第十六話 ─ 火と、時と、狭き道
【前回までのあらすじ】
黄世杰との契約書面が明都の戸部に届き、夏明国王の直轄機関から「確認の書状」が到達。林徳は明都に「認知」された。同じ日、趙が東の山に流民の山賊三十人が集まっていると伝える。林徳は遠距離の戦力を求めて村の東の丘に登り、そこで一人の女と出会う。蓮、北方民の女猟師、家族を山賊に殺された復讐者。彼女は「仇の二人が山賊三十人の中にいる」と告白。林徳は「あなたが村のために弓を引けば、必ずその二人も含まれる」と共闘を提案する。蓮はまだ答えず、ただ「お粥をいただいてもよいか」と告げて村へ下りた。
【主な登場人物】
林徳 主人公。十歳。中身は四十歳の元法人営業マン。武力ゼロ
関明慶 主人公の最初の家臣。元・玄朝近衛将軍家、一騎当千
蓮 北方民の女猟師。弓の名手。仇討ちを誓う
雪麗 亡国の姫。村の女手で布を織る
銭弼 元・玄朝戸部の三等官。村の収支・行政を担う
趙 元山賊の頭領。水路工事の現場頭、五歳の桃の父
徐・陳・李 趙の元手下。村の男手
桃 趙の五歳の娘
柳 趙の同僚だった女。布作りで雪麗を支える
田の翁 田家村の長老
山賊頭領 北方民の落ちぶれた元小隊長。三十人を率いる
蓮を伴って丘を下りた林徳は家の戸口で、ちょうど出てきた桃と、鉢合わせた。
桃は林徳の顔を見て、いつものように「とくにいさま!」と駆け寄ろうとした。
だがその後ろに立っていた蓮の姿に、足を止めた。
桃は蓮の背中の弓を、じっと見つめた。
五歳の小さな目に好奇心とわずかな憧れがありありと浮かんでいた。
「……ゆみ」
「桃」
「ゆみ、おおきい」
蓮はしばらく動かなかった。
三年誰にも心を開かなかった彼女の目が、五歳の女の子の無邪気さに初めて触れた瞬間だった。
ゆっくりと蓮は膝をついた。
桃と目線を合わせた。
「……これは、私の弓」
「さわっていい?」
「……だめ」
「えー」
「触っていいのは、矢の方」
蓮は背中の矢筒から矢を一本抜いて桃に渡した。
桃は両手で受け取り、目を輝かせた。
その光景を、林徳と関は戸口で静かに見ていた。
関がふと林徳に小声で言った。
「主。──あの女、お味方になります」
「左様でございますね」
「あの一瞬で、もう心の半分はこちらに、来ております」
林徳の戦盤の上で、蓮の駒が白に向かってゆっくりと動き始めていた。
◇ ◇ ◇
その夜、家の囲炉裏端で林徳は皆を集めた。
関、雪麗、銭弼、趙、徐、陳、李柳、そして蓮。
蓮は囲炉裏から少し離れた場所に一人で座っていた。彼女はまだ村に身を寄せる、と決めたわけではなかった。
林徳は灰の上に細い枝で地図を描き始めた。
田家村と、その東。山賊が集まる山。
その間の、街道。
「皆さま。東の山賊、三十人。──私たちが何もしなければ二月後、田家村は襲われます」
全員が頷いた。
「ですから、こちらから先に動きます」
関の目が、わずかに見開かれた。
「主、先に……でございますか」
「左様でございます」
林徳は淡々と続けた。
「敵が、田家村まで来てから、迎え撃つのは、不利でございます。村には子供、年寄り、病人がおります。守りながらの戦は、必ず犠牲が出ます」
「……」
「ですから敵を、こちらの好きな地形で好きな時に捕捉します。──これは攻めではなく待ち伏せの戦でございます」
戦盤が、瞬時に地図の上に、戦況を展開していた。
(敵の本拠地は東の山。──私たちが山を攻めれば敵の地の利を敵が使う。それは不利)
(だが敵が山を出て田家村に向かう途中。──ここが私たちの好きな地形を選べる場所)
(東の山から田家村への道。途中に一つだけ狭い谷がある。両側を岩で挟まれた、五十歩ほどの細い道)
◇ ◇ ◇
林徳は灰の上に谷を描き加えた。
「ここでございます。──東の山と田家村の中間。狭い谷。両側は切り立った岩。長さ五十歩」
関が地図を覗き込んだ。
「主。──ここを戦場とお決めですか」
「左様でございます。狭い谷は敵の数の利を無効にする場所でございます」
万書の眼が過去の知識を運んできた。
──孫子曰く。「狭い道は、十を以て一を撃つの地なり」。
「三十人の敵が五十歩の谷を通る間。──敵は横に三人並ぶのが精いっぱい。残りの二十七人は後ろから追従するしかありません」
「……」
「つまり谷の中では敵の戦力は最大三人。三対五、しかもこちらは関どのと趙どのたち。──勝てない戦ではない」
趙が頷いた。
「徳殿。だが敵をその谷に誘い込まねえと意味がねえ」
「左様でございます。──誘い込む策、もう考えてあります」
林徳は灰の上に、もう一つ印を加えた。
谷の手前、街道沿いに、村人が一人。
「行商人の老人に、扮した者を、街道に立たせます。──『田家村が近頃、急に栄えている。蔵には、銀十両分の銭と、上等な麻布が、山積みになっている』と、噂を、流させます」
銭弼の目が見開かれた。
「林徳どの。──餌、ですか」
「左様でございます」
「山賊が、その噂を聞いたら、必ず襲いに来ます」
「左様でございます。そして街道で襲うより、田家村まで来て襲った方が収穫が多い。だから彼らは谷を通ります」
戦盤の上で敵の動きが、林徳の計算通りに整理されていた。
◇ ◇ ◇
「ただし敵は無策で谷を通ってくれるわけではございません」
林徳は淡々と続けた。
「敵の頭領は、北方民の元小隊長。軍の経験がある男です。狭い谷に入る前、必ず斥候を出して、安全を、確認します」
「……」
「ですから私たちは谷に誰もいないように見せます。岩の陰にすべての戦力を隠す」
関が、頷いた。
「主、それで?」
「敵の本隊が谷の真ん中まで来た時。──蓮さま」
蓮が、初めて顔を上げた。
「あなたに敵の頭領をお討ちいただきます。岩の上から一矢」
囲炉裏が静まった。
蓮はしばらく林徳の目を、見ていた。
「……当てる距離は」
「四十歩ほどでございます」
「……」
「お引きいただけますか」
蓮は、わずかに口元を、緩めた。
三年、誰にも見せなかった薄い笑みだった。
「……四十歩なら、外さない」
戦盤の上で、蓮の駒が、白に確定した。
◇ ◇ ◇
「頭領が斃れたその瞬間に、谷の両側の岩の上から火を投げ落とします」
林徳は続けた。
「火、と申しますと」
「松脂を染み込ませた布の球。──趙さま、徐さま、陳さま、李さま、柳さま、雪麗さま、銭弼さま、皆さまで明日から、お作りいただきます」
趙が頷いた。
「徳殿、何個要る」
「五十個」
「……一晩で揃える」
「ありがとうございます」
林徳は灰の地図の上に火の印を打ち始めた。
谷の入口谷の中、谷の出口。
三カ所すべてに火の印が置かれた。
「敵が谷の真ん中で頭領を失った瞬間。火が谷の出口側に落ちます。──退路が断たれます」
「……」
「敵は、慌てて入ってきた側に、戻ろうとします。その瞬間、入口側にも、火が、落ちます。──両側、断たれます」
雪麗が横で息を呑んだ。
「徳殿。それは──」
「左様でございます。火攻めでございます」
林徳は淡々と続けた。
「敵は谷の真ん中で囲まれます。煙火、そして頭領の死。──大半は戦意を失います。生き残った者は岩をよじ登るか、火の薄い側に突進するか、二つに一つでございます」
「主、それで?」
「火の薄い側、入口の方に突進した者を関どのと趙どのたち、五人で待ち受けます」
関の目が輝いた。
「五対、おそらく十か、十五。──私たちは、火に追われて、戦意を、失っている敵を、迎え撃ちます。これは勝てる、戦でございます」
◇ ◇ ◇
「主」
関が、深く頷いた。
「お見事な計でございます。──ですが一つお聞きしてもよろしいですか」
「はい」
「敵が岩をよじ登って逃げた場合。あるいは谷を通らずに別の道で田家村に来た場合。──どうなさいますか」
林徳は深く頷いた。
「関どの、ご慧眼でいらっしゃいます。──そのためにもう一つ仕掛けがございます」
林徳は灰の上にもう一つの印を打った。
谷の少し手前、山の中。
「ここにもう一人潜ませます。──私自身でございます」
関の目が見開かれた。
「主、それは──」
「ご心配なく、関どの。私が戦うわけではございません。岩の陰から村への狼煙の信号を上げる役でございます」
「……」
「敵が谷を避けて別の道で田家村に向かおうとしたその瞬間、私が狼煙を上げます。村の見張りがそれを見て村人全員を納屋へ避難させます。同時に田の翁に頼んで、村の中で別の罠を用意しておきます」
雪麗が、ゆっくりと頷いた。
「徳殿。──念には念を入れたお考えでございますね」
「四十年の社畜の癖でございます」
言ってしまってから林徳は固まった。
雪麗が口元を緩めた。
蓮の目が、わずかに林徳に、向いた。
「……四十年?」
「あ、いえ、その」
「徳殿、何の話をしておられる?」
趙が横で首を傾げた。
「……いえ、すべてなんでもございません。皆さま、明日から準備に入りましょう」
林徳は深く頷いて話を、終わらせた。
社畜時代の癖が口を滑らせる。
これだけは何度繰り返しても、直らない。
◇ ◇ ◇
五日後の朝。
行商人の老人に扮した田の翁の遠縁の男が街道に立っていた。
白髭藁の笠、籠を背負った姿。
彼は街道を歩く商人や流民に声をかけていた。
「いやはや。田家村というのは近頃急に栄えてのう。蔵には銀十両分の銭と上等な麻布が山積みじゃそうな」
話を聞いた者は、ある者は呆れ、ある者は感心し、ある者は──そっと東の山の方角に走り去った。
戦盤の上で餌が敵の口に届いた。
その三日後。
東の山の頂上、山賊たちの拠点で。
頭領が地図を見ていた。
北方民の落ちぶれた元小隊長、四十代後半の目の鋭い男。
「……田家村、か」
「兄貴、行きやしょう。銀十両は近頃の俺たちには過ぎた獲物だ」
頭領は、しばらく地図を、見ていた。
そして頷いた。
「明日の夜明け前に出立する。──全員、武装整えろ」
二人の男が頭領の横で頷いた。
蓮の最後の二人の仇だった。
◇ ◇ ◇
夜明け前。
田家村の東、五里の地点、狭い谷。
両側の岩の上、計六カ所に人影が伏せていた。
関と蓮が一カ所ずつ。
趙、徐、陳、李がそれぞれ別の位置。
林徳は谷の入口からさらに手前の山の中、岩陰に潜んでいた。狼煙の準備はすでに完了。
戦盤が、瞬時に状況を整理した。
(東の方角から三十人。すでに谷の入口の二町手前。──斥候三人が先行している)
(斥候が谷の中を確認する。──こちらはすべての影を隠す。岩陰の縄もすべて止める。動かない)
(斥候が戻る。「異常なし」と報告。──敵の本隊が谷に入る)
林徳は、息を止めた。
頭の中の戦盤の上ですべての駒が、配置に着いていた。
──静かな五十歩の谷。
──岩の上の六つの影。
──敵三十人、谷に入る。
頭領が谷の真ん中、二十五歩の地点に達した。
その瞬間。
蓮の弓が引かれた。
空気が、わずかに震えた。
一矢が放たれた。
四十歩の距離。
頭領の喉に矢が、深く突き刺さった。
頭領は声も上げずに、地面に崩れた。
◇ ◇ ◇
次の瞬間。
谷の出口側、岩の上から火の球が二つ、三つ、五つ、十個、落ちた。
松脂の染み込んだ布。
谷の地面に、瞬時に炎が広がった。
乾燥した、夏の終わりの空気。
火は一気に燃え上がった。
山賊たちは頭領の死と、目の前の火に混乱した。
「兄貴っ!」
「炎、炎が!」
「逃げろ、戻れ!」
二十九人の山賊が、慌てて来た側に、走り出した。
その瞬間。
谷の入口側からも、火の球が降ってきた。
二十個。
入口の地面が燃え上がった。
両側退路が、完全に断たれた。
煙が谷の中に、立ち込めた。
山賊たちの悲鳴と、咳が混ざった。
「兄貴、岩を、登れ!」
「ダメだ、急すぎる!」
「俺たち、囲まれた──」
戦盤の上で、林徳の計算通りに敵が追い詰められていた。
半分の山賊は岩を、必死に登ろうとして転落した。
残り十五人ほどが、火の薄い入口側に突進した。
◇ ◇ ◇
入口の火を、煙にまみれて突破した山賊たち。
その目の前に。
関明慶が立っていた。
刀を抜いていた。
その横に趙、徐陳、李。
五人。
「行くぞ」
関の声が低く響いた。
次の瞬間、彼は地面を蹴った。
戦盤の上で、林徳は関の動きをリアルタイムで読んでいた。
(関どの、最初の一刀、頭領の代理と思しき男に。──彼は敵の指揮系統を確実に断つ)
(趙どのと徐どの、二人で左翼を押さえる)
(陳どのと李どの、右翼)
(残り関どの一人で、中央を突き抜ける)
関の刀は相変わらず、見事だった。
武人の家系で十六歳から、磨いてきた剣の本物の動き。
一太刀で二人を斬った。
三太刀目で、敵の動きが止まった。
残り十二人の山賊が火と煙と、関の刀と五人の戦力の前で戦意を失った。
「降伏する! 武器を捨てる!」
最初の一人が叫んだ。
次の五秒で、残り全員が武器を地面に置いた。
戦盤の上で、戦は終わった。
所要時間、わずか十分。
しかし、林徳の中で、もう一つの、戦が、まだ終わっていなかった。
◇ ◇ ◇
火がある程度、収まってから。
林徳は岩陰から、谷へ降りた。
関と趙たちが、降伏した十二人の山賊を谷の入口の地面に、座らせていた。
その十二人の中に、二人の男がいた。
二十代後半の男と、三十代前半の男。
北方民の訛り。武装は、すでに奪われている。
蓮が岩の上から降りてきた。
弓を肩に掛けていた。
彼女は十二人の中の、二人の男の前で止まった。
二人の男も、蓮の顔を見て固まった。
「……蓮、か」
「三年、探した」
「……」
「お前たちが私の家族を殺した」
蓮の声は淡々としていた。
怒りも、悲しみも、すでにその声には、なかった。
ただ長い、長い、追跡の、終わりがそこに、あった。
「……すまねえ。あの時は俺たちも、飢えていた」
「飢えていたからといって、人を殺してよい理由にはならない」
「……」
「だがお前たちを、いま私自身の手で討つことはしない」
二人の男の目が見開かれた。
「……なぜ」
「徳が申していた」
蓮は林徳の方を見た。
「『復讐は終わったあとに、何も残らない』、と」
二人の男は、しばらく黙っていた。
そして、深く頭を地面に、つけた。
「……お赦しいただけるとは思わない。だがせめて、この命お前のものだ。好きに使え」
◇ ◇ ◇
林徳は戦盤の上で、新しい盤面を見ていた。
(蓮さまの仇二人、生きている。だが彼女は討たなかった。──ということは)
(この二人、いずれ蓮さまの新しい仲間になる可能性がある)
(あるいは彼女が自分で決める時まで、こちらで預かることになる)
林徳は、ゆっくりと蓮の隣に、立った。
「蓮さま」
「呼び捨て、と申した」
「……蓮」
「うむ」
「お一つ、お聞きしてもよろしいですか」
「何だ」
「あなたのお役目は、終わりましたか」
蓮は、しばらく答えなかった。
彼女はしばらく空を、見ていた。
空には雲が、ゆっくりと流れていた。
彼女が三年追いかけ続けた仇を、目の前に置きながら、彼女は討たなかった。
三年の旅は、こうして別の形で終わろうとしていた。
「……徳」
「はい」
「私のお役目は終わった。──だが」
「はい」
「もしよければ、もう少しあなたの傍で、弓を引かせてほしい」
林徳は深く頭を下げた。
戦盤の上で、蓮の駒が、ついに完全に白として、配置に、ついた。
──南明の五雄、最後の一人。
北方民の女猟師、弓の名手、蓮。
ここに揃った。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
田家村に戻った林徳の前で、桃がまた「とくにいさま!」と走り寄ってきた。
桃の手に、今度は矢ではなく、小さな野花が握られていた。
桃はその花を、蓮に差し出した。
「れんねえさま、これ」
「……桃」
「とくにいさまから、もらったの。れんねえさまにもあげる」
蓮は、しばらくその花を、見ていた。
そして、ゆっくりと屈んで、受け取った。
涙は流れなかった。
だが、彼女の目の奥で、三年、凍り付いていた何かが、ゆっくりと溶けた。
「ありがとう、桃」
夕日が貧しい村を、赤く染めていた。
まだ林徳は、知らない。
降伏した十二人の山賊が、いずれ田家村の新しい男手として加わること。
そして蓮の仇だった二人が、彼女の弓の最初の弟子になることを。
そして、田家村の、もう一つの足音──明都の使者の、本格的な来訪が、すでに街道を、南に、進み始めていることを。
─ 第十六話 了 ─
次回、第十七話「明都の使者、参る」




