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おっさん、三国志の世界で軍師をやる 〜200回読んだ知識と計略で気づけば英傑が集まっていた〜  作者: ライディーンたけ


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序章 ─ 黄昏の村にて




「もう、終わったな……」


 階段の踊り場でそう呟いたのが、林健一、四十歳。中小商社の法人営業歴十六年、独身、社内政治で出世コースから外れて十年。

 肩には三キロのノートPC、手には客先で押し付けられた菓子折り、頭の中には終わらない見積もり調整。残業終わりの駅の階段で、不意に視界が揺らいだ。


(あ、これ、貧血のやつだ)


 頭の中で冷静に診断した次の瞬間、足が宙を踏んでいた。

 コンクリートの段が、視界の中で回転する。そのとき、なぜか脳裏に浮かんだのは、机の上に積み上げた『三国志演義』全八巻だった。会社員人生の慰めだった、二百回読み返した本。


(……ああ、関羽の最期と、似てるな。落馬じゃなくて、落階段だけど)


 そんな、どうでもいいことを考えた。

 頭が硬いものに当たる、鈍い音。

 意識が、ふっと、消えた。



   ◇  ◇  ◇



 ──寒い。

 背中が冷たい。わらの感触。土と煙の匂い。

 まぶたを開けると、低い天井に黒いはりが走っている。木造の、見たことのない家屋。窓の外は、夕暮れの淡い赤。


(……ここは)


 起き上がろうとして、違和感に固まった。

 手が小さい。子供の手だ。指が細く、爪が短い。

 壁際の水瓶の表面を、慌ててのぞき込む。

 そこに映っていたのは、十歳前後の少年だった。痩せた頬、黒い髪、賢そうな目。──だが、確かに自分だった。中身は、四十歳の林健一のままで。


(……転生、ってやつか)


 驚きよりも先に、奇妙な納得が来た。階段から落ちて死んだ。それは間違いない。そしていま、見知らぬ少年の体に意識がある。


(なろう小説、よく読んでたから、こういうの理解は早いんだよな……)


 社畜の余裕というやつだろうか。あるいは、四十年生きて、何が起きても驚かない癖がついているのかもしれない。

 そして、頭の中に、文字通り「流れ込んできた」記憶があった。

 林徳りん とく、十歳。南方の小国「みん」の、没落した士族「田家」の末子。父は隠居、長兄は三年前の戦で死に、次兄は他家へ養子に出された。家には、病に伏した母がいる。


(……母さん)


 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。前世では十年前に亡くした母を、思い出した。



   ◇  ◇  ◇



 ──おお、目覚めたか。


 不意に、頭の中に直接、声が響いた。男とも女ともつかぬ、穏やかな、しかしどこか面倒くさそうな声。


「……どなた、ですか」


 声に出して聞いた瞬間、自分の喉が変声期前の少年のものになっていることに気づいた。やたらと甲高い。


 ──神、とでも呼べばよい。お前を此処へ送った者だ。


(うわ、いるんだ、ほんとに)


 ──失礼な感想だな。まあ、よい。手短に言う。この世界は、お前のいた世界の歴史でいえば、後漢末。腐った大国が崩れ、群雄が割拠する。要するに、お前の好きな三国志のような時代だ。


 林徳──いや、林健一は、息を呑んだ。


(三国志の、時代……)


 ──お前は前世で、あの書を二百回読んだそうだな。私はその執着を気に入った。だから、お前にこの世界を送る。生きるなり、足掻くなり、好きにしろ。


「……あの、勝手にお気に入りされても、困るんですが」


 社畜の癖で、つい敬語で文句を言った。


 ──ほう、面白い。普通、転生者はもっと喜ぶものだが。


「いえ、その、僕、母上が病で……」


 ──そうか。ならば、餞別をやろう。三つだ。


 声が、軽やかに告げた。


 ──一つ。『戦盤せんばん』。お前が目を閉じれば、頭の中に完璧な戦場の盤面が浮かぶ。複数手先まで読み切れよう。

 ──二つ。『万書のばんしょのめ』。お前が前世で読んだすべての書を、必要なときに頭の中で参照できる。孫子も、史記も、三国志演義も、商売の本も、すべてだ。

 ──三つ。『えにし』。お前の人生に深く関わる者と、自然に出会えるようにしてやろう。引き寄せるだけだ。口説き落とすのは、お前の仕事だがな。


(……強い。普通に強くないか、これ)


 ──ただし、戦の力はやらん。お前は、戦場では弓も剣も振るえぬ。十歳の体だしな。


「いや、それで結構です。むしろ、振るいたくないので」


 林健一は、四十年生きてきた中で、人を殴ったことすら数えるほどしかなかった。営業マンに、暴力は要らない。要るのは、頭と、口と、根回しだ。


 ──ふ、よい返事だ。では、励め。


 そして、声は消えた。



   ◇  ◇  ◇



 板戸を引いて、隣の部屋へ入った。

 薄い布団の上で、母が眠っていた。痩せた頬、紙のような肌、浅い呼吸。林徳の記憶の中の母は、もっと豊かな頬をしていた。冬を越えるたびに、こうして痩せていった。


「……母上」


 そっと呼びかけると、母は薄く目を開けた。落ち窪んだ眼の奥に、それでも優しい光があった。


「徳……起きていたのかい。寒いだろう」


「母上こそ、お加減はいかがですか」


「……変わらないよ。気にしなくていい」


 母は、林徳の頬に細い手を伸ばした。冷たく、骨ばっていた。

 林健一の中で、何かが、はっきりと決まった。


(──この人を、救う)


 前世の母には、何もできなかった。仕事に追われて、最後に会ったのは葬式だった。同じ後悔は、二度と、しない。


「母上。明日、街まで出てまいります。良い薬草が、北の街で売られていると聞きました」


「……お前、まだ十歳だよ。一人では危ない」


「大丈夫です。ちゃんと、戻ります」


 母は何か言いかけて、しかし、息子の目を見て口を閉じた。十歳の子供の目ではない、と気づいたのかもしれない。


(うん、まあ、中身四十だしな……)



   ◇  ◇  ◇



 翌朝、まだ暗いうちに家を出た。

 懐には、母が長年溜めていた銅銭が三十枚。家中の銭をかき集めた額だった。前世の感覚でいえば、コンビニの弁当ひとつ買える程度の重み。それが、十歳の少年に与えられた全財産だった。

 村を出て、街道を北へ歩いた。

 そして、見た。

 街道の脇に、人が横たわっていた。死んでいる。痩せこけて、骨と皮ばかりの体。背後の畑は、雑草に覆われて荒れていた。

 少し進むと、また一人。今度はまだ息があったが、目に光はなかった。

 もっと進むと、十数人の集団が、力なく歩いていた。流民だ。重税で家を失い、土地を捨てて流れる者たち。


(……これは)


 林健一の脳裏に、『三国志演義』の冒頭の一節が、文字通り浮かび上がった。万書の眼の能力が、自動的に該当箇所を引き出したのだ。


 ──「天下大勢、わせること久しければ必ず分かれ、分かれること久しければ必ず合わさる」


 中央の旧帝国「げん」は、建国五百年。十常侍のような宦官の専横、外戚との権力闘争、重税、旱魃、疫病。


(後漢末、そのままじゃないか……)


 これから、三国志と同じ動乱が起きる。各地で反乱が蜂起し、地方の豪族が軍閥化し、英傑が頭角を現す。歴史が、繰り返される。

 ──そして、自分はその時代の入り口に、立っている。


(……いや、いいんだ。僕は天下なんて、いらない)


 林健一は、ゆっくりと息を吐いた。前世で十六年、法人営業をやって思い知ったことがある。出世は、求める者には来ない。求めない者の元へ、勝手にやってくる。だから、自分には来ない。


(母さんの薬代だけ稼げれば、それでいい)


 そう、自分に言い聞かせて、歩を進めた。



   ◇  ◇  ◇



 陽が中天に昇った頃、街道脇の林から、五人の男が現れた。

 ぼろぼろの衣、錆びた刀。顔つきには、飢えと、それを通り越した何かが浮かんでいた。山賊──いや、おそらく元は普通の農民だった者たちだ。生きるために、刀を握った者たち。


「坊主、銭を出せ。命は取らねえ」


 先頭の男が、しゃがれた声で言った。

 林徳は、立ち止まった。

 逃げる、という選択肢は、十歳の足では不可能だ。叫ぶ、という選択肢も、ここに助けは来ない。


(……そうか。なるほどな)


 頭の中で、戦盤が、ひとりでに展開した。

 敵は五人。武装は粗末。連携の訓練なし。先頭の男だけが指揮を取り、後ろの四人は半ば従っているだけ。一人は明らかに病気で、足取りがおぼつかない。一人は背後をしきりに気にしている──仲間ではない、追われている?

 数秒で、すべてが見えた。

 そして、万書の眼が、過去に読んだある一節を運んできた。


 ──『孫子曰く。兵は詭道きどうなり。くするも能くせざるを示し、用いるも用いざるを示す』


(……騙し合い、か。前世で十六年やったことだ)


 林徳は、ゆっくりと笑顔を作った。十歳の子供らしい、無垢な笑みを。


「皆さま、お困りのご様子。よろしければ、私の話を、少しお聞きいただけますか」


 五人の山賊が、虚をつかれて、動きを止めた。

 ──こうして、林健一改め林徳の、東洋風異世界における最初の交渉ネゴが、始まった。

 彼が後に「徳殿」と呼ばれ、三国を駆ける軍師となる、その第一歩であることを、まだ誰も知らない。

 本人すら、知らない。



─ 序章 了 ─


次回、第一話「山賊との交渉」


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