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第七話 名前

少しだけ、静かな夜の続きです。


ホテルの日常のあと、いつものバーへ。

穏やかな時間のはずでしたが、どうやら昨夜のことは「気のせい」では済まないようです。

Bar Havenの灯りは、今夜も穏やかだった。


扉を押すと、低い照明と静かな音楽が迎える。


カウンターの奥でグラスを磨いていた青年が顔を上げた。


「お疲れさまです」


柔らかな声。


「ああ、お疲れ様、蒼井くん」


朔也はいつもの席に腰を下ろす。


「マスターは?」


湊が少し肩をすくめた。


「今日は早上がりです」


「珍しいな」


「棚卸しに心が折れたみたいで」


思わず笑う。


「それは分かる」


ホテルでも棚卸しの時期は騒ぎになる。

細かい作業というのは、妙に精神を削る。


湊はグラスを取り出す。


氷を落とす。


カラン、と澄んだ音が鳴る。


琥珀色がゆっくり満ちていく。


「いつもの、でいいですか」


「ああ」


差し出されたグラスを受け取る。


指が触れそうになって、触れない。


朔也は一口飲んだ。


ぴりりと喉を焼く感覚。


いつもの味だ。


いつもの場所。


いつもの距離。


——やはり、気のせいだ。


そう思った、そのとき。


「高宮さん」


「……ん?」


湊はグラスを磨いている。


その手が、ほんの一瞬だけ止まった。


「昨晩」


わずかな間。


布がグラスの縁を滑る。


「俺の名前、呼びましたよね」


氷が、からんと鳴る。


胸の奥が、不意に強く脈打った。


「……何の話だ」


声がわずかに低くなる。


湊は視線を上げる。


穏やかな顔。

だが、まっすぐにこちらを見ている。


「蒼井くん、って」


言葉が静かに落ちる。


逃げ道を塞ぐように。


落ち着け。


そう自分に言い聞かせる。


だが状況は、絶望的だ。


湊はまたグラスを磨き始める。


「ちゃんと呼んでくれました」


さらりと言う。


「あんな声、出るんですね」


胸の奥が強く打つ。


それは。


昨夜。


あのとき。


確かに。


『……っ、蒼井……くん』


思わず漏れた声だった。


沈黙が落ちる。


そのとき。


湊の視線がふと下がった。


「高宮さん」


「……なんだ」


「それ」


視線が胸元を指す。


朔也もつられて視線を落とす。


胸ポケットの縁に、小さなテディベアが引っかかっていた。


「あ」


緊張を忘れて、思わず苦笑する。


「外し忘れてたか」


湊が小さく笑う。


「似合ってますよ」


「からかうな」


「本当です」


湊は静かにグラスを置いた。


その視線は、まだ朔也から外れていない。


氷がまた鳴る。


バーは静かなままだ。


だが、朔也の鼓動だけが、うるさかった。


読んでいただきありがとうございます。


穏やかな会話のようでいて、少しずつ逃げ道が塞がれていく回になりました。

そして、タイトルの通り――名前の話でもあります。

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