第十一話 余熱
前話では、湊による手当ての場面がありました。
大きな出来事ではありませんが、
咲也の中には静かに残るものがあったようです。
今回はその「余熱」が残るまま迎える、
ホテルでの出来事になります。
そして新たに現れる人物――黒崎。
ほんの短いやり取りですが、
少しだけ空気の変わる回になっています。
昨夜のことを思い出す。
冷たいタオル。
手首に触れた、静かな手。
——お願いですから、自分を大切にしてください。
責めるでもなく、
ただ真っ直ぐな声だった。
その言葉だけが、妙に残っていた。
*
ロビーは昼の光で満ちていた。
チェックインにはまだ少し早い時間。
客の姿はまばらだ。
朔也はフロント横で待機していた。
自動ドアが開く。
男がひとり、ロビーに入ってくる。
ラフなシャツ。
肩の力の抜けた歩き方。
だが、不思議と視線を引く。
男はそのままフロントへ向かった。
「チェックイン」
低い声だった。
その声に、朔也の意識がふと向く。
——どこかで聞いた声だ。
フロントスタッフが微笑む。
「ご予約のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「黒崎」
男は短く答えた。
朔也は名前よりも、その声の方に引っかかっていた。
どこかで聞いた。
そう思った瞬間。
男がこちらを見る。
視線が合う。
一瞬。
地下の湿った空気が、頭をよぎった。
暗い照明。
低い音楽。
強く掴まれた手首。
——あの男だ。
「ベルをお願いします」
フロントが言う。
朔也は一歩前に出た。
「お荷物お持ちします」
男は軽く眉を上げた。
それから、口元がわずかに歪む。
「……へえ」
小さく呟く。
「よろしく」
荷物はボストンバッグひとつだった。
朔也はそれを受け取り、歩き出す。
「こちらへどうぞ」
エレベーターの扉が開く。
二人で中に入る。
静かな箱の中。
扉が閉まる。
鏡に、二人の姿が映る。
沈黙。
そのとき。
背後から低い声が落ちた。
「昨日は悪かったな」
朔也の肩が、わずかに止まる。
黒崎の視線は下がっていた。
朔也の右手首。
「ちょっと強く握っちまった」
朔也は何も言わない。
黒崎は肩をすくめた。
「……ついな」
「似てたもんで」
軽く笑う。
エレベーターが静かに止まった。
扉が開く。
廊下へ出る。
部屋の前で立ち止まり、朔也はカードキーを差し込んだ。
電子音。
扉が開く。
荷物を中に運び、テーブルに置く。
「こちらでございます」
黒崎は部屋の中を一度見渡した。
それから朔也を見る。
ほんの一瞬、沈黙が落ちる。
黒崎はわずかに笑った。
「世話になる」
低い声。
そして続ける。
「よろしくな」
わずかに間を置いて。
「——『高宮』さん」
その呼び方には、どこか含みがあった。
朔也は表情を変えない。
ただ一礼する。
「ごゆっくりお過ごしください」
扉を閉める。
廊下に出た。
数歩歩いたところで、朔也は自分の右手首を見た。
赤みは、もうほとんど消えている。
それでも。
昨夜の感触だけが、まだ残っていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
今回はタイトル通り、
昨夜の出来事の「余熱」が残る回でした。
湊の言葉が心に残る一方で、
咲也の前に現れた黒崎。
そして最後の一言。
「よろしくな ——『高宮』さん」
偶然なのか、
それとも……。
次回はまた夜のBar Havenへ戻ります。




