第三十話 ─ 玄朝への、道
【前回までのあらすじ】
雪麗の誘拐、徐・陳・張の死。林徳は明都に戻り、夏明国王から「全力で雪麗救出を手伝う」と告げられた。そして、許明が引き合わせたのは──関明慶の弟・関明徳。玄朝近衛に五年潜伏し、父の毒殺の真相を内側から追っていた男。彼は雪麗の移送先を把握していた。玄朝・袁派最高幹部の屋敷の近く、移送先まで馬で二日。林徳の中で、新しい計画が芽生え始めた。同じ時、雪麗もまたただの人質ではなかった。「私は宮中で政の駆け引きを二十年見てきた。彼らの隙を必ず見つける」。明都と玄朝、二つの場所で戦いが、いま始まろうとしていた。
【主な登場人物】
林徳 主人公。十歳
関明慶 主人公の最初の家臣
蓮 北方民の女猟師
関明徳 関明慶の弟、玄朝近衛から亡命
夏明国王 明国の若き君主
許明 夏明国王の侍読
藤 戸部・尚書補佐
雪麗 亡国の姫、移送中
季雲 もう一人の転生者(影として)
移送の頭領 四十代の冷たい目の男
明都の宮中、夜。
謁見の間の隣、小さな書院。
林徳、関明慶、蓮、関明徳の四人。
夏明国王と許明、藤も加わっていた。
机の上に関明徳が用意した、玄朝の地図が広がっていた。
「皆さま」
林徳は静かに、口を開いた。
「明日、夜明けと共に玄朝へ向け出立いたします」
「四人で参られるか」
夏明国王の問いに、林徳は深く頷いた。
「左様でございます。──大勢で行けば玄朝の関所で必ず止められます。少人数で商隊を装って入ります」
「四人の役割は」
「私は学者の弟子、関明慶どのと関明徳どのは商隊の護衛、蓮さまは荷の管理人と偽装いたします」
関明徳がわずかに、頷いた。
彼は玄朝近衛として五年、関所の検査の癖を見てきた。
「林徳どの。──玄朝の関所は武人を最も警戒します。商人と学者は比較的、通りやすうございます」
「ありがとうございます、関明徳さま」
◇ ◇ ◇
関明徳は、地図の一点を指さした。
玄朝の領内の北西、山際にある町。
「雪麗さまの移送先はおそらく、ここでございます。袁派最高幹部・呉永寿の別邸。明都の貴族とは縁を結ばぬよう、人目から離れた場所」
「呉永寿、と申しますと」
「玄朝の宦官派閥の中で最も力を持つ者の一人。父・関子陽を毒殺するよう命じた、当人でございます」
関明慶の目に深い炎が、灯った。
弟の声が続いた。
「兄上。──父の仇でございます」
「明徳」
「ですが雪麗さまの救出が最優先。──父の仇は、その後で」
関明慶は、深く頷いた。
五年ぶりに再会した弟の中に、武人としての成長があった。
二十六歳の弟が四十二歳の兄に、戦の優先順位を冷静に伝えていた。
◇ ◇ ◇
夏明国王が、口を開いた。
「林徳どの。──私からお一つ」
「お聞かせください」
「玄朝の領内では、明国の名は、お出しにならぬよう。──季雲と袁派の連携が、すでに深く動いております。明国の使者と知れれば、即座に潰されます」
「承知いたしました」
「ですが、もしご無事でお戻りになった暁には、明国は、必ずあなたさまの背後におります」
林徳は深く頭を下げた。
戦盤の上で、夏明国王の駒が強く白く輝いていた。
──彼は、本物の盾だった。
顔の見える権力者が背後にいる。
それは社畜時代に、林徳が最も渇望していたものだった。
◇ ◇ ◇
その夜、林徳は宿に戻った。
蓮が宿の二階で弓の手入れを、していた。
北方民の長弓。半径二百歩の射程。
彼女の目は静かだった。
「徳殿」
「蓮」
「明日、出立だな」
「左様でございます」
「桃は村で待っているだろうか」
「待っております。──桃は、雪麗さまを信じています。私たちも、必ず戻ると信じています」
「うむ」
蓮は弓を、ゆっくり布で拭った。
「徳殿、私は北方民だ。雪山の中で家族を、北方の戦で失った。──いま、田家村が私の新しい家族」
「ありがとうございます、蓮」
「雪麗さまも、桃も、私の家族の一人だ。──だから、私が、必ず取り戻す」
蓮の声には、北方民の戦士の揺るがぬ覚悟があった。
林徳は深く、頭を下げた。
彼女の弓は玄朝でも、彼の最大の武器の一つになる。
蓮は、しばらく弓を見つめた。
そして低く、付け加えた。
「徳殿。──玄朝は私の故郷の北方民を、長く追い出してきた国だ。私の祖父も祖母も、玄朝の兵に追われて、雪山に逃げた」
「左様で、いらっしゃいましたか」
「だから玄朝への道は、私にとってただの救出ではない。──祖父と祖母の無念を晴らす道でもある」
林徳は深く頷いた。
蓮の駒が戦盤の上で、強い銀色に輝いた。
──彼女の弓は、いままで以上の強さを発揮する。
戦盤は、そう告げていた。
◇ ◇ ◇
夜明け。
四頭の馬が、明都の北門を、出た。
商隊を装っていた。
荷は明国の絹と薬草。商人として通行する、表向きの理由。
関明徳が先頭を、林徳が真ん中、関明慶と蓮が後ろを固めた。
空は薄い灰色だった。
北の風が、わずかに強かった。
明都から玄朝の国境まで馬で、四日。
国境を越えて移送先まで、さらに二日。
合計、六日。
雪麗の移送が明都から発って、すでに三日。
彼女が玄朝の屋敷に到着するのはおそらく、林徳たちの到着と同じ頃。
間に合うか間に合わないか、ぎりぎりの時間。
「関明徳どの」
「はい、林徳どの」
「玄朝の国境までの街道で注意すべきこと」
「明国側の街道は問題ありません。ですが国境の手前、約一日の距離で玄朝の偵察が出没いたします。──そこから警戒が必要でございます」
「承知いたしました」
◇ ◇ ◇
その同じ時、玄朝の街道。
雪麗を乗せた馬車が、北へ進んでいた。
頭領が馬車の前で、馬を駆っていた。
四十代の冷たい目の男。
雪麗は馬車の中で、静かに座っていた。
縛られてはいなかった。
頭領は彼女を、丁寧に扱っていた。
──「我が主の指示は生け捕り」。
その指示には、傷つけずに、という意味も含まれていた。
雪麗の隣にもう一人、護衛の女が座っていた。
二十代後半。鋭い目。武装はしていない。
季雲が選んだ教養ある、護衛。
雪麗の話し相手にもなる、役目。
「雪麗さま」
「はい」
「お疲れでございましょう」
「ご心配なく」
雪麗の声は落ち着いていた。
亡国の姫として宮中で二十年、政の駆け引きを見てきた。
いま、彼女はその経験をすべて頭の中で整理していた。
護衛の女の表情。声色。視線の動き。
馬車の中で、彼女は自分が観察される存在から、観察する存在に変わっていた。
◇ ◇ ◇
(この女、私から情報を引き出そうとしている)
(季雲どのの指示で、私の心を開かせようとしている)
雪麗の頭の中で、計算が進んでいた。
──「相手に情報を与えず、相手から情報を取る」。
それは宮中で、彼女が母から教わった生きる術だった。
「ご護衛さま」
「はい」
「あなたさまのお名前を、お聞きしてもよろしいですか」
「……柳と申します」
雪麗は、わずかに微笑んだ。
心の中で、ある事実を記憶した。
──「私の村の女手の頭と同じ名前。偽名の可能性が高い」。
「柳さま、ありがとうございます。──玄朝の屋敷まで、あとどのくらいでございますか」
「あと三日でございます」
雪麗は深く、頷いた。
その三日の間、彼女は相手の隙を見つける。
亡国の姫の、心の中の戦が始まっていた。
◇ ◇ ◇
明国側の街道、夕暮れ。
四人の馬隊が宿駅で、馬を換えた。
関明徳が、林徳の傍に寄ってきた。
「林徳どの。──お一つお話が」
「お聞かせください」
「玄朝の領内に入りましたら、私の隠れ家までまずお連れいたします」
「隠れ家、と申しますと」
「五年、私が玄朝に潜伏してきた小さな農家。袁派の目から離れた山際の村。──そこで雪麗さまの救出計画を、最終調整いたします」
「ありがとうございます」
関明徳の目に、深い覚悟があった。
「林徳どの。──私は五年、玄朝の闇の中で生きてきました。父の毒殺の証拠を集めるためでございます。──ですがいま、私の使命はそれだけではありません」
「……」
「兄上を信じる主にお会いできた。──父の遺志を、雪麗さまの救出と共に果たさせていただきます」
「関明徳さま、ありがとうございます」
関明徳の目には、別の重みもあった。
五年の潜伏。
その間、彼は玄朝の宦官や役人と共に暮らした。
彼らの中には、人柄の良い者もいた。
仕えた直属の上司は、四十代の温厚な男。
関明徳に、何度も酒を勧め、自分の家族の話を、笑って語った。
その男も、袁派の手駒の一人だった。
いつか、敵として、向き合うかもしれない。
その重みを、関明徳は、黙って背負っていた。
「林徳どの」
「はい」
「玄朝の中にも、悪人ばかりではない、ということを、お忘れにならぬよう」
「……心得ました」
林徳は深く頷いた。
関明徳の言葉には、五年の潜伏で得た、本物の人間観があった。
──「敵の中に、善人がいる。善人の中に、敵がいる」。
社畜時代に、林徳が学んだ、ことと、同じだった。
◇ ◇ ◇
四日目の朝。
玄朝の国境。
関所が、街道に、立っていた。
石造りの堅牢な、検問所。
武装した玄朝の衛兵が、十数名控えていた。
関明徳が商隊の隊長として、衛兵に書状を差し出した。
「明国の商人、関明徳。絹と薬草の取り引きで、玄朝の北西へ参ります」
衛兵が書状を確認した。
関明徳の偽の通行手形。
関明徳が五年かけて玄朝の中で作り上げた、本物に近い偽造。
衛兵は書状の隅々まで、確認した。
林徳の心臓が、わずかに波打った。
戦盤を使うか、迷った。
だがここで戦盤を起動すれば、頭痛が出る。
その様子を衛兵に見られたら、不審を抱かれる。
林徳は戦盤を、使わなかった。
ただ関明徳を、信じた。
「通れ」
衛兵の声が響いた。
関所の門が開いた。
四頭の馬が玄朝の領内に、入った。
空気が、わずかに変わった。
明国の街道とほとんど、同じ景色。
だが林徳の中で、何かが確かに変わっていた。
──「ここからは、敵地」。
◇ ◇ ◇
玄朝の領内、最初の宿場町。
関明徳が宿の主人に、低く何かを伝えた。
主人はわずかに頷き、奥の小部屋へ四人を案内した。
小部屋に入ると、関明徳はようやく深く息を吐いた。
「林徳どの、関所を無事に通れました」
「関明徳さま、お見事でございました」
「兄上、ご無事で何より」
関明慶が、弟の肩に手を置いた。
「明徳、ようやった」
「兄上、これからが本番でございます」
関明徳は机の上に、もう一枚の地図を広げた。
玄朝の領内の詳細な、地図。
雪麗の移送先・呉永寿の別邸。
その周辺の山、川、村、街道。
すべて、関明徳が五年かけて調査したもの。
「林徳どの。──ここから私の隠れ家まで、馬で半日。隠れ家で最終の作戦を、組み立てましょう」
「承知いたしました」
◇ ◇ ◇
その時、玄朝の領内、別の場所。
季雲が机の前で、書状を開いていた。
送り主は呉永寿。
書状の内容は、簡潔だった。
『季雲どの
雪麗の移送、順調。
あと三日で、私の別邸に到着する。
明国の動きは、いかがか。
呉永寿』
季雲は、わずかに笑った。
その笑みには、確信があった。
彼女は、すでに明都の動きを、把握していた。
夏明国王が、林徳に玄朝行きを許した。
関明慶の弟・関明徳が、林徳に合流した。
(林徳どの。──予想通り、来てくれましたね)
季雲は、ゆっくり墨を、磨り始めた。
返信を書く、準備。
その内容は、林徳を待ち受ける罠の最後の調整だった。
◇ ◇ ◇
まだ林徳は、知らない。
季雲が、彼の玄朝入りを、すでに想定していたことを。
関明徳の存在も、関明徳が、いつ、亡命するかも、季雲は、すでに計算していた。
彼女は歴史学者だった。
歴史の中で戦がどう動くか、彼女は誰よりも知っていた。
林徳と関明徳の合流は彼女にとって、最も可能性の高い未来だった。
──そして、それに、対応する手も、彼女は、すでに打っていた。
第四部、玄朝への道。
その先に、林徳と季雲の最終決戦が待っていた。
雪麗の救出は、ただの救出戦ではない。
二人の転生者の本物の思想の戦いが、玄朝の地で始まろうとしていた。
─ 第三十話 了 ─
次回、第三十一話「呉永寿の別邸、雪麗の影」




