第十二話 火花
昼間の出来事が、咲也の中に小さな棘のように残っていた。
落ち着くはずの場所で、再び現れる男。
静かなバーの夜に、火花が散ります。
昼間の出来事が、頭から離れなかった。
ロビーで聞いた声。
エレベーターの沈黙。
そして最後に落とされた言葉。
——『高宮』さん。
あの男は知っている。
そう確信した瞬間から、妙に落ち着かなかった。
あの男から一刻も早く遠ざかりたくて、仕事を終えるとすぐにホテルを出たはずだった。
だが、気づけば目の前にあるのは
ホテル二階。
廊下の奥。
小さなプレート。
Bar Haven。
理由は分からない。
ただ——
体が、いつもの習慣に従ってしまったのかもしれない。
湊とのやりとりも、少し気まずかったというのに。
本当なら、今夜は顔を出さないつもりだった。
咲也は一瞬だけ立ち止まる。
逡巡。
それでも結局、小さく息を吐き、扉を押した。
座って酒を飲めれば、それでいい。
何があっても、ここだけは平和なはずだから。
思った通り、
Bar Havenの灯りは今夜も穏やかな空気で迎え入れてくれた。
心がそっとほぐれていく。
この雰囲気が好きなのだ。
低い照明。
静かな音楽。
カウンターの奥でグラスを磨いていた青年が顔を上げる。
「お疲れさまです」
柔らかな声。
「ああ、お疲れ様、蒼井くん」
わずかな気後れを抱えたまま、咲也はほんの少し目を逸らす。
そして、いつもの席に腰を下ろした。
その瞬間
カウンターの端に座る男に気づいた。
ラフなシャツ。
肩の力の抜けた姿勢。
見覚えがある。
——そう思ったとき
心臓を、ぎゅっと掴まれたような感覚が走った。
呼吸が浅くなる。
男がグラスを傾ける。
横顔。
そして、こちらを見る目。
——黒崎。
安心したくて来たはずの場所に。
不穏そのものが座っていた。
黒崎はグラスを傾けながら、ちらりとこちらを見る。
口元がわずかに歪んだ。
「へえ」
低い声。
「ここに来るんだな」
咲也は視線だけ向ける。
「ええ」
短く答える。
黒崎はくすりと笑う。
氷が鳴る。
カラン。
「いい店だな」
「そうですね」
それだけの会話。
それで終わるはずだった。
だが黒崎は、ふと視線を落とした。
咲也の右手首。
「……手首」
ぽつりと言う。
咲也の動きが、わずかに止まる。
黒崎はグラスを回した。
氷が静かに鳴る。
「強く握りすぎたか」
軽い調子だった。
まるで世間話のように。
息が止まる。
よりにもよって、湊の前で。
そのとき。
カウンターの奥で、布の音が止まった。
ほんの一瞬。
それだけ。
だが空気が変わる。
湊が顔を上げていた。
視線は黒崎へ向いている。
静かな目だった。
「……お客様」
穏やかな声。
だが温度が少し低い。
黒崎が眉を上げる。
「なんだ?」
湊はグラスをそっと置いた。
「当店では、他のお客様にご迷惑になるような行為はご遠慮いただいております」
黒崎は数秒、湊を見ていた。
それから小さく笑う。
「迷惑?」
「ええ」
湊の声は変わらない。
「この方は常連のお客様ですので」
言葉は丁寧だった。
だが、はっきりと線を引いている。
黒崎は少しの間、湊を見つめた。
二人の視線が、静かにぶつかる。
それから、ふっと息を漏らす。
「……なるほど」
グラスを持ち上げる。
カラン。
氷が鳴る。
「大事にされてるんだな」
その言葉には、わずかな面白さが混じっていた。
湊は何も答えない。
ただ静かに黒崎を見ている。
黒崎は酒を一口飲む。
そして肩をすくめた。
「安心しろ」
軽く言う。
「取ったりしないさ」
少し笑う。
「ふられちまったしな」
その言葉に、湊の目がわずかに細くなる。
黒崎はグラスを揺らし、小さく笑った。
それから、湊へ視線を向ける。
「……しばらく、このホテルに世話になる。よろしくな」
Bar Havenの夜は静かだった。
グラスの中で、氷が小さく鳴る。
カラン。
その音だけが、妙に大きく聞こえた。
安心できるはずの場所に現れた、不穏な影。
黒崎の言葉は軽い調子ですが、
それぞれの胸の内では、別の火が灯り始めています。
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