第九話 似ている影
バーでの出来事のあと、朔也は自分の中に生まれた違和感を打ち消そうとしていました。
「ただの偶然」「気のせい」
そう言い聞かせながら向かった場所で、思いがけない男と出会います。
まだ名前も知らない、少し乱暴で、妙に人を観察している男。
この出会いが、後に物語を大きく動かしていくことになります。
扉を押した瞬間、空気が変わった。
湿った地下の匂い。
低く流れる音楽。
暗い照明の下で、人影がゆっくりと動いている。
初めての場所でも、空気は同じだった。
名前はない。
会話もほとんどない。
ただ、視線と距離だけが行き来する場所。
朔也は壁際に立つ。
水を一口飲む。
胸の奥のざわつきは、まだ消えない。
だが、それでいい。
ただの確認だ。
それだけだ。
そう思っていた。
「……へえ」
声がした。
振り向く。
男が立っていた。
暗がりでも分かるがっしりした体格。
壁にもたれ、こちらを見ている。
顔ははっきり見えない。
だが、目だけは分かった。
まっすぐこちらを見ている。
男は朔也を上から下まで眺める。
観察するような視線。
少しの沈黙。
そして、笑う。
「似てるな」
唐突だった。
朔也は眉をわずかに動かす。
「何に」
男は肩をすくめる。
「昔の投手」
軽く言う。
「高宮って知ってるか?」
胸の奥が、一瞬だけ揺れた。
「知らない」
朔也は即座に答える。
男はくすりと笑う。
「立ち方で分かるんだよ」
「長く見てるとな」
一歩、距離を詰める。
空気が、わずかに近づいた。
「ふうん」
その瞬間。
腕を掴まれた。
強い。
思っていたより、ずっと。
指が手首に深く食い込む。
「なあ」
低い声。
「遊ばない?」
朔也はすぐに腕を振り払った。
「やめてくれ」
思ったより強い声だった。
周囲の空気が、わずかに揺れる。
男は一瞬だけ黙った。
それから、小さく笑う。
「へえ」
さっき掴んだ手首を見る。
「そんな声出るんだな」
朔也は何も言わない。
そのまま出口へ向かう。
背中に視線を感じる。
振り返らない。
階段を上る。
地下の空気が遠ざかる。
外に出ると、夜の空気が冷たかった。
朔也は手首を軽く押さえる。
さっき掴まれた場所だ。
じんわりと熱が残っている。
袖を引き下ろす。
そして歩き出す。
今夜は、うまくいかなかった。
それだけだ。
そう思いながら。
地下では、男がまだ立っていた。
腕を組み、小さく笑う。
「面白いな」
ぽつりと呟く。
「やっぱ似てる」
ここで新しい人物が登場しました。
まだ名前も出ていませんが、朔也に強く興味を持った男です。
暗闇の中の短いやり取りですが、二人の距離感や空気が少しでも伝わっていたら嬉しいです。
次回は再びホテルの日常へ戻ります。
ただ、朔也の中ではすでに何かが少しずつ動き始めています。




