十五話 三つの足音
【前回までのあらすじ】
明国南部最大の豪族・黄家の主、黄世杰が自ら田家村を訪れた。林徳は「お納め物」の不当な要求を断り、代わりに「対等な商取引」の枠組みを提示。黄家の流通網と引き換えに、田家村の布と麦を市場価格の九割で卸す契約を口頭で結ぶ。黄世杰は「あなたが明都と繋がりを持つ日が来たら、私をお忘れなきよう」と告げて去った。林徳は四十年で初めて「これ、楽しんでるな」と気づく。──だが彼の物語は、もう村の中だけでは収まらなくなっていた。
【主な登場人物】
林徳 主人公。十歳。中身は四十歳の元法人営業マン
関明慶 主人公の最初の家臣。元・玄朝近衛将軍家の三男
雪麗 亡国の姫。村の女手で布を織る
銭弼 元・玄朝戸部の三等官。村の収支・行政を担う
趙 元山賊の頭領。水路工事の現場頭
徐・陳・李 趙の元手下。村の男手
柳 趙の同僚だった女。布作りで雪麗を支える
桃 趙の五歳の娘
田の翁 田家村の長老
蓮 北方民の女猟師。家族を山賊に殺された(今回登場)
黄世杰 黄家の主。明国南部最大の豪族
夏明国王 明国の若き君主
黄世杰との取引が成立して、十日が過ぎた。
正式な契約の書面が、黄家の使者から田家村に届いた朝。銭弼が両手で受け取り、奥座敷で内容を確認した。
「林徳どの。──書面の内容、口頭の合意と一切違いがございません。黄世杰さまは見事なお方でいらっしゃる」
「ありがとうございます。──では銭弼さま、こちらからの返書も、お願いいたします」
「承知いたしました」
銭弼は墨を磨り、筆を取った。
戸部の四年で培った文体は、玄朝中央の公文書と同じ重みを持っていた。──そしてこの返書こそがいずれ明都の戸部にも、写しとして提出される性質のものだった。
林徳の戦盤がわずかに動いた。
(……これで私の名前は明国南部の豪族界隈と、明都の戸部の両方に、正式な書類として記録される)
(つまり、明都の若き君主・夏明国王の机に書類が届くまで、もう長くはない)
◇ ◇ ◇
その日の午後、水路工事は最終段階に入っていた。
趙、徐、陳、李の四人が最後の堰を据え付けていた。明日の朝には谷川の水が、村の畑まで正式に流れる予定だった。
林徳は子供用の鍬を握り、堰の手前で土を均していた。腕にはもう四週目の筋肉がついていた。
その時、街道の方角から馬の足音が一つ聞こえてきた。
今度は一頭だけ。
乗っているのは玄朝の駅吏の制服を着た、痩せた男だった。
林徳と銭弼は顔を見合わせた。
(駅吏──玄朝中央または明国中央の、公式の文書を運ぶ役人だ)
駅吏は村の入り口で馬を止めた。
馬上から紙包みを一つ取り出した。
「田家村、林徳どの。──明国中央、戸部より書状をお届けに参った」
林徳の戦盤が瞬時に、複数の可能性を展開した。
(明国中央、戸部。──夏明国王の直轄機関だ)
(こんなに早く来るとは)
(中身は、おそらく二つに一つ。──黄家との取引の確認、または、林徳の名指しでの呼び出し)
◇ ◇ ◇
林徳は両手で書状を受け取った。
駅吏は丁寧に頭を下げ、馬の手綱を引き、街道を北へ去って行った。
書状を持ったまま、林徳と銭弼は家の囲炉裏端に戻った。
関も稽古を中断して家に入ってきた。雪麗が囲炉裏の火を整えた。
林徳は紙包みを慎重に開けた。
中には上質な絹の薄紙に書かれた、一通の書状。
文の最後には、明国中央戸部の印がはっきりと押されていた。
銭弼がその印を見て、息を呑んだ。
「林徳どの。──これは戸部の最高位の印でございます」
「最高位、と申しますと」
「戸部尚書。──夏明国王さまの、直属の重臣でございます」
林徳はゆっくりと書状を読み始めた。
万書の眼が明国の公文書の文体を、瞬時に解析した。──戸部の文章は玄朝のそれと似ているが、明国独自の語法も混ざっている。
書状の内容は思いがけぬものだった。
「……皆さま」
「主、何と書かれておりますか」
「黄家との取引、確認の書面でございます」
「……それだけですか」
「左様でございます」
関がわずかに首を傾げた。
「主、それは、安堵すべきお話、では」
「いえ」
林徳は静かに首を振った。
「──戸部の尚書が、直々に印を押した『確認の書面』、というのは、つまり」
銭弼の顔色が変わった。
「林徳どの。──夏明国王さま、ご自身が、この件を、ご認識なさった、ということでございます」
囲炉裏の火が、ぱちっと、はぜた。
◇ ◇ ◇
(……ああ、来たな)
林徳は内心で深く息を吐いた。
四十年の社畜の頭の中で、ある光景が浮かんでいた。──大企業の取引先と、初めて契約を結んだ翌日。客先の社長室から、自分宛に、お礼状が届く。「ご丁寧な契約、ありがとうございました」、という一文。
その一文の意味は、表向きの礼ではない。
「お前のことを、社長は、認知した」、という、宣言だった。
(夏明国王さまも、私を、認知なさった。──ただし、まだ評価は、されていない)
(次は、必ずもっと直接的な接触が来る。使者か、招請か、あるいは、視察か)
「皆さま。お話があります」
林徳は静かに告げた。
「これから田家村は、明国中央の目にはっきりと入ってまいります。良いことばかりではございません。──夏明国王さまのご派閥に与する者、その敵対派閥に与する者、両方がこの村を、何らかの形で揺さぶってくる可能性がございます」
「主、それは──」
「関どの。私たちはこれから、もう一段、警戒を強める必要があります」
関は深く頷いた。
雪麗も銭弼も、静かに頷いた。
その時、家の戸口から趙の声が聞こえた。
「徳殿! 大事な話がある!」
◇ ◇ ◇
趙が家の中に駆け込んできた。
顔にはいつにない緊張があった。
「徳殿。今、水路の現場に行商の老人が立ち寄った。──情報を持ってきた」
「情報、と申しますと」
「南の山、田家村から東に十里ほど。──そこに近頃、流民が集まって山賊化しとる、と」
関の手が刀の柄に触れた。
林徳の戦盤が、瞬時に地図を展開した。
(東に十里。──歩いて半日。馬なら二刻)
(山賊化した流民。──最初の十人前後の規模なら、まだ畑を耕すか、街道で物乞いをするか、で済む。だが、人数が増えて、二十人を超えると、必ず襲撃を始める)
「趙さま、人数はいかほどだと聞かれましたか」
「行商の老人の見立てで二十五から三十人。──頭領は北方民の落ちぶれた、元・小隊長らしい」
林徳はしばらく沈黙した。
戦盤の上で、いくつもの未来が展開していた。
──三十人の山賊が二月後、田家村を襲う。
──三月後、田家村は燃やされる可能性がある。
──いま何もしなければ。
「銭弼さま」
「はい」
「黄家の街道安全費を年に銀一両、お納めすることで合意いたしました。ですが田家村の周辺の山賊までは、黄家の私兵は巡回しておりません」
「左様でございます」
「ですから田家村自身で、守る術を整えねばなりません」
趙が、深く頷いた。
「徳殿、俺たち四人と関どので、十分にやれる」
「いえ、趙さま。──三十人を五人で迎え撃つのは無謀でございます。何より村人を守りながらの戦は難しい」
林徳は静かに続けた。
「ですからもう一人、お力を借りねばならないかもしれません。──遠くから援護できるお方が、必要でございます」
◇ ◇ ◇
その日の夕方、林徳は一人で村の東の小さな丘に登った。
ここは林徳が子供の頃から、よく登った丘だった。村全体が夕日の中に、一望できる場所。
頭の中の戦盤が勝手に動いていた。
──山賊三十人。村の戦力、関と趙と徐と陳と李の五人。林徳本人は武力ゼロ。
頭で勝つしかない。
万書の眼が過去の知識を運んできた。
──三十六計、第二十二計、関門捉賊。──「閉じた門の中で、賊を捉える」。
──三十六計、第十九計、釜底抽薪。──「鍋の底から薪を抜く」。
──そして何より、火攻めの計。
(火と、時間差。これが、奇襲戦の、基本だ)
(三十人を一斉に相手にせず、五人ずつに引き裂く。狭道で火で退路を断つ)
(だがそれには、遠距離から敵の頭領を確実に討てる者が必要だ)
(関どのと趙どのたちは白兵戦の戦力。遠距離は誰もいない)
林徳は深く息を吐いた。
戦盤の上で、足りない駒の形がはっきりと見えていた。
──「弓の名手」。
その時、丘の下、街道の方角から、わずかな物音が聞こえた。
風の音ではなかった。
何かが揺れている。
布と、土を、踏む音。
戦盤が瞬時に告げた。
(人が近づいている。──しかも足音を消そうとしている)
林徳は息を止めた。
関を呼ぶ余裕はなかった。
ゆっくりと後ろを、振り返った。
◇ ◇ ◇
夕日の中、丘の上に一つの影が立っていた。
女だった。
二十代半ば。痩せた頬。短く切った黒髪。狩人の革の衣。腰には短刀。背中には一張の弓と矢筒。
目には武人とも職人とも違う、独特の鋭さがあった。──獲物を何百と見極めてきた者の目。猟師の目だった。
女は林徳の十歩ほど手前で、止まっていた。
手は弓には伸ばしていなかった。
ただ林徳を、観察していた。
「……失礼ですが」
林徳は静かに声をかけた。
「どちら様でいらっしゃいますか」
女は、しばらく答えなかった。
風が丘の草を揺らした。
やがて女は、低い声で、答えた。
「……蓮」
「蓮、さま」
「呼び捨てでいい。──蓮、と」
声には無駄な感情が、ほとんどなかった。
林徳の戦盤が、瞬時に女の人物像を、組み立てた。
(北方民の訛り。だが強くはない。──故郷を離れて長い)
(衣の作り、北方の猟師のもの。だが新しくはない。三年は着続けている)
(背中の弓、上等。猟師の中でも、上位の腕の者の弓だ)
(最も気になるのは──目。あの目は家族を失った者の目だ)
「蓮、お一つお聞きしてもよろしいですか」
「……」
「あなたは東の山に集まっている山賊について、何かお聞きでいらっしゃいますか」
蓮の目が、わずかに揺れた。
その揺れだけで、戦盤は答えを確定した。
「……」
「お返事は無用でございます。──ご事情、何となくお察し申し上げます」
林徳は深く頭を下げた。
そして、ゆっくりと続けた。
「私は林徳と申します。この丘の下の田家村の者でございます。──近いうちに東の山賊が私の村を襲う可能性が、ございます」
「……」
「もしよろしければ、お話をご一緒に伺っていただけませんか。私の家の囲炉裏端で、お粥でもお召し上がりになりながら」
◇ ◇ ◇
蓮はしばらく動かなかった。
風が彼女の短い黒髪を揺らしていた。
やがてゆっくりと口を開いた。
「……あなたは私が何者か、知らないだろう」
「左様でございます」
「私の家族は山賊に殺された。三年前」
「……」
「私は、それを追って、半年、半年と、山を、移動している。──家族を殺した山賊は、五人。すでに三人を、討った。残り、二人」
林徳は静かに聞いていた。
蓮の声に、悲しみは、もうなかった。
代わりに、ある種の決意の固さがあった。
「東の山に集まっている山賊、その中に私の残り二人がいる」
「……」
「だから近いうちに、私はその山を襲う。──一人で」
「蓮さま」
「……」
「一人で三十人を討つお覚悟、ですか」
「五人討てれば十分。あとの二人で、ことは足りる」
林徳は深く息を吐いた。
四十年の社畜の頭の中で、ある言葉が響いていた。
──「復讐は終わったあとに、何も残らない」。
社畜時代、彼は社内で自分を貶めた上司を、密かに憎んでいた。「いつか見返してやる」と思いながら、十年が過ぎた。
その上司は別の部署に異動し、彼の人生から消えた。
復讐は終わらなかった。
ただ消えていった。
残ったのは、彼自身の十年分の疲労だけだった。
「蓮さま」
「呼び捨てでいい、と申した」
「……蓮」
「うむ」
「お一つだけ、ご提案を申し上げてもよろしいですか」
蓮の目が、わずかに林徳に、向いた。
「私は山賊の襲撃から村を守らねばなりません。村には五歳の女の子、十歳前後の子供たち、病気の者、年寄り、たくさんの者がおります」
「……」
「あなたがお一人で山に乗り込まれる、その前に。──私の村の守りにお力を、お貸しいただけませんか」
「……」
「あなたが、村のために、弓を、お引きいただけるなら、山賊が、村に来た時、必ずその三十人の中に、あなたの仇の二人も、含まれます。──あなたは、村を守りながら、ご自身の、お役目も、果たせます」
蓮の目が、わずかに見開かれた。
それは、想定していなかった、ある一つの可能性に、初めて気づいた者の目だった。
◇ ◇ ◇
風が夕日を揺らしていた。
丘の下では村人たちが、夕餉の支度を始めていた。
薪の煙が、土壁の家々から立ち上っていた。
蓮はしばらくその光景を、見ていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……あなたは」
「はい」
「あなたは、本当に十歳か」
「……」
林徳は答えなかった。
ただ十歳の体で、四十年の苦労人の、達観した笑みを、浮かべた。
「……お粥をいただいてもよいか」
「もちろんでございます」
「ただし、答えは、まだしない。あなたの村を、見てから、決める」
「ありがとうございます」
二人は、ゆっくりと丘を、下りた。
まだ林徳は、知らない。
蓮が村に入った瞬間、桃が彼女の弓を見て走り寄ってくることを。
そして五歳の桃の無邪気な笑顔が、三年誰にも心を開かなかった蓮を、ほんの少しずつ溶かしていくことを。
そして村の北の街道、はるか向こうの山では。
すでに山賊三十人が、密かに田家村に近づくための、地図を、囲んでいた。
頭領は北方民の落ちぶれた元小隊長。
その横に二人の男が座っていた。
蓮の最後の二人の仇が。
三つの足音が、田家村に近づいていた。
──明都の使者の足音。
──山賊の足音。
──そして新しい仲間の足音。
戦の準備は、ここから始まる。
─ 第十五話 了 ─
次回、第十六話「火と、時と、狭き道」




