第二十五話 ─ 雪麗の文、明都の風
【前回までのあらすじ】
林徳は季雲の私室で、もう一人の転生者と初めて対面した。季雲は前世で歴史学者、五十二歳で異世界に来た知略家。彼女の論理は冷徹で一貫していた──「力による徹底改革で、長期の犠牲を最小化する」。林徳は反論した。「人を数字で見る者は必ず過つ」「私は法人営業で、一件一件の取引で人と向き合い続けた」。季雲は悲しく微笑み、「ならば後悔することになるでしょう」と告げた。林徳は宿に戻ったが、心の中で初めて自分の信念が揺らいでいた。──そして季雲は、玄朝・袁派の最高幹部に書状を書き始めていた。「次の段階に進む」。
【主な登場人物】
林徳 主人公。十歳。中身は四十歳の元法人営業マン
関明慶 主人公の最初の家臣。一騎当千
蓮 北方民の女猟師。半径二百歩の弓
藤 明国中央・戸部・尚書補佐
許明 夏明国王の侍読、若き学者
雪麗 田家村で留守を守る、亡国の姫(手紙で登場)
銭弼 田家村の留守番、元戸部三等官(手紙で登場)
桃 趙の五歳の娘(手紙で登場)
季雲 もう一人の転生者(影として)
季雲との対話の翌朝。
林徳は宿の二階で目を覚ました。
夜具をゆっくり畳んだ。
頭痛は、まだわずかに残っていた。
昨日の戦盤一回の代償。
そしてそれ以上に、心の中で深いざわつきが続いていた。
(俺は、本当に正しい選択をしたのか)
四十年の社畜の頭が、ふと揺れた。
季雲の言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
──「あなたはお優しい。ですがその優しさは明国を、滅ぼします」。
もし季雲の言う通りだったら。
もし人の心の改革を待つ間に、何百万の農民が苦しみ続けるなら。
──俺は、その犠牲を、本当に引き受ける覚悟があるのか。
林徳は、ゆっくり息を吐いた。
社畜時代に学んだある言葉が、頭の中で響いた。
──「迷ったら、現場に戻れ」。
大きな意思決定で迷った時、彼はいつも現場に戻った。客先で頭を下げて、もう一度人の顔を見ると、答えが見えた。
いま、彼にとっての現場は明都ではない。
田家村だった。
(戻りたいな、ちょっと)
◇ ◇ ◇
その時、宿の戸口で声がした。
関が出ていった。
しばらくして戻ってきた。
手に、一通の書状を、握っていた。
「主」
「関どの、いかがされましたか」
「田家村から飛脚が参りました。──書状でございます」
林徳の心臓が、わずかに跳ねた。
書状を両手で受け取った。
封を見た。
雪麗の筆跡だった。
幼い頃から宮中で学んだ、品のある筆跡。
林徳の十歳の指が、わずかに震えていた。
関、蓮、藤、許明の四人が、林徳の周りに集まった。
「主、お読みなされませ」
「はい、関どの」
林徳は書状を、ゆっくり開いた。
◇ ◇ ◇
『林徳どのへ
明都でのお務め、いかがでしょうか。
田家村は変わりなく、皆健やかにございます。
水路は無事、最終整備が終わりました。
今朝、谷川の水が、畑まで、流れました。
趙さま、徐さま、陳さま、李さま、新参の二十六人、全員で見守りました。
最初の水が畑の溝を走った時、皆声を上げました。
桃が、走って、私を呼びに、来ました。──「ゆきねえさま、みず、きた!」と。
私も畑に走り、皆と一緒にその光景を見ました。
徳殿、これはあなたさまが作られた光景でございます。
あなたさまがいらしたから、今この水が畑を潤しております。
桃は毎日、神社の前で蓮さまの弓の弟子三人と、稽古を見ています。
あの子は、もうただの五歳の女の子では、ございません。
強い人を見つけて、自分の中の「強さ」を育てています。
昨日は、私の手伝いで、布を、少し、織りました。
まだ上手では、ございませんが、本人は、得意げでございました。
趙さまの男手は皆、よく働いてくださっています。
元・山賊だったとは思えぬ、働きぶりでございます。
誰一人、過去を語ろうとはなさいません。
ただ今を、生きる、それだけでございます。
徳殿、あなたさまの「過去を問わぬ」お考えが、彼らを生まれ変わらせました。
銭弼さまは毎日、村の収支を丁寧に整理してくださっています。
黄家との取引の、二回目の納品が近づいております。
あなたさまがお決めになった、市場価格の九割の取引。銭弼さまは寸分の狂いもなく、進めてくださっています。
徳殿。
あなたさまが、村を、離れて、まだ十日ほど。
ですが、私の中ではずっと長い時間に感じます。
明都でのお務め、無事に終わってお戻りくださいませ。
お一つだけ、申し上げたく。
あなたさまが明都で何をお決めになっても、何をお引き受けになっても、私はそれを信じます。
あなたさまは私が宮中で見てきた、どの男性よりも人の心をご存知でいらっしゃいます。
ですから、あなたさまの、ご判断は、必ず人の心に、根を、持っているはずでございます。
お体を、お厭いくださいませ。
お早いお帰りを、お待ちしております。
田家村にて
雪麗』
◇ ◇ ◇
書状を読み終えた。
林徳はしばらく、動かなかった。
書状を持つ手が、わずかに震えていた。
頭の中の戦盤が、ゆっくり止まっていた。
代わりに、心の中で温かいものが広がっていた。
「主、いかがされましたか」
関の声に、彼はゆっくり顔を上げた。
「関どの。──皆さま」
林徳は書状の内容を、ゆっくり伝えた。
水路の完成。桃の成長。趙たちの働き。銭弼の収支管理。そして雪麗の最後の言葉。
話を聞き終えた蓮が、わずかに口を開いた。
「桃が、もう私の弓の弟子の稽古を、見ているのか」
「左様でございます、蓮」
「……あの子は強くなる」
蓮の声に、深い慈愛が滲んでいた。
三年家族のいなかった彼女が、いま新しい家族の成長を、遠くから見守っていた。
関が深く、頷いた。
「主。──雪麗さまのお言葉、見事なものでございます」
「ありがとうございます、関どの」
「『あなたさまのご判断は必ず、人の心に根を持っている』。──このお言葉、雪麗さまがあなたさまを最も深くご理解されている、何よりの証でございます」
林徳は深く、息を吐いた。
四十年の社畜の頭の中で、ある言葉が響いていた。
──「迷った時、人は自分を信じてくれる人の声を、思い出す」。
昨日、季雲の言葉で揺らいだ信念。
いま、雪麗の言葉でもう一度、地に根を下ろした。
◇ ◇ ◇
(俺は、間違っていない)
林徳は心の中で、もう一度確かめた。
季雲の論理は、冷徹で一貫していた。
だが、雪麗の言葉は温かく確かだった。
二人とも、別の正しさを持っている。
だが、林徳が選ぶのは雪麗が信じてくれる方の道だった。
彼はずっと、その道を歩いてきた。
社畜時代、ある先輩の言葉がいまも、彼の中に残っていた。
──「数字で勝つことより、信じてくれる人を裏切らないことの方が、大事だ」。
彼は四十年、その言葉を守ってきた。
異世界に来てからも、同じだった。
関が、わずかに笑った。
「主、お顔の色が戻られました」
「関どの、ありがとうございます。──昨日の戦盤の代償も、雪麗さまの文で癒えました」
「左様でございますね」
◇ ◇ ◇
その日の午後、林徳は宿の二階で、雪麗への返信を書き始めた。
紙は、藤が戸部から取り寄せた上質の紙。
筆は、許明が貸してくれた宮中の細筆。
林徳は、ゆっくり筆を握った。
十歳の指で、四十年の社畜の心を、文字に、変えた。
ふと、窓の外を見た。
明都の街並みは午後の光の中で、生き生きと動いていた。
石畳の大通りを馬車が行き来し、商人の呼び声が絶え間なく響いていた。
田家村の朝の、静かな鶏の声とは何もかも違う風景。
だが、林徳の心はいま田家村の朝にあった。
桃が雪麗を呼びに駆ける声。趙たちが水路を見守る後ろ姿。銭弼が縁側で帳簿をつける筆の音。
筆を紙に下ろした。
『雪麗さまへ
お便り、ありがとうございました。
明都でのお務めは、無事進んでおります。
水路の完成、何よりでございます。
桃が私を呼びに来た光景が、目に浮かびました。
あの子の声が、聞こえるようでございます。
趙さまの男手、銭弼さまの収支、すべて雪麗さまと皆さまの、お力でございます。
私は明都で、新しい大きな役目をお引き受けいたしました。
明国の改革を、夏明国王さまと共にお手伝いいたします。
ですが田家村が、私の根でございます。
明都で何をお引き受けしても、村に戻ります。
必ずお会いいたします。
雪麗さまの、最後のお言葉。
「ご判断は、必ず人の心に、根を持っている」。
このお言葉が、私の最大のお守りでございます。
四十年生きて、この、お言葉を、いただけて、私は、本当に幸せでございます。
お体を、ご大切に。
桃に、よろしくお伝えください。
明都にて
林徳』
◇ ◇ ◇
返信を書き終えた。
関に、頼んで、飛脚に、託した。
飛脚は深く頭を下げ、宿を出た。
明都から田家村まで、馬で四日。
雪麗の手元に届くのは、四日後。
林徳は宿の窓から、北の空を見た。
明都の街並みが、午後の光の中で輝いていた。
頭痛は、もう消えていた。
心の中のざわつきも、消えていた。
「関どの、藤さま、許明さま、蓮」
「主」
「明日から私たちは、明都での本当の活動を始めます」
「具体的に、いかがされますか」
「夏明国王さまの改革のお手伝い。そして季雲さまの、次の手の把握」
「承知いたしました」
◇ ◇ ◇
その時、明都の宮中の奥深く。
季雲の私室では、彼女が、机の前で、墨を、磨っていた。
昨日、書き始めた書状は、すでに玄朝中央の、ある高官へと、届けられていた。
返事を、待っていた。
季雲の机の上には、一冊の開かれた書物があった。
前世から彼女がずっと持っていた、頭の中の知識を書き出した、自分用の覚え書き。
ページの一つに、彼女はこう書いていた。
『林徳。
法人営業、十六年。
彼の最大の武器は、調査と分析と能力ではない。
彼の最大の武器は、人を信じる力。
その力を潰すには、彼が信じている人を奪うしかない。』
季雲は、ゆっくり墨を、磨り続けた。
彼女の目には、深い計算が宿っていた。
彼女は、すでに林徳の心の、根を、見抜いていた。
そしてその根を、どう揺さぶるか考えていた。
◇ ◇ ◇
まだ林徳は、知らない。
季雲が、田家村の、雪麗の存在を、すでに把握していることを。
そして、彼女が近いうちに田家村に、ある手を伸ばそうとしていることを。
明都での林徳の戦いは、明都の中だけでは終わらない。
田家村にも、同時に戦の影が忍び寄っていた。
雪麗からの、温かい文。
それは、林徳の心を癒した。
だが、その文が最後の平穏な便りに、なるかもしれない。
季雲の本当の第三の罠は、ここから始まろうとしていた。
─ 第二十五話 了 ─
次回、第二十六話「明都の改革、玄朝の影」




