第二十六話 ─ 田家村、急報
【前回までのあらすじ】
季雲との思想バトルで揺らいだ林徳の心を、雪麗の手紙が癒した。「あなたさまのご判断は必ず人の心に根を持っているはず」──その言葉が、林徳を再び地に立たせた。だが、明都の宮中の奥で、季雲は自分用の覚え書きにこう記していた。──「林徳の最大の武器は人を信じる力。その力を潰すには、彼が信じている人を奪うしかない」。明都での林徳の戦いは、明都の中だけでは、終わらない。田家村にも、戦の影が、忍び寄っていた。
【主な登場人物】
林徳 主人公。十歳。中身は四十歳の元法人営業マン
関明慶 主人公の最初の家臣。一騎当千
蓮 北方民の女猟師。半径二百歩の弓
藤 明国中央・戸部・尚書補佐
許明 夏明国王の侍読、若き学者
夏明国王 明国の若き君主
季雲 もう一人の転生者、真明会の中枢
雪麗 田家村で留守を守る、亡国の姫
銭弼 田家村の留守番役、元戸部三等官
趙 元山賊の頭領、男手の頭
桃 趙の五歳の娘
田の翁 田家村の長老
明都での三日目の朝。
林徳は宿の縁側で、許明と打ち合わせをしていた。
今日から、夏明国王の改革の最初の協議が、宮中で始まる。
議題は、明国南部の農民の税制改革。
林徳が田家村で実証した三色輪作と水路と布作りの三本柱を、明国南部全土に広げる計画。
戦盤は、まだ使っていなかった。
頭は、冴えていた。
「林徳どの。本日の協議は、午後でございます」
「ありがとうございます、許明さま」
「夏明国王さまも、ご出席なされます」
「左様でございますか」
林徳の心に、わずかに緊張が、走った。
社畜時代、彼は大企業の役員会議に参加したことがなかった。
いま、彼は十歳の体で一国の君主と、改革の協議をする。
(落ち着け、俺)
四十年の経験が、彼を、支えた。
──「初めての会議では、まず、聞く。話すのは、二回目から」。
社畜時代に、彼が若手の頃に最も助かった、先輩の教えだった。
◇ ◇ ◇
その同じ朝、田家村。
銭弼は、村の北の街道を見ていた。
いつもの朝の見回り。
日課になっていた。
元・戸部の役人としての、二十年の経験。
異変は、わずかな違和感から始まる。
(……何かが、おかしい)
街道に、商隊が三隊続けて、通り過ぎた。
ただの行商なら、問題はない。
だが、銭弼の目は見ていた。
──三隊とも、荷をほとんど積んでいない。
行商の馬車に、荷がないのはおかしい。
しかも、馬車の御者の手は農夫や行商の手では、なかった。
刀を握り慣れた、武人の手だった。
「徐どの」
銭弼は、近くで畑を、見ていた徐に、低く、声をかけた。
「街道の北の方角を、注意して見ていてください。──商隊がここ三日、増えております」
「銭弼どの、それは──」
「分かりません。──ですが念のため、趙さまにもお伝えください」
「承知」
徐は、すぐに走っていった。
銭弼は、街道を、見続けていた。
元・戸部の役人として、彼は、知っていた。
──「武装した者が、商人を装って、通過する場合、その背後には、必ず本隊が、いる」。
◇ ◇ ◇
明都、宮中。
午後の協議は、滞りなく進んでいた。
夏明国王、許明、藤、そして明国の改革派の重臣たち。
林徳は、若き君主の隣の席に、座っていた。
まだ子供用の、小さな椅子。
だが、その席は明国の最も重要な、改革会議の一席だった。
「林徳どの」
夏明国王が、林徳の方を向いた。
「田家村の三本柱、明国南部全土への展開。──いかが進めるべきか」
「夏明国王さま。お言葉、ありがとうございます」
林徳はゆっくり、立ち上がった。
四十年の社畜の頭が、いつものように、整理を、始めていた。
「まず、最初の三月で、五つの村に、試験導入を、お勧めいたします。一気に、全土に広げると、必ず失敗いたします」
「具体的に、いかがな村に」
「明国南部の田家村と地理的に似た条件の村。──水源があり、土地が輪作に向き、人口が五十人前後。──そのような村を、まず五つ」
夏明国王が、深く頷いた。
会議室の空気が、わずかに緩んだ。
明都の役人たちは、十歳の少年の采配を初めて目撃していた。
その的確さに、誰もが、驚いていた。
その時、会議室の戸口で、誰かが、低く、声をかけた。
「失礼いたします!」
藤が、立ち上がった。
戸口の使者に、近づいた。
使者は、息を切らせていた。
全身、土埃にまみれていた。
馬を極限まで駆けてきた、形相。
藤が、書状を両手で受け取った。
封を見た。
藤の顔色が、瞬時に変わった。
◇ ◇ ◇
「林徳どの!」
藤の声が、会議室に響いた。
「田家村からの、急報でございます!」
林徳の心臓が、止まった。
夏明国王、許明、重臣たち、全員が林徳の方を見た。
林徳は、藤から、書状を、受け取った。
封を、開いた。
銭弼の筆跡。
書状の内容は、簡潔だった。
『林徳どの
田家村の周辺に、武装集団の、影あり。
数、未確定。少なくとも、五十名以上。
商隊を、装い、複数の方向から、村に、接近中。
守りに、入りました。
雪麗さまと、桃さま、安全。
ですが、長くは、持ちません。
お急ぎ、ご帰村を。
銭弼』
林徳の手が、わずかに震えた。
戦盤が、瞬時に回り始めた。
──「五十名以上の武装集団」。
──「複数の方向から接近」。
──「商隊を装い」。
これは、明らかに計画的な大規模襲撃。
偶然の山賊では、ない。
(季雲どの)
林徳の戦盤は、即座に、答えに、辿り着いた。
季雲の覚え書きを、林徳は、まだ見ていない。
だが、勘が告げていた。
彼女の第三の罠は明都ではなく、田家村に仕掛けられていた。
◇ ◇ ◇
「夏明国王さま」
林徳は若き君主の前で、深く頭を下げた。
「申し訳ございません。──私は、本日、ここを、離れねば、なりません」
「林徳どの、田家村に何が」
「武装集団、五十名以上が村に接近しております。──私の村人たちが、危機に瀕しております」
夏明国王の表情が、瞬時に引き締まった。
「林徳どの。──馬で四日。間に合うか」
「分かりません。──ですが行かねばなりません」
「私の護衛隊を、付ける」
「お気持ち、ありがたく。──ですが護衛隊では、移動が遅うございます。私と関どの、蓮どので急ぎます」
夏明国王は、しばらく林徳の顔を、見ていた。
そして深く、頷いた。
「林徳どの。──最速の早馬を三頭、ご用意する」
「ありがとうございます」
「そして明国南部の街道沿いの宿駅にすべて、私の名で林徳どのをお通しするよう命じる。──馬の交換も最速で」
「夏明国王さま、何から何まで」
「行かれよ、林徳どの。──あなたの村は、明国の村でもある」
林徳は深く、頭を下げた。
戦盤の上で、夏明国王の駒が白く強く、輝いていた。
──彼は、もうただの、若き君主ではない。
──林徳にとっての、本物の味方だった。
◇ ◇ ◇
その同じ刻、田家村。
銭弼の急報が、明都に、届いた頃。
村の北の山では、すでに大規模な、武装集団が、集結を、終えつつ、あった。
数、約二百。
半分は、玄朝・袁派の私兵。
残り半分は、真明会の影の戦力。
元・玄朝近衛、元・流民、元・傭兵、寄せ集めの、しかし訓練された集団。
頭領は、四十代の男。
冷たい目をしていた。武人として二十年以上の、経験。
彼は、季雲から命を受けていた。
──「田家村を襲い、雪麗を生け捕りにせよ。村人は、できるだけ生かして捕らえよ」。
頭領は、地図を広げていた。
田家村の構造。北の街道、南の畑、西の水路、東の丘。
すべて、事前に調べ上げられていた。
「全員、配置につけ」
頭領の、低い声。
二百人が、四つの隊に分かれた。
北、南、西、東。
田家村を完全に包囲する形で、進軍を開始した。
◇ ◇ ◇
田家村、銭弼の家。
趙、徐、陳、李、新参の二十六人、村の長老衆、そして雪麗が集まっていた。
桃は、雪麗の、傍に、立っていた。
顔は青ざめていた。だが泣いていなかった。
五歳の女の子の中で、何かが固まっていた。
「銭弼どの。──ご指示を」
趙が、低く、口を開いた。
元・山賊の頭領。
いまは村の男手の頭。
彼の声には、覚悟があった。
「趙さま。──私は戸部の役人で、戦の経験はございません。ですが地形と配置の、知識はございます」
「銭弼どのに、お任せいたします」
雪麗が静かに、口を開いた。
亡国の姫。宮中で政の駆け引きを、見てきた者の声。
「銭弼さま。──私もお手伝いいたします。女手たちと子供たち、村の中心の神社に避難させます」
「お願いいたします、雪麗さま」
銭弼は、深く頷いた。
四十六歳の戸部の役人。
彼は、自分の手で、人を、率いた経験は、なかった。
だが、いま彼は村の指揮を、執らねばならなかった。
戸部で何百もの、地方の防衛報告書を読んできた。
その知識がいま、生きた。
「皆さま」
銭弼はゆっくり、立ち上がった。
「敵は推定二百名。私たちは男手だけで三十名ほど。女手も入れて五十名。──正面から戦っては勝てません」
「銭弼どの、ならば、いかが」
「籠城でございます。──神社の丘の上を最後の砦とします。村のすべての食料、水、武器を丘の上に集めます。林徳どのがお戻りになるまで、持ちこたえます」
◇ ◇ ◇
趙が、深く頷いた。
「銭弼どの、お見事なご判断でございます」
「ありがとうございます、趙さま」
「俺たち男手は丘の周りに防御陣を組みます。──元・山賊の経験で、籠城戦の要領は知っております」
「お頼みいたします」
雪麗が静かに、立ち上がった。
「私と、柳さまと、女手は、すぐに避難の、準備を、始めます。──桃」
「はい、雪麗さま」
「あなたは神社で、お年寄りのお世話をお願いします」
桃の目が、わずかに見開かれた。
五歳の子供に、初めて責任ある、役目が、与えられた。
「……はい、雪麗さま」
桃の声に、震えはなかった。
彼女もまた村の一員として、戦に、立とうとしていた。
雪麗は、深く頷いた。
その目に、わずかに涙が、滲んでいた。
──「あなたさまは、私が守る」。
心の中で、林徳に、約束した。
亡国の姫の覚悟。
彼女もまたもうただの、姫では、なかった。
◇ ◇ ◇
明都、宮中。
林徳、関、蓮、藤、許明の五人が、宮城の門の前に、立っていた。
夏明国王の最速の早馬三頭が、すでに用意されていた。
「藤さま、許明さま」
林徳は二人に、深く頭を下げた。
「私の、明都での、改革は、しばらく保留と、なります。──お許しください」
「林徳どの。──そのお話は、無用」
藤の声に、力が、こもっていた。
「あなたさまの村が、危機に瀕しております。──全力でお救いください」
「ありがとうございます」
許明も、深く頷いた。
「林徳どの。──ご無事の、お戻りを、お祈り、申し上げます」
「ありがとうございます」
林徳は、馬に、跨った。
関と、蓮が、続いた。
三頭の早馬が、明都の北門を駆け抜けた。
馬で四日の距離。
最速で二日半。
間に、合うか。
(雪麗さま、桃、銭弼さま、皆さま)
林徳は、馬上で、心の中で、呼んだ。
(俺は、必ず戻る)
◇ ◇ ◇
まだ林徳は、知らない。
季雲の覚え書きの内容を。
──「彼の最大の武器は、人を信じる力。その力を潰すには、彼が信じている人を奪うしかない」。
そして、田家村の北、二百名の武装集団の頭領が、季雲から、最後の指示を、受けていることを。
──「雪麗を生け捕りにせよ。彼女が林徳の最大の弱点である」。
明都と田家村の、二つの場所で、本当の戦いがいま始まっていた。
──時間との戦い。
──仲間の命を賭けた、戦い。
──そして、林徳が、初めて味わう、本物の、敗北の、可能性。
馬の蹄が街道を南へ、駆け抜けていった。
空は午後の光の中で、いつものように青かった。
だが、林徳の心の中では、嵐が、すでに始まっていた。
─ 第二十六話 了 ─
次回、第二十七話「街道を、駆ける」




