第十八話 ─ 明都への、道
【前回までのあらすじ】
山賊三十人を撃退した翌日、林徳は降伏した二十六人を村の男手として迎え、本物の悪党三人には三年の贖罪労働と蓮の弓の弟子化を課した。村の人口は六十人を超え、林徳は組織化の必要性を悟る。──そして明国中央・戸部の尚書補佐・藤が、夏明国王の私印付き書状を携えて田家村に来訪。「三日後、明都へ御出立」の招請。林徳の物語は、もはや村の中だけでは収まらなくなった。
【主な登場人物】
林徳 主人公。十歳。中身は四十歳の元法人営業マン
関明慶 主人公の最初の家臣。元・玄朝近衛将軍家の三男
雪麗 亡国の姫。林徳の家で母と暮らす
銭弼 元・玄朝戸部の三等官。村の留守を任される
趙 元山賊の頭領。村の男手の頭
桃 趙の五歳の娘
蓮 北方民の女猟師、明都行きの護衛として同行
藤 明国中央・戸部・尚書補佐、夏明国王の代理
夏明国王 明国の若き君主
明都の使者・藤が田家村に滞在して二日が過ぎた。
三日後の出立まで、もう一日。
夜、林徳は家の縁側で関、銭弼、雪麗、蓮の四人と、最後の段取りを詰めていた。
「明都までの道のり、街道で十日。馬で四日と、藤さまからご教示いただきました」
銭弼の手元には、藤から預かった旅程表があった。
戸部の正式な書式で、宿駅と中継地点が丁寧に書き込まれていた。
「同行は私と関どのそして蓮さま。──雪麗さま、銭弼さまには村の留守をお任せいたします」
「徳殿、私も同行できぬか」
雪麗が静かに口を開いた。
林徳は、しばらく考えた。
「……雪麗さま、お気持ちはありがたく。ですが雪麗さまには、ここにおっていただきとうございます」
「なぜ」
「あなたさまの素性が明都に知られることは、明国の派閥対立を再燃させる可能性がございます」
雪麗の目が、わずかに伏せられた。
亡国の姫の身分。明国先代王の姪。──その存在は夏明国王の即位の正統性に、影を落とす火種でもある。
林徳は深く頭を下げた。
「申し訳ございません。──ですが、いつか必ず雪麗さまの素性を、堂々と、明らかにできる日が、参ります。その時まで、お待ちいただけますか」
「……承知しました」
雪麗は静かに頷いた。
目には、信頼とわずかな寂しさが入り混じっていた。
◇ ◇ ◇
「銭弼さま」
「はい」
「村の留守、お頼み申し上げます。──組織を整える時期に、来ております」
林徳は懐から、一枚の紙を取り出した。
戦盤の上で、彼がここ二日のうちに組み上げた、村の組織図だった。
『田家村 組織体制案
采配 林徳(不在中は銭弼)
外交・行政 銭弼
武備・防衛 関明慶
男手・畑 趙(配下、徐・陳・李・新参二十六人)
女手・布 雪麗(配下、柳・村の女手六人)
医療 雪麗(兼務)
遠距離防衛・蓮(配下、弓弟子三人)
子供たちの教育 雪麗(将来、別途任命)』
「林徳どの、これは──」
「左様でございます。村が町に近づきつつある以上、役割分担が必要でございます」
銭弼は書面を、しばらく見つめた。
戸部の四年で、地方の組織図を何百と見てきた、彼の目が、わずかに潤んだ。
「林徳どの。──これほど人を適材に配置した組織図を、私は戸部でも見たことが、ございません」
「……」
「すべての方が得意なところで、役をお持ちでいらっしゃる」
「左様でございます。──人は、得意でない場所で、頑張らせると、必ず潰れます。社畜時代の、痛い学びでございます」
言ってしまってから、林徳はまた固まった。
雪麗が、口元を、わずかに緩めた。
銭弼はその「社畜」を聞き流して、書面に頷いていた。
関は最近、林徳のその言葉に慣れ始めていた。
◇ ◇ ◇
その夜、林徳はなかなか眠れなかった。
頭の中の戦盤が、明都への道のりを何度もシミュレーションしていた。
(街道、十日。途中二つの大きな宿場町。三つの峠。──通る経路は明国南部から淮陽の北を抜けて、明都の南へ)
(途中、必ず藤さまの目を盗んで、私たちを、観察する者が、いる。──夏明国王の派閥か、その敵対派閥か)
(明都に着いてから最初の謁見まで、おそらく数日。その間にいくつもの貴族や役人が、私たちに接触してくる)
明都の宮中の事情を、戦盤は読みかけて、ふと止まった。
(……ダメだ。読めない)
林徳は、暗闇の中で、わずかに目を見開いた。
戦盤は、林徳から半径百歩以内の状況を読む能力。
明都は、ここから馬で四日の距離。
戦盤は、そこまでの未来は読めない。
彼は、自分の能力の限界を、改めて思い知った。
(俺、戦盤に頼りすぎてたな)
四十歳の社畜の頭の中で、ある言葉が響いていた。
──「データが取れない場所では、人は自分の経験と勇気で動くしかない」。
社畜時代、彼はデータのない新規開拓の客先に何度も訪問した。
顧客の業界知識、競合情報、社内の人間関係。──最初はすべて、闇の中だった。
ただ足を運び、人の顔を覚え、少しずつ、情報を、積み上げた。
明都での日々は、おそらくその繰り返しになる。
(戦盤は目の前の局面でしか使えない。──遠くの未来は、自分の足と頭で組み立てる)
林徳は、ゆっくりと目を閉じた。
戦盤に頼り切らない自分を、もう一度思い出していた。
◇ ◇ ◇
出立の朝。
田家村の入り口に、村人たちが集まっていた。
六十人を超える人々が、見送りに立っていた。
その中央に、母が立っていた。
二月前まで寝たきりだった母。
いま、自分の足で息子の出立を、見送りに来ていた。
「徳」
「はい、母上」
「気をつけて、いっておいで」
「……はい」
「無理をしないで」
「……母上、私は、まだ十歳でございます。母上の言いつけは、必ず守ります」
母は、わずかに笑った。
その笑顔に、二月前の青ざめた頬の、影は、もうなかった。
「徳。──お前を、私は誇りに思うよ」
林徳の十歳の体が、震えた。
四十歳の魂が、また揺れた。
前世の母にも、こんな言葉をもらったことがなかった。
「……母上」
言葉が続かなかった。
ただ深く頭を下げた。
◇ ◇ ◇
桃が、駆け寄ってきた。
五歳の小さな手に、何かを握っていた。
「とくにいさま、これ」
「桃、何ですか」
「おまもり」
桃の手の中には、小さな布の包みがあった。
中には、楓堂で玲が林徳に渡したお守りの、紛い物。──桃が母の縫い物の端布を、自分で縫い合わせたものだった。
「私が桃のおまもりを作ったの。れんねえさまも、てつだってくれた」
「……ありがとうございます、桃」
林徳は、お守りを、両手で受け取った。
戦盤の上で、二つのお守りが白く輝いた。
──玲の、お守り。
──桃の、お守り。
異世界で、林徳が、初めてもらった、二つの宝物。
「桃」
「うん」
「徳兄さま、必ず戻ります」
「うん」
桃は笑っていた。
涙は流していなかった。
五歳の子供は、まだ別れの本当の意味を、知らない。
林徳はそれが、ありがたかった。
◇ ◇ ◇
雪麗が、林徳の前に来た。
「徳殿」
「雪麗さま」
「ご無事で」
「……はい」
「徳殿。──私の素性のこと、いつか明らかにしてくださると仰いました」
「左様でございます」
「ですがもし明らかにしないままが、徳殿の物語にとってよろしいなら。──私は無理に表に出ようとは思いません」
「雪麗さま、それは──」
「徳殿」
雪麗は、静かに続けた。
「私は宮中を捨てて、ここに来ました。亡国の姫の身分も、捨てたのです。──いま私は、田家村の雪麗です。それだけで十分でございます」
林徳は、深く頭を下げた。
戦盤の上で、雪麗の駒が、また一段、強く、白く、輝いた。
──彼女は、もうただの、亡国の姫ではない。
──田家村の新しい雪麗として、林徳の物語の確かな柱になっていた。
◇ ◇ ◇
藤の馬隊が、村の前で待っていた。
藤は馬上から、村の光景をぼう然と見ていた。
二日の滞在で、彼は田家村を隅々まで観察した。
貧しいはずの村に、いま六十人が暮らし、水路が完成し、布が織られ、畑が輪作で稼働していた。
元・山賊の二十六人が、村人として活気を持って、働いていた。
子供たちは桃を含め、林徳のことを「徳兄さま」と呼んでいた。
藤の中で、報告書の文言が少しずつ、形を変えていた。
(……これは、ただの貧村の改革ではない)
(一人の十歳の少年が、人を変えている)
(夏明国王さまへの私の報告は、書類だけでは足りまい)
「林徳どの。──御出立、お願い申し上げる」
「ありがとうございます、藤さま」
林徳は関と蓮を伴って、馬の前に立った。
関は刀を腰に、馬の手綱を握っていた。
蓮は背中に弓と矢筒を、腰に短刀を佩いていた。
二人とも、すでに武人の構えだった。
林徳は十歳の体で、子供用の馬に自分で跨った。
「皆さま」
林徳は振り返って、村人たちに頭を下げた。
「必ず戻ります」
村人たちが、深く頭を下げた。
趙が低い声で、応えた。
「徳殿。──留守は俺たちで、守る」
「ありがとうございます」
◇ ◇ ◇
馬隊が、街道を北へ進み始めた。
林徳、関、蓮、藤、護衛十一人。
計十五頭の馬が、朝の街道を整然と進んでいた。
村の入り口は、すぐに見えなくなった。
林徳は馬上で、振り返らなかった。
四十年の社畜の癖だった。──「送られる時、振り返らない」。
振り返れば、送ってくれた人々の表情に、心が重くなる。
(戦盤、温存)
林徳は頭の中で、自分に言い聞かせた。
今日からの十日、彼は戦盤を滅多に使わないつもりだった。
明都に着いてから、本当に必要な局面が、必ず来る。
その時のために、能力を保つ。
社畜時代、彼は、客先での重要な商談の前に、必ず前夜は、早く眠った。
体力と集中力を温存するためだった。
いま、彼は戦盤を同じように温存していた。
◇ ◇ ◇
半日が過ぎた頃、街道の脇の宿場町で最初の休憩を取った。
藤と護衛たちは、宿の中で食事を取っていた。
林徳、関、蓮は宿の縁側で、握り飯を食べていた。
その時、林徳の戦盤が、わずかにざわついた。
(……視線、感じる)
林徳は戦盤を使った。一回目。
半径百歩以内、北東の方角、藪の中、人が二人潜んでいる。武装は軽装。明国の役人風の衣ではない。
関に、低く告げた。
「関どの、北東の藪。──観察者、二人」
関の手が、わずかに刀の柄に、伸びた。
蓮の目が、すでに北東に、向いていた。
「徳殿、誰の手の者か」
「……分かりません。戦盤は、人物像までは読みますが、所属までは読めません」
林徳は、静かに続けた。
「藤さまの目に入る前に追い払いますか? それとも泳がせて観察しますか?」
関がしばらく考えた。
「主、泳がせて観察、でございます」
「ありがとうございます。──私も同じ判断でした」
二人は、ゆっくりと握り飯を、食べ続けた。
観察者は林徳たちの動きを見ながら、その後街道の彼方へ消えた。
林徳の戦盤は、もう彼らを、追えなかった。
半径百歩を超えた。
(……知らない誰かが、私たちを、見ている。明都に着くまでに、必ずもう一度、現れる)
林徳は、わずかに頭を、押さえた。
戦盤を一回使った代償。
軽い頭痛が十歳の体に、走り始めていた。
「主、お顔の色がよくないようです」
「……関どの。戦盤の後遺症です。半刻休めば戻ります」
「分かりました」
◇ ◇ ◇
(戦盤、一日三回まで。今日は、あと二回)
林徳は握り飯を、食べ続けた。
四十年の社畜の頭の中で、新しい計算が始まっていた。
──十日の道のり。一日に戦盤を何回使えるか。最も警戒すべき局面はどこか。
明都までの旅はただの移動ではなかった。
すでに戦が、始まっていた。
誰かが林徳を見ている。
その「誰か」が、敵か、味方か、まだ分からなかった。
戦盤の限界。万書の眼の限界。十歳の体の限界。
すべての制限の中で、林徳は自分の能力を配分しながら進まねばならなかった。
「主」
蓮が、林徳の隣に座った。
「私の弓は半径二百歩まで届く。徳殿の戦盤の倍だ。──観察者がまた現れたら、私がまず見つける」
「……ありがとうございます、蓮」
林徳は、深く頭を下げた。
戦盤の上で、蓮の駒が戦盤の弱点を補う位置に、配置されていた。
──仲間の力で、自分の限界を補う。
社畜時代の、最高の処方箋だった。
◇ ◇ ◇
その夜、宿の二階で、林徳は一人で書類を整理していた。
銭弼が村から持たせてくれた田家村の、収支書類。
黄家との取引の写し。
明都の戸部に提出する、村の現状報告書の下書き。
林徳は、それらを、丁寧に整えていた。
頭の中の万書の眼が、ふとある書物の一節を、運んできた。
──『治国は、家を治むるの如し。家を治むるは、身を修むるの如し』
(……『大学』か)
前世で読んだ、四書の一つ。
国を治めることは家を治めることのようなものであり、家を治めることは身を修めることのようなもの。
順序がある。
いきなり国を治めようとしては、いけない。
まず自分を。
次に家を。
次に村を。
そしてようやく、国を。
(……俺、いまその順番を進んでいる)
林徳は、ふと自分の十歳の手を、見た。
社畜時代の四十歳の手より、はるかに若い。
だが、この手がいま村六十人の命を預かっている。
その手がこれから明国の若き君主の前に、差し出される。
(……気を引き締めよう)
林徳は、ゆっくりと息を吐いた。
まだ彼は、知らない。
観察者の二人が明都のある派閥の手の者であること。
そして、その派閥が夏明国王の招請を阻もうとしているということを。
明都までの十日の旅は、すでに見えない戦の中に、入っていた。
─ 第十八話 了 ─
次回、第十九話「峠の影、街道の罠」




