第一話 ─ 山賊との交渉
【前回までのあらすじ】
階段から落ちて死んだ法人営業歴十六年の三国志マニア・林健一(四十歳)が、東洋風異世界・明国の没落士族の十歳の末子「林徳」に転生。神から三つの能力──戦場の盤面を頭に展開する『戦盤』、前世で読んだ書を脳内参照する『万書の眼』、運命の人を引き寄せる『縁』──を授かるが、戦の力は皆無。病弱な母の薬を求めて旅立った街道で、五人の山賊に襲われた。
「皆さま、お困りのご様子。よろしければ、私の話を、少しお聞きいただけますか」
十歳の少年の口から、丁寧な敬語が出た。
山賊たちが、一瞬、顔を見合わせた。
無理もない。錆びた刀で脅した相手は、震えるか、泣くか、銭を放るか、そのどれかであるはずだった。営業の挨拶を返してくる坊主など、人生で初めて見たに違いない。
「……なんだ、てめえ」
先頭の男が、戸惑いを隠すように、刀を一段、低く構え直した。
林徳は、その刀の先を見ながら、頭の中で『戦盤』を回し続けていた。神から授かった、戦場の状況を盤面として展開し、複数手先まで読み切る能力。だが、この場合は戦場ではなく、五人の人間そのものを、駒として並べていた。
(先頭の男──四十代後半。痩せているが骨格はしっかりしている。元は農夫か、下級兵か。刀の握り方が、武人ではない。たぶん死人から拾った刀だ)
(左の若い男──二十代前半。視線がしきりに先頭に向かう。指示待ち。独立して判断できない)
(右の中年──病気だ。咳をこらえている。額に汗。長くは立っていられない)
(後ろの瘦せた男──仲間ではない。背後ばかり気にしている。腰の構えが、刀を扱える者の動き。追われて逃げ込み、仕方なくこの一団に紛れた者)
(最も右、若者──怯えている。目が泳ぐ。たぶん、初めての強盗だ)
わずか数秒で、五人の人物像が、すべて見えた。
前世で十六年、法人営業をやってきた林健一にとって、初対面の相手を観察するのは、呼吸と同じだった。商談の最初の三秒で、相手の役職と決裁権限と性格を読み切らねば、商社で生き残れない。
(……これ、営業の最初の挨拶と同じだな)
林徳は、ゆっくりと、刀を持つ先頭の男だけに視線を合わせた。
「失礼を承知で、申し上げます。皆さまは、おそらく、最近この一団になられた。連携が取れていらっしゃらない。──そして、本当はこのような所業を、望んでおられない」
「……何を、言って……」
「そちらのお方は」
林徳は、咳をこらえている右の中年に、視線を向けた。
「お加減が、よろしくないですね。私の家にも、病の母がございます。この症状、覚えがあります。風邪を、長くこじらせると、ああなります」
中年男が、ぎくりと肩を震わせた。
林徳は、視線を戻さず、続けた。
「先頭の御方。私は、銭をお渡しすることに、迷いはありません。ですが、その前に、一つだけお尋ねさせてください」
「……」
「皆さまは、いつから、こうして人を襲っていらっしゃいますか」
◇ ◇ ◇
先頭の男が、黙った。
長い、長い沈黙だった。風が、街道の脇の枯れ草を揺らした。
やがて、男の刀の先が、少しずつ下がった。
「……三月だ」
しゃがれた声で、男は答えた。
「三月前、こいつらと出会った。それまで、俺は、ただの農夫だった」
「……」
「税が、上がった。畑を売った。妻が病で死んだ。残った娘が、まだ五つだ。今、村の年寄りに預けてある。あの子の薬代と、米代のために、俺は」
男の顔が、ぐしゃりと歪んだ。
「俺は、本当は、こんなこと、したくねえ」
林徳の胸の奥が、痛んだ。
その痛みは、前世の記憶と地続きだった。社内政治で潰されていく後輩、家族のために頭を下げ続ける同僚、過労で倒れた先輩。生きるために、人は、屈する。それは罪ではない。罪なのは、人をそこまで追い込む世の中の方だ。
(……これは、明の国の話じゃない。後漢末そのままだ)
脳内で『万書の眼』が、自動的に該当の頁を運んできた。前世で読んだあらゆる書物を、必要なときに参照できる──そう、神は告げていた。今、引き出されたのは、三国志を扱った一節だった。
──『黄巾の徒、皆これ良民なり。困窮、これを賊と為さしむ』
(そう。賊じゃない。困窮した、ただの人だ)
林徳は、ゆっくりと、深く、頭を下げた。
十歳の少年が、街道の真ん中で、五人の山賊に、深々と礼をした。
「……お辛い、ことでしたでしょう。失礼を、申し上げました」
五人が、また固まった。
今度は、明らかに、戸惑いとは違う何かが、彼らの顔を流れた。
◇ ◇ ◇
林徳は、顔を上げた。
そして、懐から、銅銭が入った布袋を取り出した。母が長年溜めた、家の全財産。三十枚。
「これを、お受け取りください」
「……」
「ただ、一つだけ、お願いがございます」
「……何だ」
「私は、母の薬を、買いに北の街へ参ります。皆さまも、北の街までは、同じ方角でございましょう。道中、ご一緒させていただけませんか」
先頭の男が、目を見開いた。
「……なに?」
「街道は危のうございます。十歳の私一人では、別の山賊に襲われれば、終わりです。皆さまにご同道いただければ、私は、無事に薬を買い、村へ戻ることができます」
「……いや、待て。それは、つまり、俺たちを、護衛として雇う、ってことか?」
「左様でございます」
「……三十枚で?」
「足りなければ、薬を買ったあと、もう少しお支払いいたします。北の街で、私には心当たりがございます」
心当たり、などない。
あるのは、四十年の人生経験と、『万書の眼』に詰まった商売の知識と、『戦盤』が示す可能性だけだ。
(北の街には、必ず職がある。それは歴史が証明している。困窮した時代、人手不足になるのは、必ず商家と医院と兵だ。この四人なら、商家の荷運びか、医院の下働きで、最低限の食い扶持にはなれる)
(先頭の男には、村の娘を呼び寄せて、安全な場所で暮らさせる手立てを、私が考える。北の街の薬師に、預けるのが一番だ)
(──そして、あの瘦せた男)
林徳は、後ろで身を硬くしている、追われている男を見た。
『万書の眼』が、ある仮説を提示していた。
(あの男、ただ者じゃない。立ち姿が、訓練された者の構えだ。腰の刀の持ち方も、本物だ。逃げ込んだ先で、無理に山賊の仲間のふりをしているだけだ。追っているのは、たぶん、官の手の者)
林徳は、その男に、視線を向けた。
「そちらの御方は──別の事情がおありかと存じます。よろしければ、後ほど、私とだけ、お話しいただけませんか」
男が、はっとして、林徳を見た。
その目に、初めて、戸惑い以上の何かが浮かんだ。
──観察された、という驚きだった。
◇ ◇ ◇
先頭の男が、しばらく黙ったあと、刀を地面に置いた。
ゆっくりと、地面に膝をついた。
「……坊主」
「林徳と、申します」
「徳坊。お前さん、本当に、十歳か」
「左様でございます」
「……信じられねえな。俺たちを、刀ひとつ抜かずに、ここまで」
「皆さまが、お優しかったからでございます」
林徳は、静かに、笑った。
その笑顔に、四十年の苦労人の達観と、十歳の少年の素直さが、奇妙に混ざっていた。
「皆さま、本当は、お困りなだけで、悪い方々ではない。私は、そう拝察いたしました」
先頭の男──後に、彼は自分を「趙」と名乗ることになる──が、その時、何かを決めたように顔を上げた。
「徳坊。北の街まで、確かに送り届ける。銭は、要らねえ。──いや、要らねえと言ったら嘘になる。娘の薬代は、要る。でも、お前さんからは、もう取らねえ。代わりに、北の街で、俺たちにできる仕事を、紹介してくれ」
「……承知いたしました」
林徳は、もう一度、深く頭を下げた。
『戦盤』の上で、五つの駒のうち四つが、白から黒の反対側へ、静かに動いた。
──そして、これが、彼の三つ目の能力『縁』が静かに発動した、最初の徴であることを、まだ本人は気づいていなかった。
立ち去り際、瘦せた男だけが、林徳の傍を通って、低い声で囁いた。
「……坊や。お前、なぜ俺の正体に気づいた」
林徳は、振り向かずに、答えた。
「刀の握り方が、武人のそれでございました。あの四人のものとは、まるで違います」
「……」
「お話は、今宵、宿でお伺いいたします。──おそらく、あなたさまの抱えていらっしゃるものは、私が想像するよりも、ずっと大きい」
男は、しばらく沈黙した。
そして、わずかに笑った。風に削られた、痛みのある笑みだった。
「……名乗っておこう。俺の名は、関。流れ者の、関だ」
「徳と、お見知り置きください。関さま」
林徳は、その名を、頭の中の『戦盤』に、新しい駒として刻んだ。
まだ、彼は知らない。
その「関」と名乗った男が、玄朝の元、近衛将軍の家筋であり、宮中の腐敗を告発して追放され、いま、林徳の前に立っていることを。
そして、その男が、後に三国を駆ける軍師・林徳の、最初の、そして最後まで離れぬ盟友になることを。
日が傾いた。
六人の影が、長く伸びて、北の街道を、ゆっくりと進んでいった。
明国の南、貧しい村を出た十歳の少年の旅は、こうして、誰も予想しなかった形で、始まった。
─ 第一話 了 ─
次回、第二話「北の街、薬師の娘」




