第二十四話 ─ 季雲の誘い、二人の転生者
【前回までのあらすじ】
林徳は明都の宮中で、夏明国王と謁見した。夏明国王は転生者ではないが、祖父・夏景明が五十年前の転生者だった。祖父の遺した言葉──「わしは本を読むのが好きな商人だった。だから、もたらせる知識には限りがある」。それは林徳自身と完全に重なる。夏明国王は林徳に「人の心で国を変える」改革の協力を求めた。林徳は田家村との行き来を条件に承諾。控えの間を出る時、廊下で一人の女官とすれ違う。その目は冷たくはなく、深い知性と慈愛に満ちていた──だが、底知れぬものを宿していた。季雲。真明会の中枢、もう一人の転生者。本当の戦いが、ここから始まる。
【主な登場人物】
林徳 主人公。十歳。中身は四十歳の元法人営業マン
関明慶 主人公の最初の家臣。一騎当千
蓮 北方民の女猟師。半径二百歩の弓
藤 明国中央・戸部・尚書補佐
許明 夏明国王の侍読、若き学者
季雲 もう一人の転生者、真明会の中枢、宮中の典礼司
夏明国王 明国の若き君主
謁見が終わって、その夜。
林徳と関、藤、許明は明都の街中の宿に、戻った。
蓮が宿の二階で、待っていた。
彼女は林徳の顔を見て、すぐに立ち上がった。
「徳殿、ご無事で」
「ええ、蓮。ありがとうございます」
林徳は、夜具の上に、座った。
頭の中で戦盤が、今日の出来事をゆっくり整理していた。
夏明国王の招請。改革の協力。そして廊下ですれ違った、あの女官。
「皆さま、お話があります」
関、蓮、藤、許明の四人が、林徳の前に座った。
林徳はゆっくり、今日の謁見の内容を伝えた。
夏明国王の祖父・夏景明が転生者だったこと。林徳が改革の協力を引き受けたこと。そして廊下で季雲とすれ違ったこと。
話を聞き終えた関の眉が、深く寄っていた。
「主、明国の改革をお引き受けになった、と」
「はい、関どの」
「主、それは田家村だけでは収まらぬ、重荷でございます」
「分かっております」
林徳は深く、息を吐いた。
四十年の社畜の頭の中で、すでに心は決まっていた。
社畜時代、彼は大きな案件を、何度も断ってきた。
いま、彼は、初めて引き受けた。
その決断の重さを、関も蓮も藤も、感じ取っていた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
宿の戸口に、一人の使者が、立っていた。
明国中央の制服。手には一通の書状。
「林徳どのへ。典礼司・季雲さまより、御目通りの願いでございます」
藤の顔色が変わった。
許明の表情も、硬くなった。
林徳は書状を、両手で受け取った。
絹の薄紙。墨の文字は丁寧で、品があった。
『林徳どの
昨日、廊下にて、お見かけいたしました。
お話を伺いたく、本日午後、私の私室まで、お越しいただけませぬか。
お一人で、ご来訪を、お願い申し上げます。
季雲』
林徳の戦盤が、わずかにざわついた。
「お一人で」──その四文字に、深い意味が込められていた。
「主、お会いになられますか」
関の声に、強い警戒が滲んでいた。
「関どの、お会いいたします」
「主、お一人では危のうございます」
「いえ、関どの。──季雲さまが武力で私を害するなら、宿のここでいつでもそれは可能でございます。彼女が私を呼ぶのは、別の目的でございます」
「別の目的、と申しますと」
「言葉で私を引き入れる、ことでございましょう」
林徳は静かに、続けた。
「彼女の本当の力は武力ではなく、言葉。──そして言葉の戦いには、私一人で向かわねばなりません」
◇ ◇ ◇
藤と許明は、林徳の言葉に静かに頷いた。
関だけは、納得しなかった。
「主」
「関どの」
「お一人で宮中に入られるのは、いかにも危うい。せめて宮中の門の外まで、私がお送りいたします」
「ありがとうございます、関どの。──門の外までは、ご一緒に」
「主、もし戻られなかった時は」
関の声に、初めて震えが、滲んでいた。
二十年の武人。一騎当千の腕。
その関が、十歳の主のために震えていた。
「関どの」
「はい」
「もし、半日経っても、私が、宿に戻らなかった時。──蓮と藤さま、許明さまと、必ず宿で、合流してください。──そして、明都を、即刻、お離れください」
「主」
「私を救出に来てはなりません。──宮中の中で皆さまが戦になれば、夏明国王さまのお立場が悪くなります」
関はしばらく、答えなかった。
そして深く、頭を下げた。
「……承知いたしました」
林徳は、関の肩に、十歳の小さな手を、置いた。
「関どの。──私は、必ず戻ります」
◇ ◇ ◇
午後、林徳は一人で宮中の門を、潜った。
関は門の外で、立ち止まった。
蓮は宿の屋根の上から、宮中の門を見ていた。
藤と許明が、宿で待機していた。
宮中の中で、林徳は季雲の私室まで案内された。
案内役は若い女官。無言で深く頭を下げた。
長い廊下を、何度も、曲がった。
戦盤が、半径百歩以内の状況を感知していた。
──私室の周辺、衛兵は、いない。
──季雲一人で、林徳を、待っている。
──罠の気配は、ない。
戦盤を起動した。一回目。
頭痛が、すぐに走り始めた。
だが戦盤は、確かに告げた。
──「武力での襲撃の意図はない」。
林徳は深く、息を吐いた。
言葉の戦いだけが、待っていた。
◇ ◇ ◇
女官が、戸を開けた。
季雲の私室は、簡素だった。
書物が壁一面の棚に、整然と並んでいた。
机の上には、開かれた書物と筆と墨。
香炉から、微かな香りが立ち上っていた。
季雲は、机の手前に、座っていた。
昨日廊下で見た、藍色の衣。髪をきっちり結んでいた。
林徳の入室に、彼女は、ゆっくり、立ち上がった。
「林徳どの。お越しくださり、ありがとうございます」
声は、静かで、深く落ち着いていた。
四十代の女性の、知性と慈愛に満ちた声。
林徳は深く、頭を下げた。
「林徳にございます。お招き、ありがとうございます」
「お座りください」
季雲は、林徳に、自分の向かいの席を、勧めた。
二人は机を挟んで、向かい合った。
季雲が、自分の手で、茶を、注いだ。
所作は優雅で、隙がなかった。
「林徳どの」
「はい」
「私とあなたは、同じ世界から来ました」
林徳の戦盤が、一気に、警戒の盤面を、開いた。
──断定。彼女はすべてを知っている。
「左様でいらっしゃいますか」
「私は、五十二歳で、こちらに、参りました。前世では、ある大学の、歴史学者でございました」
「……」
「あなたは四十歳で参られた。前世では、法人営業のお仕事を長く」
林徳の体が、わずかに震えた。
戦盤は、まだ警戒の盤面を、開いたまま。
季雲は林徳の出自すら、正確に知っていた。
◇ ◇ ◇
「季雲さま、なぜ私のことをそれほどご存知でいらっしゃいますか」
「神は転生者同士の存在を、お互いに教えてくださることがございます。──ですが詳細までは、見せません」
「……」
「ですからあなたの情報は、私が独自に調べ上げたものでございます。あなたが田家村で何をなさったか、どのような仲間をお持ちか、すべて」
「……ご丁寧なお仕事でございますね」
林徳は静かに、答えた。
声に、皮肉は込めなかった。
だが、四十年の社畜の頭の中で、ある事実が、明確に、なっていた。
──「彼女は、私を、敵と見なしているか、それとも、味方候補と見ているか、どちらにせよ、調査は、徹底している」。
「林徳どの。──本題に入らせていただきます」
「お聞かせください」
「あなたは昨日、夏明国王さまから明国の改革の協力を、お求められになった」
「左様でございます」
「そしてお引き受けになった」
「左様でございます」
季雲は、わずかに笑った。
「──夏明国王さまは優しいお方でいらっしゃる。だがお考えが、甘うございます」
◇ ◇ ◇
「お考えが甘い、と申しますと」
「明国の改革は、もう緩慢な、人の心の改善では、間に合いません」
「……」
「明国の旧貴族派は土地と富を握ったまま、農民を搾取し続けている。袁派内通の貴族は玄朝の宦官と内通し、明国を属国に戻そうとしている。──この二つの勢力を、人の心の変化で変えられるとお思いですか」
林徳はしばらく、答えなかった。
戦盤の上で、季雲の論理が、瞬時に展開されていた。
(季雲さまのご指摘は、正しい部分もある)
(明国の現状は確かに、人の心の変化だけでは変えられない構造的な問題が、存在する)
(だが力での粛清は、別のもっと深い問題を、生む)
「季雲さま」
「はい」
「あなたさまのご指摘、よく分かります」
「ありがとうございます」
「ですが、お一つお尋ねしたく」
「何でしょうか」
「力で旧貴族派と袁派内通派を粛清した後、明国はどうなるのでしょうか」
◇ ◇ ◇
季雲の目が、わずかに輝いた。
彼女は、待っていた問いだった。
「素晴らしい問いでございます、林徳どの」
「……」
「粛清の後、明国は清浄な国に生まれ変わります。腐敗の元凶をすべて取り除いた、純粋な国に」
「具体的に、いかがされますか」
「土地は農民に再分配。商業は新しい清廉な役人に。教育はすべての子供に。──私の前世の世界で、ある国が二十世紀に行った改革と、似た形になります」
林徳の戦盤が、一気に、回り始めた。
二十世紀。土地の再分配。粛清。
──ある巨大国家の、悲劇。
あるいは、もっと深い別の悲劇。
「季雲さま」
「はい」
「私も前世の歴史を、ある程度学んでおります。──二十世紀の土地再分配と粛清の改革は、いかなる結果に終わりましたか」
季雲の目が、わずかに揺れた。
彼女は林徳が、その歴史を知っていることを、計算していなかった。
社畜の前世。歴史学者ではない。
ただ本好きの、商人。
だが、その商人が二十世紀の歴史を、知っていた。
◇ ◇ ◇
「……結果は、ご存知の通りでございます」
「左様でございます。──数千万人の死。家族の崩壊。文化の破壊。経済の停滞。──そして最終的に、改革そのものが失敗いたしました」
「……」
「季雲さま。あなたさまは、本当に明国を、その道に、向かわせるおつもりですか」
季雲は、しばらく答えなかった。
茶碗を、両手で、握っていた。
香炉の煙が、ゆっくり立ち上っていた。
「林徳どの」
「はい」
「私は明国を、その道に向かわせるつもりはございません」
「……」
「ですが人の心の変化で改革を待つ道は、もっと長い時間がかかります。その間に何百万、何千万の農民が、現在の腐敗の下で苦しみ、死んでいきます」
「……」
「私はその犠牲を、最小化したいのです。──力での粛清がたとえ数万の犠牲を出すとしても、長期的に人の心の改革で、何百万、何千万の犠牲を出すより、よろしいと私は判断しております」
林徳は深く、息を吐いた。
季雲の論理は、冷徹だが一貫していた。
功利主義の極み。
四十年の社畜の頭の中で、ある言葉が響いていた。
──「人を、数字で、見る者は、必ず過つ」。
◇ ◇ ◇
「季雲さま」
「はい」
「あなたさまのお考え、深く頂戴いたしました。──ですが私は、お引き受けすることができません」
季雲の目が、わずかに見開かれた。
「なぜ、ですか」
「人を数字で見ることが、できないからでございます」
「……」
「私の前世はただの法人営業でございました。客先で頭を下げて、商品を売る仕事。一件一件の取引で、人と向き合い続ける仕事でございました」
「……」
「私には一万の命を千の命と引き換えにする、計算ができません。一万の命の中に一人一人、顔が見えてしまうのです。──それは私の能力ではなく欠点でございます。ですがその欠点ゆえに、私は人を数字で扱う改革を、引き受けることができません」
季雲は、しばらく林徳の顔を、見ていた。
その目には、深い観察が宿っていた。
歴史学者の目。
人類の何千年もの歴史を知り尽くした者の、目。
「林徳どの」
「はい」
「あなたはお優しい。──ですがその優しさは、明国を滅ぼします」
「……」
「お考え直しをお勧めいたします。──私と共に明国を、根本から作り変えませんか」
◇ ◇ ◇
林徳の頭の中で、戦盤が最後の盤面を展開した。
季雲の論理。
彼女の冷徹さ。
その奥にある、本物の使命感。
彼女は、悪人ではない。
ただ自分が、信じる正しさのために、力を行使することを、選んだ、知略家。
四十年の社畜の経験から、林徳は知っていた。
──「正義を信じる人間ほど、最も危険である」。
悪意の人間は、止められる。
だが、正義を信じて力を振るう人間は、止められない。
「季雲さま」
「はい」
「お言葉、確かに、頂戴いたしました。──ですが、私の答えは、変わりません」
「……」
「私は夏明国王さまと共に、人の心で明国を変える道を選びます。たとえその道が長く苦しく、犠牲を出し続けるとしても」
季雲は、ゆっくりと立ち上がった。
茶碗を、机に、置いた。
その所作は、優雅だった。
だが、目には、初めて深い、寂しさが、宿っていた。
「林徳どの。──お分かりになりますか」
「何が、でしょうか」
「あなたと私は、同じ世界から来た、おそらく唯一のもう一人の人間でございます。──その私を敵に回されることの、重みを」
「……」
「神は私たちを二人、こちらにお遣わしになりました。──祖父を入れれば、三人。私たちは本来、手を取り合うべき同志でございました」
「左様でございますね」
「ですがあなたは、私の手を取らなかった」
季雲は、わずかに微笑んだ。
その微笑みは、深く悲しかった。
「ならば、後悔することになるでしょう」
◇ ◇ ◇
林徳は深く、頭を下げた。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
「季雲さま。──お話、ありがとうございました」
「林徳どの。──お気をつけて、お帰りください」
「ありがとうございます」
部屋を出た。
長い廊下を、戻った。
頭痛が、ひどく走り始めていた。
戦盤の一回目の代償。
そしてそれ以上に、心の中で深いざわつきが、続いていた。
(俺は、本当に正しい選択を、したのか)
(季雲さまのお考えにも、正しい部分があった)
(人の心の改革は、確かに、長い時間が、かかる。その間の犠牲を、私は、本当に引き受ける覚悟が、あるのか)
四十年の社畜の頭が、初めて揺れていた。
戦盤の上で、林徳の駒の、白さが、わずかに曇っていた。
──完全な勝利ではなかった。
季雲との対話は、引き分けに近かった。
いや、もしかすると彼女の言葉の一部が、林徳の心の中で種を植えたのかもしれない。
◇ ◇ ◇
宮中の門を出た。
関が、待っていた。
関の顔を見て、林徳は、ようやく、息を吐いた。
「主、ご無事で何より」
「ええ、関どの」
「いかが、でございましたか」
林徳はしばらく、答えなかった。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「関どの。──季雲さまは敵では、ございません」
「主、それは──」
「ですが、味方でもございません」
「……」
「彼女は私と同じ、転生者でいらっしゃる。──同じ世界から来た、別の正義を信じる、もう一人の私でございます」
関はしばらく、答えなかった。
そして深く、頭を下げた。
「主、お帰りなさいませ。──宿にお戻りいただきましょう」
「はい、関どの」
二人は明都の街を、歩いた。
夕日が、街並みを、赤く、染めていた。
林徳の十歳の体は、わずかに震えていた。
頭痛だけではなかった。
心の中で、初めて自分の信念が、揺らいでいた。
◇ ◇ ◇
まだ林徳は、知らない。
季雲が彼の去った後、机の上に一枚の書状を、書き始めていることを。
その書状の宛先は、玄朝中央のある高官。袁派の最高幹部。
書状の内容は、簡潔だった。
──「林徳は味方にならず。次の段階に進む」。
明都の宮中の深い闇の中で、本当の戦いがいま、始まろうとしていた。
─ 第二十四話 了 ─
次回、第二十五話「雪麗の文、明都の風」




