第二十一話 ─ 最後の街道、信じる力
五日目の朝。
馬隊は別の街道を進んでいた。
藤の判断で本来の旅程をさらに変更。崔泰との遭遇のあと、もう一度経路をずらした。
明都までの距離は、もう二日。
空は曇っていた。
風は北から南へ。
肌寒い朝だった。
林徳は馬上で、深く息を吐いた。
白い吐息が、わずかに、空に消えた。
頭の中で、四十年の社畜の経験が、明日に向けて整理されていた。──最大の客先案件は、必ずチームで動いた。一人で抱え込んだ案件は、ことごとく潰れた。今、彼は、それを十歳の体で、もう一度実践しようとしていた。
「主、戦盤は」
関が馬上から、低く問うた。
林徳はゆっくりと首を振った。
「今日は使いません」
「……」
「崔泰どのが私の戦盤を外から計っているなら、使うたびに情報を与えます。今日は皆さまの目と耳をお借りします」
関が深く頷いた。
蓮も無言で、馬上から頷いた。
藤は後ろから聞いていた。
明国中央の役人として、地方の名士から「自分一人で采配できない」と告げられたのは初めてだった。
彼の中で、林徳という人物像が、また一段、深まった。
◇ ◇ ◇
半刻ほど進んだ頃、街道の前方に人影が見えた。
道の真ん中に、誰かが倒れていた。
馬隊がゆっくりと近づいた。
倒れているのは五十代の痩せた男だった。
旅装。腕にわずかな血。意識はないらしい。
「藤さま」
林徳は馬上で、藤に振り向いた。
「いかが、お見えになりますか」
藤はしばらく、馬上から倒れている男を観察した。
明国中央の役人として、二十年の経験。
戸部の地方視察で、何百もの宿場町と街道と村を見てきた目だった。
本物の負傷者、本物の病人、そして罠。
藤はゆっくりと口を開いた。
「罠でございます」
林徳の心臓が、わずかに、波打った。
戦盤を回さなかった。
代わりに藤の言葉に、深く頷いた。
「お聞かせください」
「倒れた男の衣の汚れ方が、自然ではない。──地面で倒れたなら、土が片側に偏って付くはず。だが男の衣は、均等に薄く土がついている。誰かがわざと、衣に土を撒いた」
「……」
「腕の血も不自然。本物の傷ならもっと深く流れる。あれは新しい、わずかな切り傷。──演技でございます」
「……ありがとうございます、藤さま」
林徳は深く頭を下げた。
戦盤を使わずに、藤の経験で罠を見抜けた。
仲間を信じる選択が、正しかった。
「関どの、蓮さま。敵の伏兵を、お探しください」
◇ ◇ ◇
関は刀の柄に手をかけたまま、ゆっくりと街道の左右を観察した。
武人として二十年。
彼の目は戦場の細部を読む目だった。
風の流れ、草の揺れ、鳥の動き。
関は声を低めた。
「右の藪。複数の人。獣ではない。武装している」
蓮の弓は、すでに矢を番え終わっていた。
彼女の目は左の岩肌の上、街道の前方、後方、すべての方角を瞬時に走査していた。
「左の岩、上の方、もう一組。前方の藪、もう一組。三方から囲まれている」
林徳の体がわずかに震えた。
戦盤を使わずに、この情報を得ていた。
仲間の目だけで。
──「自分の能力では、こういう複層の罠は見抜けなかった」。
「藤さま、馬隊の指揮をお願いいたします。護衛十一人は外側に剣を構えて、馬隊を守ってください」
「承知」
◇ ◇ ◇
藤の声が、馬隊に響いた。
「全員、停止! 馬隊を円陣に組め! 護衛は外側に剣を構えよ!」
護衛十一人が、馬を林徳と藤と関と蓮の周囲に円陣に回した。
馬隊が街道の中央で止まった。
その瞬間、左の岩肌の上から、矢が二本飛んできた。
関の刀が宙で一本払った。
残り一本は、馬の脇に突き立った。馬がわずかに暴れた。
次の瞬間、右の藪から五人の男が、剣を持って飛び出してきた。
黒い装束。顔を布で覆っていた。
明国の役人風ではない。
「来た!」
関の声と同時に、彼の刀が抜かれた。
最初の一閃。
先頭の男の剣を、軽く払う。
次の一閃。
男の足を払う。
男は声を上げて転倒した。
関は止めを刺さなかった。
主の方針に従っていた。──「敵を止めて、生かす」。
二人目。
刀の柄で胴を突き、相手の息を止める。
三人目。
刀の腹で、相手の剣を弾き、足払いで転倒させる。
四人目、五人目。
関の動きには無駄がなかった。
二十年の研鑽が、刀の一閃ごとに、宿っていた。
◇ ◇ ◇
蓮の弓が、すでに左の岩肌に向いていた。
ぎりっ、と弦が引き絞られた。
矢が放たれた。
岩肌の上の一人が声を上げて転がった。
二発目、三発目。
すべて致命を外して、足や肩を貫いた。
三人目を射った時、蓮はわずかに笑った。
復讐者として三年、彼女は長く、人を殺すための矢を引いてきた。
いま彼女は、人を生かすための矢を引いていた。
その違いの中に、彼女は新しい自分を見ていた。
左の岩肌、無力化完了。
残るは前方の藪。
しかし、前方の藪からは、誰も出てこなかった。
戦況を見て、退却した、らしい。
◇ ◇ ◇
所要時間、半刻もなかった。
関と蓮だけで、戦が終わっていた。
藤の護衛十一人は、剣を抜いていたが、一度も使わなかった。
馬隊に、負傷者はゼロ。
倒した敵は、生け捕り、五人。射た敵は、傷を負って転がっている、三人。
藤が馬上から、関を見ていた。
その目には、深い敬意があった。
──「玄朝近衛将軍家の三男。噂は聞いていたが、これほどとは」。
林徳は、馬上から一度も降りなかった。
戦の間、戦盤を一度も起動しなかった。
関と蓮の動きを、ただ見ていた。
藤の指示を、ただ聞いていた。
自分一人ではできない戦を、仲間が勝ってくれた。
その光景の中に、彼は四十年の社畜時代に、初めて味わう感覚を覚えていた。
──「自分が何もしていない。だが、自分の存在が皆を動かしている」。
いま、彼は十歳の体で、ようやくそれを味わっていた。
「主」
関の声に、林徳は振り返った。
「お味方、無事でございます」
「ありがとうございます、関どの」
林徳は深く頭を下げた。
関、蓮、藤、護衛十一人、全員に頭を下げた。
「皆さまのおかげで、勝てました。──私は本日、戦盤も万書の眼も、一度も使っておりません」
藤の目が、わずかに見開かれた。
しばらく、林徳の言葉の意味を、咀嚼していた。
「林徳どの、それは──」
「左様でございます。──私の能力ではなく、皆さまの目と腕で勝てました」
藤の表情が変わった。
明国中央の役人として、何百もの戦の報告書を書いてきた藤。
彼は、林徳の言葉の意味を深く理解した。
──「主将が、自らの能力を使わず、配下の力だけで勝った」。
それは、軍記に特筆して書かれるべき事例だった。
藤は深く頷いた。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、馬隊は最後の宿場町に到着した。
明都まで、馬で半日の距離。
明日の昼前には、城壁が見える。
宿の二階の小部屋で、林徳、関、蓮、藤の四人が向き合った。
藤が、深く頭を下げた。
「林徳どの。本日、私の経験をお信じくださり、ありがとうございました」
「藤さま、その逆でございます。──あなたさまの目がなければ、私は罠に気づきませんでした」
「いえ」
藤の目に、深い感慨があった。
「私は戸部の役人として二十年。何百もの地方を視察してまいりました。──ですが、私の経験をこれほど信じてくださった主将は、林徳どのが初めてでございます」
「……」
「明国中央の役人は、地方の方を上から見るのが常でございます。地方の方も私たちを警戒し、距離を置きます。──ですが、林徳どのは私を、対等な仲間として扱ってくださった」
「藤さま、当たり前のことでございます」
「いえ、林徳どの。──当たり前ではございません」
藤は深く頭を下げた。
「私はこれからも、林徳どのに尽くします。──夏明国王さまへの最善の橋渡しを、お約束いたします」
林徳は深く頭を下げ返した。
◇ ◇ ◇
夜、宿の屋上で、林徳は一人で北の空を見ていた。
明都の方角。
明日の昼、彼は城壁の前に立つ。
「徳殿」
背中から声が聞こえた。
蓮だった。
彼女は屋上の縁に、ゆっくりと座った。
「明日、明都に入る」
「左様でございます」
「徳殿、私の役目は何だ」
「……蓮、明都の宮中には、入れる方が限られております。──私と藤さまと関どの。蓮さまは、宿で待機をお願い申し上げます」
「うむ」
「ですが、宮中の外、明都の街中で、私たちを護衛してくださる方が必要です。──その役目をお願いできますか」
「分かった」
蓮の声に、迷いはなかった。
しばらく沈黙が流れた。
屋上の空は、星が薄く、霞んでいた。
蓮が、ふと、口を開いた。
「徳殿」
「はい」
「桃は、いま、何をしているだろうか」
林徳の口元が、わずかに緩んだ。
戦の話の途中で、五歳の桃のことを思い出す、蓮の心の変化。
「桃さまは、村で皆さまと一緒に、夕餉を取っている頃でしょう。──きっと、徳兄さまの話を、雪麗さまにしている」
「……そうか」
「蓮、桃さまは、あなたを家族と思っています」
「私も、桃を、家族と思っている」
蓮の声に、わずかに、震えがあった。
三年、家族のいなかった彼女が、いま、新しい家族を、得ていた。
「徳殿、村に戻れる日は、いつ頃か」
「明都での仕事次第でございます。──早ければ、十日。長引けば、一月」
「うむ。──私は、徳殿のお側で、徳殿のご無事を、確かめる」
四十年の社畜の頭の中で、ある言葉が響いていた。
──「重要な仲間を、すべて一箇所に置かない」。
社畜時代の、危機管理の鉄則だった。
万一、宮中で何かが起きた時、明都の街中に、信頼できる戦力が一人いる。
それは、十歳の体で背負う重い役目に、確かな安心を与えていた。
◇ ◇ ◇
蓮が、屋上から去ったあと、林徳はもう少し、空を見ていた。
頭の中で、明日の段取りを、ゆっくりと組み立てていた。
(明都は戦場ではない。──宮中の派閥が絡み合う、政治の場)
(戦盤は半径百歩しか読めない。万書の眼は技術書を読んでいない)
(私の唯一の武器は、人を信じる力)
(仲間を信じる。藤さまを信じる。そして、まだ会わぬ夏明国王さまを信じる)
林徳はゆっくりと、息を吐いた。
社畜時代の四十年、彼は人を信じて、何度も裏切られた。
だがそれでも、人を信じることをやめなかった。
いま、その積み重ねが、十歳の体の中で、ひとつの覚悟に変わっていた。
◇ ◇ ◇
まだ、林徳は知らない。
明日の朝、明都の城壁の手前、一里の地点に、もう一人の人物が、彼を待っていることを。
その人物は、夏明国王の腹心の一人。
名は、許明。
夏明国王の幼少期からの侍読、いまは宮中の典籍を司る、若き学者だった。
許明は、夏明国王から、林徳の到着を、誰よりも先に出迎えるよう、命じられていた。
そして、許明が林徳に告げる最初の言葉が、彼の物語を、根本から変えることを。
最後の街道、最後の夜。
林徳は十歳の体で、北の空を長く見ていた。
明日、彼は城壁を潜る。
戦盤ではなく、信じる力で。
─ 第二十一話 了 ─
次回、第二十二話「明都の城壁、その手前で」




