第十九話 ─ 峠の影、街道の罠
【前回までのあらすじ】
林徳は明都の使者・藤に伴われ、関明慶と蓮を従えて田家村を出立した。雪麗には亡国の姫の素性を伏せたまま留守を頼み、銭弼に村の留守を任せる。母と桃との別れ、雪麗との静かな約束。出立初日、宿場町で林徳は戦盤を一回使い、観察者二人を発見。頭痛の代償で能力の限界を悟る。蓮が「私の弓は半径二百歩、戦盤の倍」と林徳の弱点を補う宣言。明都までの十日の旅は、すでに見えない戦の中に入っていた。
【主な登場人物】
林徳 主人公。十歳。中身は四十歳の元法人営業マン
関明慶 主人公の最初の家臣。一騎当千
蓮 北方民の女猟師。半径二百歩を狙える弓
藤 明国中央・戸部・尚書補佐、夏明国王の代理
藤の護衛(十一人) 明国中央の正規兵
観察者の二人 不明の派閥の手の者
夏明国王 明国の若き君主
出立から三日目の朝。
馬隊は明国の南東、最初の峠の手前の宿場町を出ようとしていた。
藤と護衛十一人、林徳と関と蓮、合計十五頭の馬。
街道の北側に、青く霞む山並みが見えていた。
その先に最初の難所、白坂峠があった。
「林徳どの」
馬上の藤がわずかに、林徳の方に首を向けた。
「白坂峠は街道の中でも、最も道幅の狭い場所がございます。山賊や不届きな旅人の襲撃も、年に数回報告に上がっておりまして」
「左様でございますか」
「私の護衛十一人は明国中央の正規兵でございます。十分にお守りいたしますが、ご油断なく」
「ありがとうございます」
林徳は軽く頭を下げた。
戦盤をまだ使わなかった。
昨日、宿で観察者二人を一回確認したが、その後の十日の旅程を考えれば、戦盤は本当に必要な瞬間まで温存せねばならなかった。
(……だが藤さまの言い回しが、少し引っかかる)
林徳の頭の中で、四十年の社畜の感覚がわずかにざわついた。
社畜時代、客先で「ご油断なく」と言う相手はしばしば、何かを知っている。
知っていて、こちらに教えていない。
(藤さまは何か、ご存知のはず)
◇ ◇ ◇
関が林徳の馬に、馬首を寄せた。
声を低く、ささやいた。
「主、藤どのの様子、いかがでございますか」
「……関どの。私も気になっておりました」
「白坂峠について明国中央の役人が、ことさらに警告するのは奇妙でございます。年に数回の襲撃なら、明国の街道全体で十数回はあるはず」
「左様でございます」
林徳は戦盤の上で、藤の駒を観察していた。
(藤さまは敵ではない。──だが明都の派閥の事情をすべて、こちらに教えてくれているわけでもない)
(彼は夏明国王さまの代理として、私を明都に連れて行く役目を負っている。だがその役目の、もう一段奥に、何か別の事情がある)
「主、戦盤をお使いになりますか」
「いえ、関どの。──まだ早うございます。藤さまの様子から、白坂峠で、何かが起きる可能性は、高い。その場で、戦盤を、使います」
「承知いたしました」
関は、刀の柄に、軽く手を添えた。
蓮は、関とは反対側、林徳のもう一方の馬上で、すでに弓に矢を、番える準備を、整え始めていた。
◇ ◇ ◇
馬隊は宿場町を出て、街道を北へ進んだ。
半刻ほどで、白坂峠の入口に達した。
道はここから急に細くなり、両側の斜面が迫ってきた。
左は急峻な岩肌。右は深い谷。
道幅は、馬が二頭並べる程度。
「馬を縦一列にお並べください」
藤の指示で、馬隊の隊列が変わった。
先頭は藤の護衛二人。次に藤本人。続いて林徳、関、蓮。残りの護衛九人が後方を固めた。
風が北から南へ。
峠の谷底からは夏なのに、ひんやりとした空気が立ち昇っていた。
(……ここは奇襲を仕掛ける側にとって、理想の地形だ)
林徳の戦盤が地形の評価を、勝手に組み立てていた。
(左の岩肌の上から矢を射れば、馬上の人間はほぼ確実に当たる)
(右の崖に追い込めば、退路は来た道を戻るしかない)
(道幅が狭く、馬隊が隊列を組み替える余裕がない)
戦盤は、まだ敵の存在を、感知していなかった。
半径百歩以内、安全。
だが半径百歩の外、何があるかは戦盤には見えなかった。
「蓮」
林徳は低く、声をかけた。
「蓮の弓の射程は、二百歩でしたね」
「左様」
「左の岩肌の上、もし人がいるなら見えますか」
蓮は、馬上で、ゆっくりと頭を、傾けた。
彼女の目は猟師の目だった。獲物を見極める目。
しばらく左の岩肌を、見上げていた。
「……徳殿」
「はい」
「左の岩、二箇所。──岩陰に人の影、確認」
林徳の戦盤が一気に、警戒の盤面を開いた。
◇ ◇ ◇
「関どの」
「主」
「左の岩陰、二箇所、敵の射手の可能性。──蓮が見つけました」
「承知」
関の手が、刀を、ゆっくりと半分、抜いた。
藤の馬は、まだ前を、進んでいた。
藤は振り返らなかった。
林徳の戦盤が、藤の駒を、瞬時に再分析した。
(藤さまは知っている。──この罠の存在をご存知だ)
(だが敵ではない。なぜ教えてくれない)
林徳は藤の動きを、もう少し観察することにした。
馬隊が峠の最も狭い区間に入った時。
左の岩陰から、何かが、ひゅっと、飛んできた。
矢だった。
二本、ほぼ同時。
目標は藤ではなかった。
──林徳と関だった。
◇ ◇ ◇
次の瞬間、林徳は自分の頭の中で、戦盤を強引に起動した。
二回目。今日の二回目。
戦盤が、矢の軌道を、瞬時に計算した。
(一本目、私の左肩。二本目、関どのの胴体)
時間が、ゆっくりと流れた。
林徳は、馬上で、わずかに体を、右に、傾けた。
関は刀で、自分の方の矢を払った。
ヒュッと、林徳の左肩を、矢が、かすめた。
革の衣に、軽い切れ目が入った。
血は出なかった。
関の刀が矢を、地面に叩き落とした。
「──蓮、左の岩、お願いします!」
林徳の声が、響いた。
蓮の弓が、すでに引き絞られていた。
ぎりっ、という弦の音。
次の瞬間、彼女の矢が放たれた。
ひゅっ、ひゅっと、二発。
左の岩陰の二箇所、両方から声が漏れた。
一人、倒れた音。
もう一人、激しく転がった音。
藤の護衛たちがようやく、剣を抜いた。
林徳の戦盤は続けて、計算していた。
(敵は二箇所の射手だけではない。──岩肌の上、もう少し奥に控えがいる)
(だが半径百歩の戦盤では、そこまでは見えない)
◇ ◇ ◇
「藤さま!」
林徳は馬上で、藤の背に声を上げた。
「左の岩、上の方、まだ敵がございます! お早く、隊列を、後退させて、退路を、確保してください!」
藤が、初めて振り返った。
その目には、わずかな驚きがあった。
「林徳どの、その情報、どこから」
「お話は後でございます! まず隊列を!」
藤は、しばらく林徳の目を、見つめた。
そして深く頷いた。
「全員、後退! 来た道を戻れ!」
護衛たちが馬を、後ろに回した。
林徳と関と蓮も、馬を後退させた。
その間、蓮の弓は左の岩を絶えず、警戒していた。
もう一発、矢が岩の上から飛んできた。
蓮の矢がそれを、空中で迎え撃った。
二本の矢がぶつかって、地面に落ちた。
(……蓮の腕は本物の達人級だ)
林徳は、戦盤の上で、改めて蓮の駒を、強化した。
◇ ◇ ◇
馬隊は白坂峠の入口まで、後退した。
道幅の広い場所で、藤は護衛を再編成した。
負傷者は、ゼロ。
倒した敵は、二人。
残りの敵は岩陰に潜んだまま、追ってこなかった。
林徳と関と蓮は藤の前に、馬を揃えた。
「林徳どの。──ご無事で何より」
藤の声に、わずかな震えがあった。
四十代後半の戸部の役人が、十歳の少年に、頭を下げた。
「藤さま、お話を伺いたく」
「……はい」
「白坂峠の罠、ご存知でいらっしゃいましたか」
藤は、しばらく答えなかった。
馬上で、深く息を吐いた。
「……林徳どの。──申し訳ない。私はある可能性を、想定はしておりました」
「想定、と申しますと」
「夏明国王さまが林徳どのを明都にお招きすることに、明都の一部の派閥が強く反対しております。──彼らが白坂峠で何らかの動きに出る可能性は、十分にございました」
「ですがなぜ、私たちに、お教えくださらなかったのですか」
藤の声に、苦悩が滲んだ。
「……私の立場では明都の派閥の内情を、地方の方にお話しすることはできかねます。明国中央の役人としての、職務上の制約でございます」
林徳は、深く息を吐いた。
社畜時代に、何度も見た光景。
会社のしがらみで、必要な情報を客先に伝えられない営業マンの、苦しい顔。
藤の今の表情は、まさにそれだった。
「藤さま。お立場、理解いたしました。──ですがこれからは、お話をお聞かせいただけませんでしょうか。私たちが敵の動きを知らずに進むことは、危険でございます」
「……林徳どの」
「私たちは明国の若き君主の招請をお受けして、明都に参っております。明都で、あなたさまの立場が悪くなる情報は、私たちが決して外に漏らしません。お約束いたします」
藤は、しばらく林徳の顔を、見つめていた。
そして深く頷いた。
「……承知いたしました。──夕方の宿で、すべてをお話し申し上げます」
◇ ◇ ◇
(戦盤、二回。今日は、もうほぼ使えない)
林徳は馬上で、左肩を押さえた。
革の衣の切れ目から、血は出ていない。
だが戦盤の代償で、頭痛が走り始めていた。
関が横で、低くささやいた。
「主、お体は」
「……関どの、頭が、痛みます。今日は、もう戦盤は、難しい」
「では宿に着くまで、無理はお止めください。私と蓮で、警戒を担います」
「ありがとうございます」
蓮も、横で、深く頷いた。
馬隊は白坂峠の入口を迂回し、別の街道へ回ることになった。
藤の判断だった。
遠回りで、明都到着が半日遅れる。
だが命の安全には、代えられなかった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、別の宿場町で、藤と林徳、関、蓮の四人は宿の二階の小部屋で、ようやく向かい合った。
藤の表情は出立時より、はるかに深い疲れが滲んでいた。
「林徳どの。──明都の現状をお話し申し上げます」
「ありがとうございます」
「明都の宮中には現在、大きく三つの派閥がございます」
藤は机の上に、紙を広げた。
筆を取り、三つの円を描いた。
「一つ目、夏明国王さま直属の改革派。若き君主の登極から五年、明国の地方を立て直そうと必死に動いておられる派閥。──私もこれに属しております」
藤は二つ目の円に、筆を置いた。
「二つ目、宮中の旧貴族派。先代の明王時代から宮中に居座る、保守派の貴族たち。新しい改革にことごとく、反対しております」
「……」
「三つ目」
藤の筆が三つ目の円に、向かった。
「玄朝中央、袁派と、内通している、明国の一部の貴族。──彼らは、明国を、玄朝の属国に、戻そうとしております」
林徳の戦盤が一気に、動いた。
関の顔が、瞬時に硬くなった。
──袁派。
関の父・関子陽を、毒殺した派閥。
その派閥が、明都の宮中の中にも、深く入り込んでいた。
「藤さま」
「はい」
「白坂峠で私たちを襲ったのは、どの派閥でいらっしゃいますか」
藤は、深く息を吐いた。
「……おそらく三つ目です。袁派と、内通している、明都の貴族たち」
「左様でございますか」
「夏明国王さまが林徳どのを招請なさったことを、彼らは明国の改革派が地方の力で巻き返してくる兆しと見ております。──だからあなたを明都に辿り着かせまいと、しております」
関が低く、口を開いた。
「藤さま。──袁派、ですか」
藤は、関の顔を、しばらく見ていた。
そして、わずかに目を細めた。
「……関明慶どのと仰いましたな。──玄朝近衛将軍家、関子陽さまのご三男でいらっしゃる」
「ご存知でいらっしゃいましたか」
「噂は戸部にも届いておりました。──関子陽さまの毒殺は、玄朝の宦官派閥、つまり袁派の所業」
「……」
「関どの。あなたさまが林徳どのにお仕えしているということ自体が、明都の派閥の事情をより複雑にいたします」
関は、わずかに頭を下げた。
「主のお側でなければ、私はここに、おりません」
「左様でございますね」
藤は、深く頷いた。
◇ ◇ ◇
(……明都の派閥は私が想像していた以上に、複雑だ)
林徳は机の上の三つの円を見つめた。
戦盤は、もう使えない。
頭痛がひどくなっていた。
頭の中の万書の眼が、ふとある書物の一節を、運んできた。
──『戦わずして勝つは上策。戦って勝つは中策。戦って負けるは下策』
(孫子か)
明都に着く前から、すでに戦は、始まっていた。
白坂峠で、二人の射手を討った。
残りの敵は、まだ街道の彼方に、潜んでいる。
彼らは、必ずもう一度、襲ってくる。
「藤さま」
「はい」
「お一つ、お願いがございます」
「何でしょうか」
「明都に到着するまでの残りの七日、私たちの旅程を可能な限り、変更していただきたく」
「……」
「予定された宿場町、予定された街道、予定された護衛の配置。──すべて変えていただきたく」
「林徳どの、それは戸部の旅程に反します。私の独断では」
「藤さま。──私たちの命が係わっております。お願い申し上げます」
藤は、しばらく考えた。
そして深く頷いた。
「……承知いたしました。明日から、私の判断で旅程を変更いたします」
林徳は深く頭を下げた。
戦盤の上で、ようやく藤の駒が白く確定した。
彼は、もうただの「招請の使者」では、なかった。
林徳と運命を共にする仲間に、変わっていた。
◇ ◇ ◇
その夜、林徳は宿の薄い夜具の中で、目を開けていた。
頭痛は、まだ続いていた。
戦盤を二回使った代償。
今日、林徳はようやく、自分の能力の本当の限界を肌で知った。
(戦盤は目の前の局面でしか使えない。半径百歩の外は見えない)
(万書の眼は参照に時間がかかる。戦闘中の即時引用は難しい)
(縁は制御できない。今日の藤さまの心変わりも、縁の力かもしれない)
四十年の社畜の頭の中で、ある言葉が響いていた。
──「限界を知った者だけが、本当の戦略家になれる」。
(……俺、十歳の体でようやく、本当の意味で軍師になれそうだ)
林徳は、わずかに笑った。
苦労人の、四十歳の達観した笑み。
頭痛の中、その笑みは複雑で、しかし確かな自信を含んでいた。
まだ彼は、知らない。
白坂峠で生き残った敵の射手たちが、明都の貴族・袁派と内通する大物の配下であること。
そして、その大物が明都の宮中で夏明国王に、毎日、林徳の招請を撤回するよう訴え続けていることを。
明都に着く前に、林徳はあと二度の罠を、潜り抜けねばならない。
残りの七日。
戦盤の使用回数は限られている。
仲間の力と自分の頭と、信頼できる人々の協力で、彼は明都に辿り着かねばならなかった。
─ 第十九話 了 ─
次回、第二十話「街道の風、第二の罠」




