第二十二話 ─ 明都の城壁、その手前で
【前回までのあらすじ】
明都へ向かう街道、五日目。藤の経験で道端の「倒れた男」の罠を見抜き、関の白兵戦と蓮の弓で三方の伏兵を撃退。林徳は戦盤を一度も使わずに勝ち、「能力ではなく、人を信じる力で勝つ」という第二の武器を、初めて実証した。藤は深く感銘を受け、夏明国王への最善の橋渡しを誓う。最後の宿で、屋上の蓮との会話で「桃を家族と思っている」と告白。明日の昼、林徳は明都の城壁を潜る。──そして、城壁の一里手前で、夏明国王の腹心・許明が、彼を待っていた。
【主な登場人物】
林徳 主人公。十歳。中身は四十歳の元法人営業マン
関明慶 主人公の最初の家臣。一騎当千
蓮 北方民の女猟師。半径二百歩の弓
藤 明国中央・戸部・尚書補佐
許明 夏明国王の侍読、若き学者(今回登場)
夏明国王 明国の若き君主
夏景明 夏明国王の祖父、先代明王(故人、本話で登場の名)
崔泰 明都の貴族、真明会の表向きの代表者
六日目の朝。
馬隊は最後の宿場町を出発した。
空は晴れていた。
風は西から東へ、緩やかに流れていた。
馬上の林徳は北の空に、わずかに、城壁の影を見ていた。
明都だった。
はるか彼方、地平線の上に、薄く灰色の線が、横たわっていた。
「藤さま」
「はい」
「あれが、明都でございますか」
「左様でございます。──昼前には城壁の手前に、到着いたします」
林徳は深く、息を吐いた。
社畜時代、彼は大企業の本社ビルを初めて見上げた時の感覚を思い出した。
遠くから見ると、ただの灰色の建物。
だが、近づくほどに、その重みが心を圧した。
いま、彼は十歳の体で、それをもう一度、味わっていた。
◇ ◇ ◇
半刻ほど進んだ頃、街道の先に一頭の馬が見えた。
馬上の人物が街道の脇で、待っていた。
動きはない。
明らかに馬隊を待っていた。
関の手が刀の柄に触れた。
蓮の目がすでに、馬上の人物を観察していた。
「徳殿、武装はない」
蓮の声に、警戒の色は薄かった。
「絹の衣。学者風。剣も弓も佩いていない」
藤が馬上でわずかに、目を細めた。
馬上の人物の姿が、はっきり見えるところまで馬隊が近づいた。
藤の表情が変わった。
「林徳どの。──あれは許明さまでございます」
「許明、さま」
「夏明国王さまの侍読を、お務めの方。──宮中の典籍を司る、若き学者でございます」
「侍読、と申しますと」
「君主のお側で、書物をお読みになる役。──幼少期から夏明国王さまにお仕えしておられる、最もご信頼の篤い、お一人でございます」
林徳の戦盤がわずかに、ざわついた。
夏明国王の腹心が、城壁の手前で待っていた。
これはただの出迎えではない。
◇ ◇ ◇
馬隊が、許明の馬の数歩手前で止まった。
許明はゆっくりと馬から降りた。
若い男だった。
二十代半ば。痩せた体。学者らしい、品のある立ち姿。
絹の青い衣。腰には墨入れと筆。武器は何一つ、佩いていない。
顔は温厚そうだった。
だが目の奥に、深い知性が宿っていた。
獲物を観察する猟師の目ではない。
人の心を、本一冊として読んでいく、学者の目。
四十年の社畜の感覚で、林徳は瞬時に悟った。
──「この人物は本物の学者だ。そして、おそらく最も警戒すべき人物」。
武力で人を屈服させる人間より、知性で人を見抜く人間の方が、はるかに警戒が必要。
「お初に、お目にかかります」
許明の声は静かで、品があった。
「許明と申します。──夏明国王さまの命をお受けして、ご一行をお迎えに参りました」
林徳は馬からゆっくり降りた。
深く頭を下げた。
「林徳にございます。──ご足労、誠に恐れ入ります」
許明は、わずかに笑った。
その笑みは温かかった。
だが目の奥は、笑っていなかった。
観察していた。
林徳の顔を、姿勢を、声を、そして後ろの仲間たちを。
「林徳どの。お会いできて、光栄でございます」
「過分なお言葉、頂戴いたします」
◇ ◇ ◇
許明は街道の脇の、大きな松の下を指さした。
「お疲れでございましょう。お話を、お聞きしたきことがございます。──しばし、こちらでご休憩を」
松の下には藁の敷物がすでに敷かれていた。
茶の支度も整っていた。
すべてが許明の手配で、整えられていた。
林徳の戦盤が瞬時に、警戒を強めた。
(明都に入る前に、私に何かを伝えようとしている)
(その内容は夏明国王さまの、最も近い人物だけが知る情報)
(つまり宮中に入ってから、誰かに聞かれてはまずい話)
戦盤を使った。
今日の一回目。
許明の表情、立ち姿、所作、すべてを戦盤に入れた。
(彼は敵ではない。──だが、ただの友好でもない)
(試されている。──夏明国王さまが、私を明都に迎え入れるか、最終判断のため)
頭痛がわずかに、走り始めた。
戦盤一回目の代償。
林徳はそれを押さえながら、敷物に座った。
◇ ◇ ◇
藤、関、蓮は、林徳の後ろに控えた。
許明は林徳の正面に座った。
茶を両手で、林徳に差し出した。
林徳は両手で受け取り、一口飲んだ。
温かい緑茶だった。
「林徳どの」
「はい」
「お話を申し上げる前に、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「何でしょうか」
「あなたは夏明国王さまの、何をご存知でいらっしゃいますか」
林徳の戦盤が瞬時に、過去を再生した。
──同じ問いを、崔泰から受けた。
崔泰の問いは林徳の派閥への忠誠度を、測るものだった。
許明の問いは、何を測ろうとしているのか。
戦盤はまだ読めなかった。
林徳はゆっくりと答えた。
「夏明国王さまはお若く、明国の改革にお心を砕いておられる。──私が存じておりますのは、それだけでございます」
「ふむ」
許明はしばらく、林徳の顔を見ていた。
そしてわずかに微笑んだ。
「林徳どの。──ご賢明でいらっしゃる」
崔泰と同じ言葉。
だが声色は、まったく違った。
崔泰の「賢明」は相手を警戒する言葉だった。
許明の「賢明」は相手を慈しむ言葉だった。
四十年の社畜の頭が、その違いを瞬時に感じ取っていた。
◇ ◇ ◇
「林徳どの」
「はい」
「これから私が申し上げる話は、明都の宮中の中でも、ごく限られた者しか知らない、機密でございます。──ですが、あなたにお伝えせねばならないと、夏明国王さまがお決めになりました」
林徳の心臓がわずかに、波打った。
戦盤が警戒を、最大に強めた。
「お聞かせください」
許明は深く息を吐いた。
しばらく目を伏せた。
風が松の枝を揺らした。
茶の湯気が、ゆっくりと、空に消えた。
許明は、目を上げた。
その目には、ある覚悟が、宿っていた。
「林徳どの」
「……はい」
「夏明国王さまは、転生者では、ございません」
林徳の体が、止まった。
茶碗を持つ手がわずかに震えた。
時間が、止まったように、感じた。
関と蓮と藤は、林徳と許明の向かい合いを、無言で見守っていた。
彼らは許明の言葉の、本当の意味をまだ知らなかった。
だが林徳の表情の変化を見て、何か重大な話が進んでいることを悟っていた。
「ですが」
許明は、続けた。
「夏明国王さまの祖父にあたる、先代明王さまは、──転生者でいらっしゃいました」
林徳の戦盤が、一気に凍りついた。
◇ ◇ ◇
「許明さま」
林徳はようやく、声を出した。
「先代明王さまが、転生者、と」
「左様でございます。──いまから五十年前、明国の先代王、夏景明さまは、別の世界から転生して参りました」
「……」
「彼はその世界の知識を、明国にもたらしました。農業、医療、建築、行政、すべて、現在の明国の繁栄の礎を築いた方でございます」
「……」
「夏明国王さまは、そのご孫にあたります。──ご祖父さまのご遺志を継いで、いまの明国を、より確かな国にしようと、お心を砕いておられます」
林徳はゆっくりと、茶碗を置いた。
頭の中で戦盤と万書の眼が、混乱して回っていた。
四十年の社畜の頭が、ようやく整理を始めた。
(先代明王が転生者。──五十年前)
(その知識で明国の現在の繁栄が築かれた)
(夏明国王さまはその孫。ご自身は転生者ではない)
(だがご祖父の遺志を継いでいる)
(私を招請したのは、ご祖父と同じ転生者の存在を、確かめたかったから)
林徳は深く息を吐いた。
戦盤の上で明都の盤面が、一気に書き換えられていた。
──夏明国王の招請は、ただの「優秀な少年への賛美」ではない。
──「祖父と同じ転生者の到来」を確認するための招請だった。
◇ ◇ ◇
「許明さま」
「はい」
「もう一つ、お聞かせください。──私が転生者であることを、夏明国王さまは、いかにしてお知りになりましたか」
許明はわずかに笑った。
その笑みには奥深い含みがあった。
「林徳どの。──明都には、もう一人、転生者がおります」
林徳の戦盤がようやく、答えに辿り着いた。
(崔泰どの。──いや、違う)
(崔泰どのが転生者なら、彼自身が能力を使うはず。だが彼は能力を使った気配がなかった)
(彼は転生者から情報を得ている、第三者)
(つまり明都のもう一人の転生者は、別人)
「許明さま、お聞きしてもよろしいか」
「何でしょうか」
「そのもう一人の転生者は、夏明国王さまのご味方でいらっしゃいますか」
許明の表情がわずかに、暗くなった。
「……かつては、ご味方でいらっしゃいました」
「……かつては」
「左様でございます。──五年前、その方は夏明国王さまのご招請をお受けして、明都に参られました。当初、ご祖父さまと同じく、改革のためにお働きくださいました。──ですが三年前、お考えに変化がございました」
「変化、と申しますと」
「『明国の改革は緩慢すぎる。もっと徹底的に行わねばならぬ』、と。──そして、宮中の旧貴族派、袁派内通派、すべてを武力で粛清すべし、と、ご進言なされました」
「夏明国王さまはそれを、お断りなされた」
「左様でございます」
「そしてその転生者は」
「いまは、宮中の別の派閥に属しております。──夏明国王さまの改革派でも、旧貴族派でも、袁派内通派でもない、第四の派閥」
◇ ◇ ◇
「許明さま、その派閥の名は」
許明はしばらく、答えなかった。
松の葉がわずかに揺れた。
風が止まった。
そして許明は、ゆっくりと口を開いた。
「真明会、と申します」
「真明、会」
「先代明王・夏景明さまの、本当の遺志を継ぐ会、という意味でございます」
林徳の戦盤が一気に、回り始めた。
(先代明王の本当の遺志──「明国の徹底的な改革」)
(だが夏明国王さまは、それを緩やかに行う道を選んだ)
(つまり真明会は、孫である夏明国王さまを、「祖父の遺志に背く者」と見なしている)
(夏明国王さまを廃して、別の君主を立てる、可能性もある)
「許明さま。──崔泰どのも、真明会のお一人でいらっしゃいますか」
「左様でございます。──崔泰どのは真明会の、表向きの代表者。袁派と内通しているのは、真明会の戦略の一部に過ぎません」
「……」
「林徳どの。──あなたが明都にお入りになると、必ず真明会の中の、もう一人の転生者と対面することになります。──それを、お覚悟いただきたく」
◇ ◇ ◇
(戦盤は半径百歩しか読めない)
(万書の眼は技術書を読んでいない)
(縁は制御できない)
(私の能力は、もう一人の転生者の前では、通用しないかもしれない)
頭痛がひどくなっていた。
戦盤一回目の代償が、まだ続いていた。
だが林徳は許明に、もう一つ、問いを投げた。
「許明さま。──夏明国王さまは、私に何をお望みでいらっしゃいますか」
許明はしばらく、林徳の顔を見ていた。
そして深く頷いた。
「夏明国王さまはご祖父さまと同じ、ある世界からの転生者を、お探しでございました。それはご祖父さまのご遺志を継ぐためではございません」
「……」
「夏明国王さまの本当のお望みは、──ご祖父さまがもたらした知識の限界を、知っている、もう一人の転生者に、お会いすること」
「限界、と申しますと」
「ご祖父さまは明国に多くの知識をもたらしました。だが、その知識には限界がございました。火薬の正確な配合、蒸気の機関、電気の利用、すべて、ご祖父さまもお知りでありながら、お実装できませんでした」
「……」
「夏明国王さまは、その限界をご理解いただけるお方を、求めておられます。──別の転生者と共に、その限界の向こう側を目指したい、と」
林徳は深く息を吐いた。
四十年の社畜の頭の中で、一つの深い理解が生まれていた。
夏明国王の招請は、林徳の「能力」を求めるものではなかった。
林徳の「限界の理解」を、求めるものだった。
──「同じ転生者として、何ができて何ができないか、を共有できる相手」。
それは林徳が、もっとも求めていた、対話の相手だった。
「許明さま」
「はい」
「夏明国王さまのお考え、深く頂戴いたしました。──私は、夏明国王さまにお会いして、ご祖父さまの遺志ではなく、ご祖父さまの限界を、お話し申し上げます」
許明は、初めて深く笑った。
「林徳どの。──夏明国王さまも、それをお望みでいらっしゃいます」
◇ ◇ ◇
松の下を立った。
馬隊は再び、街道を北へ進んだ。
明都の城壁が近づいていた。
灰色の、巨大な石の壁。
その手前で、馬隊が止まった。
城壁の門の前には、明国中央の衛兵が整列していた。
藤が馬上で衛兵に、夏明国王の招請の書状を提示した。
衛兵が深く、頭を下げた。
門がゆっくりと開いた。
林徳は馬上で、城壁を見上げた。
──明都。
その向こうには宮中、貴族、派閥、もう一人の転生者、すべての複雑な世界が待っていた。
「主」
関が隣で、低く声をかけた。
「お入りに、なられますか」
「はい、関どの」
林徳は深く息を吐いた。
戦盤も万書の眼も、ここでは限られている。
だが彼にはまだ、武器が残っていた。
仲間、そして人を信じる力。
「参りましょう」
馬隊は、城門を潜った。
まだ、林徳は知らない。
城壁の中の宮中の、奥深くで、もう一人の転生者が、彼の到着をすでに知っていることを。
そしてその人物が、林徳の「能力ではない武器」が、いかなるものかを、興味を持って見つめていることを。
その人物の名は、季雲。
明都の宮中の典礼を司る、四十代の女官。
彼女が、林徳の物語に、これから、どう関わってくるか。
──それは、明日からの、新しい戦の中で、明らかになる。
─ 第二十二話 了 ─
次回、第二十三話「明都の宮中、夏明国王との謁見」




