第二十話 ─ 街道の風、第二の罠
四日目の朝。
馬隊は別の街道を進んでいた。
藤の判断で、本来の旅程を放棄した。明国南東の主街道ではなく、東に大きく迂回する商隊が時折通る道。
二日分の遠回りになる。だが敵の予想を、ずらす。
空は青く晴れていた。
風は北西から南東へ、緩やかに流れていた。
林徳は馬上で、頭の中の戦盤に地形を入れ直していた。
(敵は私たちが旅程を変えたことを、いつ気づくか)
(おそらく今日の夕方。明日の朝には、新しい刺客の配置が、組まれる)
戦盤はまだ使わなかった。
昨日の二回の代償。頭痛は明け方には、ようやく消えていた。
今日からの三日、戦盤の使用回数は極限まで節約する。
四十年の社畜の経験から、彼はある事実を知っていた。
──「リソースは最重要の局面のために、温存する」。
◇ ◇ ◇
昼前、馬隊は街道脇の小さな茶屋に、立ち寄った。
茶屋の老婆が、煎じ茶を運んできた。
藤と護衛たちは店の中で、休んでいた。
林徳と関と蓮は、店の前の小さな床几に座った。
茶を一口、飲んだ。
その時、街道の南から一台の馬車が走ってきた。
立派な馬車だった。
黒漆塗りの車体。明国貴族の家紋が、扉に刻まれていた。
戦盤がわずかに、ざわついた。
(……明国の貴族。──偶然ここを通るとは思えぬ)
馬車は茶屋の前で、止まった。
扉が開いた。
降りてきたのは、四十代後半の長身の男だった。
絹の上等な衣。金の帯。手には扇子。
顔つきは品があるが、目には独特の冷たさがあった。
──知識人の目。冷徹な計算者の目。
関の手が刀の柄に、わずかに触れた。
蓮の目が男を、無言で観察していた。
戦盤が告げた。
(来た。──敵の本隊の中枢)
男は林徳を、しばらく見ていた。
そしてゆっくりと、頭を下げた。
「お初にお目にかかる。──明都の貴族、崔泰と申す」
林徳は深く頭を下げた。
「林徳にございます」
◇ ◇ ◇
崔泰は林徳の隣の床几に、ゆっくりと座った。
茶屋の老婆が、もう一杯の茶を運んできた。
崔泰はその茶を、両手で丁寧に受け取った。
所作が上品だった。
「林徳どの。──奇遇でいらっしゃるな」
「左様でございますか」
「私は明都から南の領地に、所用で参っておる。帰路、この茶屋で休んでおったところ、馬車の中から馬隊が見えた」
「……」
「ご一行が明国中央の藤どのとご同行されておる、と。──聞き及び、御目通りの機会を頂戴したく」
林徳の戦盤が、瞬時に崔泰の駒を、分析した。
(嘘だ。──偶然ではない。彼は私たちを待っていた)
(馬車の中で、私たちの旅程変更を、すでに把握していた。──情報源が、明都中央に、ある)
戦盤はそこまでしか、読めなかった。
崔泰の所属、地位、目的の細部までは見えない。
半径百歩以内の状況分析の限界。
「崔泰さま、お会いできて光栄でございます」
林徳は深く頭を下げた。
社畜時代の四十年の経験が、頭を押し下げていた。
──「相手の正体が分からない時は、まず丁寧に頭を下げる」。
崔泰はわずかに、笑った。
「林徳どの。──お若いのに、礼儀正しい」
「過分なお言葉でございます」
「お聞きしてもよろしいか」
「何でしょうか」
「ご年齢は」
「……十歳でございます」
◇ ◇ ◇
崔泰の表情は変わらなかった。
驚きも感心も、見せなかった。
ただわずかに目を細めただけ。
その目に、林徳は、初めて自分と同じ種類の人間を、見た気がした。
──「相手の値踏みを表に出さない人」。
社畜時代に、何度も客先の最強の交渉者と向き合った時の感覚。
崔泰は本物の知略家だった。
「林徳どの。──私の屋敷が、ここから馬で半日の距離にございます」
「左様でございますか」
「ご一行を私の屋敷で、お休みいただきたい。──明都までの残りの旅程、私がご案内申し上げる」
林徳の戦盤が、警戒の盤面を一気に開いた。
(罠だ。──完全に)
(崔泰の屋敷は彼の支配領域。そこに入れば、私たちは彼の手の中)
(だが断れば、彼は別の手で私たちを潰そうとする)
断ることも受けることも、できない状況。
社畜時代に何度も味わった、最悪の交渉局面。
藤が、店の中から出てきた。
崔泰の姿を見て、わずかに足を、止めた。
その表情に、林徳は答えを見た。
──藤は崔泰を知っている。
──そして警戒している。
「藤どの。──お久しゅう」
「崔泰さま。──ご無沙汰いたしております」
二人の声は、丁寧だった。だが、その奥に、明らかに敵意があった。
藤の手が、わずかに震えた。
◇ ◇ ◇
林徳は戦盤を使うと決めた。
今日の一回目。
崔泰の表情、藤の表情、二人の関係、それぞれの心の動きを戦盤に入れた。
(藤さまの恐れ、崔泰さまの余裕。──二人は宮中で、長年の宿敵)
(崔泰の派閥は藤よりも宮中の影響力が強い。藤は表向き、丁寧に応じるしかない)
(崔泰の招待を、私たちが藤の判断で断ることは、できない)
(つまり崔泰は、藤を利用して私たちを、自分の屋敷に引き込もうとしている)
頭痛が、わずかに走り始めた。
戦盤一回目の代償。
だが、林徳は、得た情報で、すぐに次の一手を、組み立てた。
「崔泰さま」
「はい」
「ご丁寧なお招き、誠にありがたく」
崔泰の口元が、わずかに緩んだ。
──彼は林徳が罠と気づいて、断れない状況に追い込まれた、と理解した。
しかし林徳の言葉は、続いた。
「ですがお招きを、お受けすることはできません」
崔泰の表情が、初めて動いた。
わずかな、驚き。
「……ほう」
「夏明国王さまの招請をお受けしての旅でございます。途中、私的なお招きを受けることは、招請の主旨に反すると存じます」
「……」
「お気持ちは、ありがたく頂戴いたします。──ですが私たちは、まっすぐ明都に参らねばなりません」
◇ ◇ ◇
崔泰は、しばらく林徳の顔を、見ていた。
その目には、もう冷たさだけではない。
わずかな興味が、滲んでいた。
「林徳どの。──聞いていた通りのお方らしい」
「過分なお言葉でございます」
「お一つ、お尋ねしてもよろしいか」
「何でしょうか」
「あなたは夏明国王さまの何を、ご存知でいらっしゃる」
林徳の戦盤が、警戒を強めた。
崔泰の質問は表面的には、軽い問い。
だがその奥に、深い計算があった。
(夏明国王の何を知っているかを、問うている)
(──つまり私が、改革派か、旧貴族派か、それとも独立派かを見極めようとしている)
社畜時代に、客先の役員から似た質問を、何度も受けた。
「うちの会社の、何をご存知ですか」。
その問いの答えで、相手は自分の派閥への忠誠度を測る。
林徳はゆっくりと、答えた。
「夏明国王さまはお若く、明国の改革にお心を砕いておられる。──私が存じておりますのは、それだけでございます」
「ほう」
「私は、明国南の小さな村の、出身でございます。明都の派閥のこと、宮中の事情、何一つ、存じません。──ただ若き君主の招請に、応じて、明都に、参る、その一事のみでございます」
崔泰の目が、わずかに深くなった。
彼は林徳の答えが、計算された「政治的中立の表明」であることを見抜いた。
しかしそれを、責めることはしなかった。
「……林徳どの。──ご賢明でいらっしゃる」
「……」
「明都で、改めてお会いいたしましょう」
◇ ◇ ◇
崔泰は、ゆっくりと立ち上がった。
扇子を軽く、開いた。
その所作は優雅で、隙がなかった。
馬車に戻る前、彼は振り返って林徳に、もう一言告げた。
「林徳どの。──お忠告申し上げる」
「お聞かせください」
「明都の宮中は地方の村より、はるかに複雑でございます。──戦盤も万書の眼も、宮中では通用しないことが多うございます」
林徳の心臓が止まった。
戦盤が、瞬時に警戒の盤面を、最大に、開いた。
(……戦盤と万書の眼の名前を、知っている)
(明国の貴族が私の能力を、知っているはずがない)
(──彼は誰から聞いた)
(一つの可能性。──彼は私と同じ転生者の一人と、繋がっている)
崔泰は林徳の表情の変化を、見ていなかった。
ただ扇子を、ゆっくりと閉じた。
「明都で、お会いいたしましょう」
馬車の扉が閉まった。
馬車は、街道を北へ、ゆっくりと走り出した。
その背中を、林徳は馬隊の前で立ったまま、見送っていた。
体が、わずかに震えていた。
◇ ◇ ◇
「主」
関が低く、声をかけた。
「お顔色が、よくありません」
「……関どの」
「いかがされましたか」
「彼は私の能力を、知っております」
関と蓮が同時に、息を呑んだ。
「……どこから知り得たのですか」
「分かりません。──ですが明都には、私と同じ転生者がもう一人、いる可能性がございます」
藤が横で、聞いていた。
彼は林徳の言う「転生者」の意味を、理解していなかった。
だが林徳の表情の深刻さは、伝わっていた。
「林徳どの、ご無事で何より」
「藤さま、ありがとうございます。──崔泰さまは敵で、ございますね」
「左様でございます。──彼は、明都の貴族の中で、最も、危険なお方の一人。袁派と、最も、深く内通している」
「……」
「林徳どの。──彼の招きをお断りになったのは、賢明でいらっしゃいました」
◇ ◇ ◇
馬隊は街道を、北へ進んだ。
林徳は馬上で、頭の中の戦盤を回し続けていた。
(崔泰の言葉、「戦盤も万書の眼も、宮中では通用しないことが多うございます」)
(つまり彼は、私の能力の制限を知っている)
(──私が半径百歩以内しか読めないこと、一日三回しか使えないこと、これらの情報を誰かが彼に教えた)
頭の中で、可能性を一つずつ検討した。
(一つ。明国の貴族の中に、転生者がいる。彼は神から、私と似た能力を授かっている)
(二つ。神そのものが、複数の転生者にお互いの情報を提供している)
(三つ。私の能力を、第三者が外から観察できる仕組みがある)
戦盤はこれ以上、何も教えてくれなかった。
四十年の社畜の頭が、ふと震えた。
社畜時代、彼は自分の弱みを、握られている時の感覚を知っていた。
──「相手がこちらの手の内を知っている。こちらは相手の手の内を知らない」。
その状況は商談で、最も不利。
いま、林徳はその最悪の状況に踏み込んでいた。
◇ ◇ ◇
その夜、宿で林徳は、関と蓮、藤を小部屋に集めた。
「皆さま」
「主」
「今日、私は、初めて戦の中で、相手より、不利な位置に、立たされました」
全員が、林徳の顔を見た。
「これまで私は、相手の手の内を知り、相手は私の手の内を知らない、その優位で勝ってきました。──しかし今日、その優位が崩れました」
「主、それは──」
「関どの。私たちはこれからの三日、戦盤を極力使わず進まねばなりません。崔泰どのは、私が戦盤を何回使ったかすら、知っている可能性がございます」
「……」
「明都に着くまで、私たちの能力は、敵に、見られていると、想定して、動きます」
蓮が低く、口を開いた。
「徳殿。──では明都に着いたら」
「明都に着いてからは、別の戦になります。私の能力が通用しない場所で、私は何を武器にするか。──それをこれから、考えねばなりません」
藤が、深く頭を下げた。
「林徳どの。──私にできることがございましたら、何なりと」
「藤さま、ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
その夜、林徳は夜具の中で、長く目を開けていた。
頭痛は、まだ続いていた。
戦盤は明日からも、使わねばならない。
だが、能力を敵に見抜かれているなら、何を信じればいいのか。
四十年の社畜の頭の中で、ある言葉が響いていた。
──「能力で勝てない時は、心で勝つしかない」。
社畜時代、彼は若い同僚たちに、しばしば負けた。
頭の回転、体力、最新の知識、すべて若手の方が上だった。
ただ一つだけ、彼が、勝てる場所が、あった。
──「人を信じる力」。
若手はしばしば、自分の能力に頼り切る。だが林健一は、自分の能力では足りないことを知っていた。だから人を信じる。仲間を頼る。
その「信じる力」だけは、彼が四十年で磨いた、唯一の本物の武器だった。
(崔泰どのに、能力では勝てないかもしれない)
(だが人を信じる力では、私は誰にも負けない)
林徳は、ゆっくりと目を閉じた。
まだ彼は、知らない。
崔泰が、明都に戻る馬車の中で、ある人物に報告を書いていることを。
その報告書の宛先は、明都の宮中のある高官。
そして、その高官の机の、引き出しの中には、林徳の能力の詳細を、記した、一枚の絹の薄紙が、すでに入っていることを。
明都に着く前に、林徳にはもう一つの戦が、待っていた。
─ 第二十話 了 ─
次回、第二十一話「最後の街道、信じる力」




