第五十八話 まだ離さない
一度、手を出したら。
見ているだけでは、いられなかった。
朝。
同じグラウンド。
空気は、少しだけ温かい。
咲也はフェンスの内側にいた。
最初から。
外には立たない。
視線はすでにグラウンドに向いている。
少年たちが動く。
声が飛ぶ。
ボールの音。
全部が、はっきり聞こえる。
「そこじゃない」
気づけば、口に出ている。
一人の少年。
投げるタイミングがずれる。
球に力が乗らない。
咲也は近づく。
踏み出した足を指す。
「足、出たあと止まってる」
「待つな」
少年はうなずく。
構える。
投げる。
ボールが浮く。
「違う」
声が少し強くなる。
少年の指が、わずかに止まる。
それから、口を開く。
「もう一度、いいですか」
咲也はうなずく。
投げる。
まだ甘い。
「違う」
「見すぎだ」
少年の動きが止まる。
「……え」
咲也は一歩踏み込む。
視線でミットを指す。
「そこに当てにいくな」
「合わせるな」
「振れ」
少年は息を吸う。
一度、ミットから視線を外す。
構える。
投げる。
腕が振り切れる。
ボールが低く収まる。
「そう」
だが、視線は外さない。
「まだ甘い」
少年の肩がわずかに強張る。
それでも。
グローブを握る手は、緩まない。
――まだ、離さない。
咲也はそこで止まる。
一瞬。
視線が揺れる。
――ああ。
やりすぎだ。
周囲の気配が、わずかに止まる。
咲也はそこで初めて気づく。
自分の声。
自分の距離。
踏み込みすぎている。
一歩下がる。
「……もういい」
視線を逸らす。
少年は小さくうなずく。
再びボールを持つ。
音が戻る。
何もなかったように。
咲也はその場に立ったまま。
動かない。
胸の奥が、少しだけざわつく。
――何やってる。
小さく息を吐く。
そのとき。
「いいじゃないか」
神代の声。
咲也は振り向かない。
神代は近づかない。
少し離れたまま言う。
「ちゃんと見てる」
それだけ。
咲也は何も言わない。
視線を落とす。
土を見る。
自分の足元。
さっきより、深く踏み込んでいる。
無意識に。
言葉は出ない。
だが。
分かってしまう。
これはもう、“見るだけ”じゃない。
風が吹く。
ボールが音を立てる。
咲也の視線は、また自然に上がる。
グラウンドへ。
――離れない。
離していないのは、どちらだろう。




