れば安全ではない。


 その時、雪麗が林徳の前に手を伸ばした。

 彼の十歳の頬に、そっと、触れた。


「徳殿」


「雪麗さま」


「あなたさまには、私たちがおります」


「……」


「明都も田家村も、ホームではないかもしれません。ですが私と関明慶どの、関明徳さま、蓮さま、桃。──私たちがあなたさまの、ホームでございます」


 林徳の目から、初めて本物の、涙が、流れた。

 四十年の社畜が、四十年聞きたかった言葉だった。

 ──「あなたの居場所は、人だ」。



   ◇  ◇  ◇



 その時、玄朝の街道。

 季雲を乗せた馬車が、明都の方角へ、戻っていた。

 彼女の手元に、新しい書状の写しがあった。

 その書状は、すでに玄朝中央から、明都へ、送られていた。

 書状の内容は、簡潔だった。


 『明国・夏明国王へ


 明国の使者・林徳が、我が玄朝の最高幹部・呉永寿の屋敷を、明国軍人を率いて、襲撃した。

 これは、明国の、玄朝に対する、宣戦布告に等しい。

 我が玄朝は、林徳の身柄の引き渡しを、要求する。

 応じぬ場合は、明国に対し、相応の対応を、検討する。


 玄朝中央』


 季雲は、わずかに笑った。

 その笑みには、勝利の確信があった。

 歴史学者の計算通り。

 彼女は、林徳の最大の武器を、雪麗を奪うことで、潰したのではなく、林徳の帰る場所を、奪うことで、潰した。

 ──「彼の最大の武器は、人を信じる力。その力は信じる人のいる場所が、なければ発揮できない」。

 彼女の覚え書きは、ただの人質の話ではなかった。

 その奥に、もう一段、深い、計画が、あった。



─ 第三十二話 了 ─


次回、第三十三話「ホームを失った者の、選ぶ道」


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