第三十一話 ─ 呉永寿の別邸、雪麗の影
玄朝の領内、北西の山際。
小さな農家が雑木林の中に建っていた。
藁葺の屋根。漆喰の壁。
遠目には、貧しい農夫の住まいにしか見えない。
関明徳の隠れ家だった。
四人の馬隊が、農家の前で止まった。
馬を裏手の小さな厩に繋いだ。
関明徳が戸を軽く、三度叩いた。
戸が、すぐに開いた。
中から四十代後半の男が顔を出した。
「明徳さま」
「張さま、ただいま参りました」
「お待ちしておりました」
張は関明徳の協力者だった。
元・玄朝の中堅役人。
二十年前、関子陽の派閥に属していた。
関子陽の毒殺の後、職を辞し山際の村で農夫として暮らしていた。
いまは関明徳の最大の協力者。
名は田家村で死んだ張と偶然、同じ。
林徳の中で、わずかに痛みが、走った。
だが、それを、顔には、出さなかった。
◇ ◇ ◇
農家の中は簡素だった。
囲炉裏。木の机。粗末な椅子。
壁には、玄朝の領内の、詳細な地図が、貼られていた。
関明徳が、四人を、机の周りに、座らせた。
張が、茶を、用意した。
「林徳どの」
関明徳が、机の上に、もう一枚の地図を、広げた。
呉永寿の別邸の、詳細な配置図。
「これが別邸の構造でございます。──正門、裏門、客間、寝室、衛兵の詰所。すべて私が調査いたしました」
林徳は地図をしばらく見ていた。
頭の中で、戦盤が、回り始めた。
だが、ここは、半径百歩より、遥かに広い、地形。
戦盤の能力では捉えきれない。
林徳は戦盤を使わなかった。
代わりに、四十年の社畜の頭で、地図を、読んだ。
「関明徳さま。──雪麗さまのお居場所は」
「客間の最も奥。窓は内庭に面しております。──逃げる方向は内庭の塀の向こう、裏手の山際」
「衛兵の数は」
「常時二十名。夜間は十名」
「呉永寿どのは」
「別邸の主の寝室。客間とは、別の棟」
◇ ◇ ◇
林徳は頷いた。
社畜時代、彼は客先の組織図を何度も、頭の中で組み立てた。
誰がどこに座り、誰が何を決める。
その理解が商談の、決め手になった。
いま、呉永寿の別邸の組織図が彼の頭の中で、組み上がっていた。
「関明徳さま、ご提案がございます」
「お聞かせください」
「救出作戦は、三段構えで、参ります」
「三段、と申しますと」
林徳は地図の三箇所を、指さした。
「第一段。──蓮さまの長弓で、内庭の衛兵を、無力化。半径二百歩の射程ですので、内庭の塀の外から、可能でございます」
「第二段は」
「第二段。──関明慶どの、関明徳さまのお二人で客間に侵入。雪麗さまをお連れ出しください」
「第三段は」
「第三段。──私と、張さまが、別邸の正門で、騒ぎを起こし、衛兵の注意を、引きます」
関明慶の眉が、わずかに動いた。
「主、お一人でおとりになられるおつもりか」
「左様でございます、関どの。──私は戦闘に弱い。ですが騒ぎを起こすのは得意でございます」
社畜時代、彼は、客先で、何度も、難しい交渉を、自分一人の声で、引きつけた。
「騒ぎを起こす」のは林徳の、本来の得意分野だった。
◇ ◇ ◇
その同じ時、呉永寿の別邸。
雪麗を乗せた馬車が、正門を、潜った。
長い、移送の旅が、終わった。
馬車から降りた。
別邸の中は想像より、大きかった。
壮麗な瓦屋根。広い内庭。手入れされた木々と、池。
明国の宮中とは別の、玄朝の貴族の美意識。
雪麗は宮中の経験で、その空間を瞬時に読んだ。
──「贅を見せつけるための、別邸」。
──「主は人を屈服させることを、好む」。
「雪麗さま、こちらへ」
柳の声が響いた。
雪麗は、ゆっくり客間の方へ、歩いた。
通り過ぎる衛兵の数。
通路の長さ。
窓の位置。
すべてを、頭の中の、地図に、写した。
◇ ◇ ◇
客間に入った。
広い、和風の、部屋。
奥に、絹の、座布団。
その前で、一人の、男が、座っていた。
五十代後半。痩せた、小柄な、体。
絹の、紫の、衣。手には、扇子。
顔は整っていた。だが目に、人を見下す深い冷たさがあった。
雪麗はその顔を、瞬時に見抜いた。
──「呉永寿。──玄朝・袁派の最高幹部」。
「雪麗さま」
呉永寿の声は低く、品があった。
「お疲れでございましょう。──お会いできて光栄でございます」
「呉永寿さま」
雪麗は深く、頭を下げた。
亡国の姫の矜持。
明国先代王の姪。
その振る舞いには、一切の、卑屈さが、なかった。
呉永寿の目が、わずかに変わった。
──「ほう、ただの田舎の姫君ではない」。
その目に、興味が、混じった。
◇ ◇ ◇
「雪麗さま、お座りください」
雪麗は、ゆっくり呉永寿の前に、座った。
呉永寿が、自分の手で、茶を、注いだ。
所作は優雅だった。
崔泰の時と、似ていた。
だが、もっと、深い、計算が、その所作の下に、あった。
「雪麗さま、お聞かせくださいませ」
「何でしょうか」
「林徳どのは、いかなるお方でいらっしゃいますか」
雪麗は、茶碗を、両手で、受け取った。
一口、飲んだ。
心の中で、即座に、計算した。
──「彼は、林徳の人物像を、季雲から、聞いている。だが、確証を、取りたがっている」。
「林徳さまは村の采配を、なさるお方でございます」
「左様でいらっしゃいますか」
「明国南の、小さな村のお一人でございます」
呉永寿の口元が、わずかに緩んだ。
──「彼女は何も、語る気はない」。
その判断を彼は、瞬時に下した。
「雪麗さま、お疲れでいらっしゃいましょう。──お部屋でお休みくださいませ」
「ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
雪麗は、客間を、出た。
柳が案内した。
長い廊下。
奥の客間。
窓は、確かに、内庭に、面していた。
部屋の中で雪麗は、しばらく立っていた。
頭の中の地図が、すでに組み上がっていた。
別邸の構造。衛兵の位置。逃げる方向。
すべて、彼女が移送中から観察し続けたもの。
いま、彼女は、ただの、人質では、なかった。
内側からの、戦士に、変わっていた。
(徳殿、必ず迎えに来てくださる)
(私も、その時、すぐに動けるよう、準備を、整えておきます)
雪麗は、ゆっくり窓の方を、見た。
内庭の、向こうに、雑木林。
その向こうに、山際。
──逃げる方向。
彼女の心の中で、林徳の駒が北の方角から近づいてくるのを、感じていた。
◇ ◇ ◇
その夜、関明徳の隠れ家。
四人と張が、囲炉裏の周りに、集まっていた。
月は、雲に、隠れていた。
夜の山際は、深い、闇だった。
「林徳どの」
関明慶が、口を開いた。
「明日、決行でよろしいでしょうか」
「左様でございます、関どの」
「主、お一人で、おとりに、なられるのは、危のうございます。──せめて、張さまに、お側を」
「関どの、ご心配ありがとうございます」
林徳は、ゆっくり答えた。
「張さまには、別の役目をお願いしております。──正門で騒ぎを起こした後、別邸の馬を奪っていただきます。雪麗さまをお連れする、馬」
「承知いたしました」
張が、深く頷いた。
元・玄朝の役人。
彼の中にも、関子陽への深い忠誠が、いまも生きていた。
雪麗を救うことは、関子陽の遺志を、果たすことでも、あった。
◇ ◇ ◇
(雪麗さま、もう少しでお会いできます)
林徳は、心の中で、囁いた。
戦盤は、ここでは、使えない。
万書の眼も、玄朝の地理には対応していない。
縁の能力だけが、雪麗の存在をわずかに感じさせていた。
彼女は、生きている。
彼女は、強い。
彼女は、待っている。
「皆さま」
林徳は囲炉裏の周りの、全員に深く頭を下げた。
「明日、雪麗さまを、お救いに、参ります。──皆さまのお力を、お借りいたします」
「主」
関明慶、関明徳、蓮、張、四人が、同時に、頭を下げた。
全員の、覚悟が、囲炉裏の火の周りで、一つに、なっていた。
◇ ◇ ◇
その時、玄朝の別の場所。
季雲が、馬車に、乗っていた。
彼女はいま、移動の途中だった。
行き先は、呉永寿の、別邸。
彼女は、自分の手で、最後の調整を、するつもりだった。
馬車の中で、彼女は、書状を、開いていた。
書状の差出人は、玄朝の、ある、衛兵長。
季雲の手駒の一人。
書状の内容は、簡潔だった。
『季雲さまへ
商隊四名、関所を通過。
北西の山際に向かう模様。
手筈通りに、お手筈を、お進めください。
衛兵長』
季雲は、わずかに笑った。
関明徳の偽の通行手形は、もちろん、玄朝側で、すでに把握されていた。
関所の衛兵が、警告を、出さなかったのは、季雲が、そう、指示したから。
──「林徳どのを、私の罠の中にお招き入れる」。
彼女の計画は、林徳が、別邸に、辿り着いて、初めて発動する。
◇ ◇ ◇
まだ林徳は、知らない。
関所の通過が、季雲の意図的な見逃しだったことを。
関明徳の偽の通行手形は、本当に本物に近かった。
だが、玄朝の衛兵は、すでにその手形を、複数回、確認していた。
関明徳が玄朝近衛に潜伏していた、その時の手形と照合済み。
季雲は、すべて、把握していた。
彼女が用意した最後の罠は、別邸の中で林徳と関明徳を同時に引き込むものだった。
第四部、雪麗救出戦。
明日、玄朝の山際の地で、二人の転生者の本物の対決が始まろうとしていた。
─ 第三十一話 了 ─
次回、第三十二話「別邸に火が舞う、最後の罠」




