第五十七話 悪くなかった
見るだけのはずだった。
それでも、体は正直だった。
Bar Haven。
扉を押す。
ベルが小さく鳴った。
「いらっしゃいませ」
湊の声。
いつもと同じ。
咲也はカウンターに座る。
何も言わない。
「いつもの、でよろしいですか」
「ああ」
短い返事。
グラスが置かれる。
氷が鳴る。
その音が、少しだけ遠く感じた。
グラスを持つ。
指先に、感触が残る。
土。
ボール。
朝の空気。
一瞬だけ、意識がそちらに引かれる。
すぐに戻す。
酒を口に運ぶ。
言葉は出ない。
湊は何も言わない。
グラスを拭く手が、静かに動いている。
しばらくして。
咲也がぽつりと言う。
「……行ってきた」
視線はグラスのまま。
湊の手が、わずかに止まる。
「そうですか」
それだけ。
聞き返さない。
咲也は小さく息を吐く。
「見るだけのつもりだった」
グラスを見つめたまま。
「だったんだけどな」
少しだけ、口元が緩む。
自分でも気づかないくらいに。
「……体が勝手に動いた」
それ以上は続けない。
グラスを傾ける。
氷が鳴る。
「そういうものですよ」
湊が言う。
静かな声。
咲也は顔を上げる。
一瞬だけ視線が合う。
すぐに逸らす。
「……分かるのか」
湊は少しだけ笑った。
「なんとなく、です」
それ以上は言わない。
沈黙。
だが、さっきまでとは違う。
重くない。
どこか、軽い。
咲也はグラスを回す。
氷がゆっくり動く。
「……悪くなかった」
小さく言う。
独り言みたいに。
湊はうなずく。
「そうでしょうね」
自然に返す。
ただ、受け取るだけ。
咲也はもう一度、グラスを傾ける。
さっきより、迷いがない。
氷が鳴る。
その音は、今ははっきり聞こえた。
Bar Havenの夜は、静かに続いていた。
悪くなかった。
その一言で、十分だった。




