第八話 動揺
昨夜のバーでのやり取りが、思いのほか朔也の中に残っていました。仕事に集中しようとしても、ふとした瞬間に蘇る言葉。
いつも通りのはずの日常が、少しだけずれていきます。
静かな揺れの回です。
翌日の勤務は散々だった。
ロビーの動きは見えている。
荷物の流れ。
チェックインの列。
タクシー待ちの客。
すべて分かっているのに、指示が半拍遅れる。
「高宮さん?」
後輩が小声で呼ぶ。
「ああ……悪い」
朔也はすぐに状況を見直す。
「3番、スイートの案内頼む」
「ドア前、タクシー一台呼んでくれ」
ベルスタッフたちはすぐ動く。
ロビーは何事もなかったように回り続けた。
それでも。
頭の中が落ち着かない。
ふとした瞬間に、昨夜の声が蘇る。
『蒼井くん、って』
氷が、からんと鳴る。
穏やかな顔。
まっすぐこちらを見る目。
『ちゃんと呼んでくれました』
朔也は小さく息を吐いた。
ただの偶然だ。
それだけの話だ。
そう思えばいい。
それなのに。
胸の奥が、妙にざわつく。
仕事が終わる。
ネームプレートを外す。
ネクタイを整える。
いつもなら、そのまま二階へ向かう。
Bar Haven。
だが今日は足が止まった。
行かない方がいい。
あそこへ行けば、また顔を見る。
また思い出す。
朔也は踵を返す。
ホテルを出る。
夜風が思ったより冷たい。
このままじゃ、いけない。
頭の中が、妙に騒がしい。
考える必要はない。
振り切ればいい。
それだけだ。
朔也は歩き続ける。
気づけば、見慣れない通りに入っていた。
地下へ続く階段。
控えめな看板。
朔也は一度だけ立ち止まる。
胸の奥が、わずかにざわつく。
それでも。
ドアを押した。
湿った地下の空気。
低い音楽。
視線だけが交差する空間。
朔也は壁際に立つ。
水を一口飲む。
胸の奥のざわつきは、まだ消えない。
だが、それでいい。
ただの確認だ。
それだけだ。
そう思っていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
バーへ行かず、別の場所へ向かう朔也。
次話では、その先で新しい人物が登場します。
物語が少し動き始める回になると思います。
よろしければ、続きをお付き合いください。




