第十四話 ─ 黄世杰、田家村を訪う
【前回までのあらすじ】
近隣豪族・黄家の使い黄善が、武装五人で田家村を訪れた。「お納め物として銀三両」という不当な要求を、林徳は法的根拠を問うことで揺さぶり、銭弼の戸部の威光で押し返す。さらに「お納め物ではなく商取引として」逆提案を投げ、武力行使には玄朝中央への報告を予告。黄善は降伏し、本拠地へ戻った。──だが黄家の主・黄世杰は、ある決断を下す。「林徳という十歳の少年を、自分の目で確かめねばならぬ」、と。
【主な登場人物】
林徳 主人公。十歳。中身は四十歳の元法人営業マン
関明慶 主人公の最初の家臣。元・玄朝近衛将軍家の三男
雪麗 亡国の姫。村の女手で布を織る
銭弼 元・玄朝戸部の三等官。村の収支・行政を担う
趙 元山賊の頭領。水路工事の現場頭
徐・陳・李 趙の元手下。村の男手
柳 趙の同僚だった女。布作りで雪麗を支える
桃 趙の五歳の娘
田の翁 田家村の長老
黄善 黄家の使い。前話で田家村を訪れた
黄世杰 黄家の主。明国南部最大の豪族(今回登場)
夏明国王 明国の若き君主(未登場)
黄家の使い・黄善が去って五日後の朝。
水路工事は順調に進み、すでに八割の完成を見ていた。土を掘る音と、関の稽古の刀の音と、女手たちが糸を紡ぐ音が、田家村の朝に交じり合っていた。
林徳は家の縁側で銭弼と二人で書類を見ていた。
来週からの収穫見込みの確認だった。
「林徳どの。お話を申し上げたきこと、ございます」
「銭弼さま、何でございましょう」
「黄家の主、黄世杰さま、についてでございます」
林徳の戦盤がわずかに動いた。
黄世杰、五十代後半。明国南部最大の豪族の主。
戸部に四年勤めた銭弼が、特別に名を挙げる人物。──ただ者ではない。
「お聞かせください」
「黄世杰さまは明国南部の豪族の中で、最も老獪なお方でいらっしゃいます。明国の若き君主・夏明国王さまとも、つかず離れずの関係を長年保っておられる」
「老獪、と申しますと」
「ご性分は慎重、忍耐強く、そして決断は早い。先代の黄家を継いでから三十年、領内で大きな失敗をなさったことが一度もございません」
「……失敗が一度もない、と」
「左様でございます」
林徳は深く息を吐いた。
戦盤が新しい盤面を開いた。
(……これは手強い。失敗のない男はしばしば、最も読みにくい)
(黄善が戻って五日。普通の豪族なら武力で報復するか、要求を通すためにもう一度使いを寄越す。──だが黄世杰はまだ動いていない)
(つまり彼は別の手を考えている)
◇ ◇ ◇
その時、村の入り口の方角から、馬の足音が聞こえてきた。
今度は土埃が立っていなかった。
馬は二頭。ゆっくりとした足取り。
林徳と銭弼は顔を見合わせた。
関が家の中から、刀を取って出てきた。
「主、参りましょう」
「はい」
三人で村の入り口に向かった。
馬上には二人。先頭は見覚えのある男。──黄善。
その後ろにもう一人。
白髪交じりの髭、五十代後半の品のある男。武装はしておらず、文官のような落ち着いた身なり。
戦盤が瞬時に告げた。
(……来た。黄世杰、本人)
(武装なし。供は黄善一人だけ。──完全に外交モード。武力での威圧はもうない)
林徳は深く頭を下げた。
「お初にお目にかかります。田家村にて、村の采配を任されております、林徳と申します」
白髪の男が馬上からゆっくりと林徳を見下ろした。
目には武力ではない、別の鋭さがあった。
長年、領内の何百という事案を、自分一人で見極めてきた男の目だった。
「……黄世杰だ」
声は静かだった。
黄世杰はしばらく林徳の顔を見ていた。
そして馬からゆっくりと降りた。
「林徳どの。──直接お話したく、参った」
「ありがたきことでございます。家の中へお入りください」
◇ ◇ ◇
黄世杰は林徳の家の囲炉裏端に座った。
明国南部最大の豪族の主が、貧しい村の土壁の家の中で、足を畳んでいた。
林徳の母がお茶を運んできた。
黄世杰は母に深く頭を下げた。
「お母上、突然のご無礼をお赦しいただきたい」
「……いえ、徳のお客さまであれば、私どもの大事なお客さまでございます」
母は静かにお茶を置いた。
黄世杰はお茶を一口飲んでから、口を開いた。
「林徳どの。──五日前、黄善がこちらで失礼を申し上げた。私の名代として不当な要求を突きつけた。──まずはお詫び申し上げる」
黄善が黄世杰の横で深く頭を下げた。
林徳はその光景を戦盤の上で、丁寧に観察していた。
(……これは計算された謝罪だ。黄世杰はこちらの出方をまず見ている)
(謝罪することでこちらを油断させて、本題を有利に進める手筋)
(前世の客先で、これと同じことをする役員を何人も見たな)
「黄世杰さま。──お顔を上げてください」
「いや、まずはご無礼をお赦しいただかねばならぬ」
「お赦しいたします。すべて過ぎたこと。──ですが黄世杰さまがわざわざ田家村までお越しになったのは、お詫びのためだけではございますまい」
林徳は淡々と続けた。
黄世杰の口元がわずかに緩んだ。
「……林徳どの。あなたは聞いていた通りの方、らしい」
「お耳に、私の何が届いていらっしゃいますか」
「黄善より報告を受けた。──十歳の少年が、玄朝中央の戸部の元三等官を傍に置き、不当な要求を法的根拠で押し返した、と」
「左様でございます」
「だが、それだけではない。あなたは武力での圧力を、玄朝中央への報告というもう一段上の権威で封じた」
「……」
「私が自らここに来た理由は、その手筋を見せた少年が本当に十歳なのか、自分の目で確かめるためだ」
◇ ◇ ◇
林徳はしばらく答えなかった。
戦盤が瞬時に黄世杰の心を分析していた。
(彼は私を敵か味方か、ではなく、もう一段別の物差しで見ている)
(──「使える者」か「使えない者」か。豪族の主は長年、領内の若い才をこうやって見極めてきた)
(つまりこれは就職面接のような場面だ)
林徳は内心で苦笑した。
社畜時代、就職面接は何度も受けた。中途採用で三回、転職活動で十回以上。役員クラスとの最終面接はその全てに共通する型があった。
──「相手の値踏みに、こちらも値踏みを返す」。
「黄世杰さま」
「うむ」
「お手間をおかけして、まことに申し訳ございません」
黄世杰の眉がわずかに動いた。
林徳の言葉は最初、丁寧な恐縮に聞こえた。だがその続きが意外だった。
「ですが私の方も、黄世杰さまを、自分の目で確かめたく、ちょうど考えておりました」
「……ほう」
「明国南部最大の豪族の主が、どのような方なのか。──私は田家村を率いる立場として、知る義務がございます」
黄世杰がしばらく沈黙した。
そしてゆっくりと笑い始めた。
静かな、深い笑いだった。
「……林徳どの。あなたは、見事だ」
「……」
「十歳の少年が五十六歳の私を、値踏みすると言ってのけた。──怒る気にはならぬ。むしろ心地よい」
◇ ◇ ◇
黄世杰はお茶をもう一口飲んだ。
そして本題に入った。
「林徳どの。前回、黄善が申し上げた『お納め物』は、なかったことに、いたす」
「ありがとうございます」
「代わりに、あなたが黄善に申し出た『商取引』の話。これを、本日詰めに参った」
「……」
「黄家は明国南部の街道の安全を、長年守ってきた。淮陽との交易路、明国の都への官道、いずれも黄家の私兵が定期的に巡回している。──だが、これには当然、費用がかかる」
「左様でございます」
「街道の安全と引き換えに、田家村から年に銀一両。これを、私の提案といたす。──いかがか」
林徳は瞬時に戦盤を回した。
(銀一両。──前回の要求の三分の一。これは、こちらが受け入れやすい数字)
(だが、商取引の本筋は何か。「街道の安全」という曖昧なものを、いくらで買うか、ではない)
(黄世杰は本当は、何を求めているのか?)
林徳は黄世杰の目をまっすぐ見た。
「黄世杰さま。お言葉、ありがたく承ります。──ですが、私からはこうご提案いたします」
「ほう」
「街道の安全代として、年に銀一両はお納めいたします。それに加えまして、もう一つ」
林徳はゆっくりと続けた。
「田家村がこれから生産する布と麦の余剰を、黄家に卸させていただきます。価格は淮陽の市場価格の九割。──黄家はそれを明国南部の各地に、売りさばいていただく」
黄世杰の目がわずかに見開かれた。
「……ほう」
「黄家には明国南部の流通網がお有りでいらっしゃいます。私の村には流通網がございません。──流通の手数料として、市場価格の一割を黄家にお渡しする、ということでございます」
「……」
「田家村が淮陽まで自前で運べば、運搬の費用がかかります。途中で別の山賊や、不届きな豪族に襲われる危険もございます。黄家を通せば、その心配がございません」
黄世杰はしばらく林徳を見ていた。
そして深く頷いた。
「林徳どの。──あなたは本当に十歳か」
「……黄世杰さまも、その問いをなさいますか」
「いや、無粋な問いだった。撤回する」
◇ ◇ ◇
(……これだ。これが本当の取引だ)
林徳は内心で深く息を吐いた。
社畜時代、彼が何度も客先で見てきた光景。
「お納め物」という上下関係を作る要求は断る。
代わりに「対等な取引」の枠組みに相手を引き込む。
黄家は田家村から、毎年銀一両と流通の手数料を得る。
田家村は黄家から、街道の安全と明国南部全体への流通網を得る。
──これは互いに利のある、本物の商取引だ。
黄世杰は二、三、書類仕事の細かいやりとりを銭弼と交わした。
戸部の元三等官として、銭弼は契約の条件を丁寧に詰めていった。
半刻ほどで口頭での合意ができた。
「では林徳どの。──正式な契約の書類は十日後に、私が再度お持ちする」
「お願いいたします」
黄世杰はお茶を飲み干した。
そして立ち上がろうとして、ふと座り直した。
「林徳どの。一つだけ、お聞きしてもよろしいか」
「何でございましょう」
「あなたはこれから、田家村をどこまでお考えか」
林徳はしばらく答えなかった。
戦盤が瞬時に複数の答えを用意した。
──「ただ母を救い、村を栄えさせるだけです」と謙遜するか。
──「明国南部の新しい交易の中心地にいたします」と野心を示すか。
(黄世杰は私の野心の度合いを測りに来ている)
(謙遜しすぎれば見くびられる。野心を示しすぎれば警戒される)
(……正直に答えよう)
「黄世杰さま」
「はい」
「私の正直な気持ちを申し上げます」
「うむ」
「私は当初、ただ母の薬代を稼ぎたかっただけでございます。出世する気はございませんでした」
黄世杰はわずかに笑った。
「ですが母を救う旅の中で、人と人とが繋がり、知らぬうちに村が人で満ちました。──十人を超え、近いうちに四十人、半年後には五十人になります。皆を養うには村を栄えさせるしかございません」
「……」
「ですから田家村を明国南部の小さな、しかし確かな交易の中継地にいたします。淮陽と明都の間で、人と物が必ず立ち寄る場所に。──それが私が今、見えている範囲でございます」
「明都との繋がりも、考えておるか」
「……いずれは」
黄世杰は深く頷いた。
そしてゆっくりと立ち上がった。
「林徳どの。あなたの答えは嘘がない。──私はそれが最も気に入った」
「ありがとうございます」
「もう一つだけ、申し上げる」
「はい」
「あなたが明都と繋がりを持つ日が来たら。──その時は私をお忘れなきよう」
林徳は深く頭を下げた。
「黄世杰さま。──忘れません」
◇ ◇ ◇
黄世杰と黄善は馬に乗り、街道を北へ去って行った。
来た時と同じ、ゆっくりとした足取りだった。
林徳、関、銭弼の三人は村の入り口で、それを見送っていた。
「主」
「はい、関どの」
「危ないところでした」
「……今度こそ、本当に危なかった、と思います」
「黄世杰さまは、敵に回したくない方ですね」
「左様でございます」
関はしばらく黄家の馬影が、遠ざかるのを、見ていた。
「主、もしあの方が、最後に『あなたの答えは嘘がない』と仰らなかったら」
「……」
「私たちはどうなっていたでしょう」
林徳はゆっくりと答えた。
「……たぶん黄世杰さまは私を、本気で潰しにかかった、と思います」
「……」
「明国南部最大の豪族の主が十歳の少年に、対等な商取引を申し出る。これは誰の目にも異例でございます。彼は私を試して本物だと判断したから、この取引を結んだ。偽物だと判断していれば別の手で潰していた」
銭弼が横で、わずかに震えた。
「林徳どの。私は戸部で四年。黄世杰さまの噂は何度も聞きました。──彼が自ら地方の村に出向き、対等な取引を結ぶということは私の記憶では一度もございません」
「……」
「林徳どの、あなたは今日、明国南部の歴史を一つ変えました」
林徳は深く息を吐いた。
社畜時代、こういう時の感覚を彼は知っていた。
──「大きな案件を無事に終えた直後の、ぼやけた解放感」。
体の力がすべて抜けて、足が震える。
いま、それが十歳の体の中で起きていた。
「……主、お疲れでございましょう。家にお戻りください」
「ありがとうございます、関どの」
◇ ◇ ◇
その夜、家の囲炉裏端で、林徳は、母の隣に座っていた。
雪麗が桃を寝かしつけてくれていた。
関と銭弼はそれぞれの仕事を片付けに行っていた。
母は息子の隣で、静かにお茶を注いだ。
「徳」
「はい、母上」
「今日は大きなお客さまが、いらしたね」
「……はい」
「徳、私には、よく分からないけど。──お前は、立派なことを、しているのだろうね」
林徳はしばらく答えなかった。
十歳の体の中で、四十歳の魂が、ふと揺れた。
「……母上。私は立派なことを、しているのでしょうか」
「私には分からないよ」
母はわずかに笑った。
「でも、お前の傍に、よい人たちが、集まってくる。それはお前が、よい人だから、なのだろうね」
「……」
「ただ徳」
「はい」
「無理をしないで、おくれ。──お前は、まだ十歳だよ」
林徳は深く頭を下げた。
社畜時代、誰からもこういう言葉をもらったことがなかった。
「無理をしないで」と声をかけてくれる人が、誰もいなかった。
今、彼はそれを聞いていた。
貧しい村の灰の囲炉裏の前で、十歳の体の中で。
◇ ◇ ◇
その夜、林徳はなかなか眠れなかった。
戦盤が勝手に、未来の地図を書き直していた。
(黄家との商取引、確立。明国南部の流通網に田家村が繋がる)
(一年後、村の収入は銀十両どころか、銀二十両、いえ三十両に届くかもしれない)
(半年後、村は間違いなく明都の若き君主の耳に入る)
(そして明都の若き君主・夏明国王が私を呼ぶか、私を自ら見に来るか、いずれか)
四十歳の苦労人の頭の中で、社畜時代の青ざめた夜がまた繰り返されていた。
大きな仕事を引き受けた夜。
眠れず不安で何度も、寝返りを打った夜。
だが今夜の感覚は少し違った。
(……俺、これ、楽しんでるな)
林徳はふと気づいた。
社畜時代、彼は大きな仕事を嫌々引き受けていた。心の底では出世も責任も避けたかった。
いま、彼は自分の手で田家村の未来を設計していた。
それはただの責任ではなかった。
──自分自身の人生の形を作っていく作業だった。
四十年で初めて、彼はそれを味わっていた。
まだ林徳は知らない。
黄家との取引が十日後、正式に書面で結ばれること。
そしてその書面が明都の戸部に報告として提出されること。
夏明国王の机にある書類が置かれる日が、すでに近づいていることを。
─ 第十四話 了 ─
次回、第十五話「明都より、使者来たる」




