第十話 手首
自分でも気づかないまま、朔也の足はある場所へ向かっていました。
振り切ったはずの感情。
見ないふりをしてきた気持ち。
それでも、人は思わぬところで足を止められることがあります。
そして、誰かの言葉が、思いのほか心に残ることも。
地下を出て、夜の空気を吸い込むと
少しだけ頭が冷えた。
しばらくして、ふと気づく。
目の前にあるのは、見慣れたホテルの入口だった。
……何をしている。
無意識にここまで来ていたらしい。
朔也は小さく息を吐き、踵を返そうとした。
そのとき。
「高宮さん!」
声が飛んできた。
振り向く。
息を切らした湊が、こちらを見ていた。
「……蒼井くん」
「良かった」
湊は胸を上下させながら、ほっとしたように言う。
「探したんです」
「探した?」
「今日は来ないから……」
言葉を探すように視線を落とす。
「気になって」
「あの店に行ったんです」
「でも、いなくて」
そして顔を上げる。
「戻ってきてくれてよかった」
そのとき、手首に触れられた。
びくりと体が震える。
湊の手が止まった。
「……?」
視線が下がる。
朔也の右手首。
うっすらと赤くなっている。
湊の表情が変わった。
「高宮さん」
低く言う。
「とりあえず中へ」
肩を軽く押される。
そのままバーの中へ入った。
Bar Haven の灯りは、今夜も静かだった。
湊はカウンターの奥へ回る。
グラスに氷を落とす。
カラン、と澄んだ音が鳴った。
「座ってください」
言われるまま、椅子に腰を下ろす。
湊はタオルを濡らし、軽く絞った。
そしてカウンター越しに手を取る。
冷たい感触が、手首に触れる。
思わず息が止まった。
「少し冷やします」
静かな声だった。
タオルを当てながら、湊は眉を寄せる。
「……跡、残りますよ」
朔也は何も言わない。
氷が、からんと鳴る。
しばらく沈黙が続いた。
やがて湊が口を開く。
「お願いですから」
手を止めずに言う。
「自分を大切にしてください」
その言葉は静かだった。
責めるでもなく。
ただ、真っ直ぐだった。
胸の奥に、何かが落ちる。
これは恋ではない。
恋ではない。
そう思う。
それでも。
冷えたタオルの感触が、まだ手首に残っていた。
手首」という小さな出来事の回でした。
強く掴まれた跡。
そして、それをそっと冷やす手。
大きな事件ではありませんが、朔也の心には確かに何かが残りました。
次の回では、また少し物語が動きます。




