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第五十六話 踏み込む

「一回だけ」の、その先。


見るだけのはずだった。




朝。


空気が、少しひんやりしている。


郊外のグラウンド。


まだ人は多くない。


整えられた土。


ネット。


奥には簡易の屋内施設も見える。


咲也は立っていた。


フェンスの外。


中を見ている。


「……来たか」


振り向く。


神代がいた。


キャップをかぶり、トレーニングウェア姿。

ホテルで見たときのスーツ姿とは違う。


「……ああ」


短く返す。


神代はそれ以上言わない。


視線だけで中を示す。


「入れよ」


咲也は少しだけ迷う。

それから、一歩踏み出す。


フェンスの内側。


土を踏む。


足の裏に伝わる感触。


わずかに、息が止まる。


――久しぶりだ。


「おはようございます!」


声が飛ぶ。


若い選手たち。


まだ身体が出来ていない年頃。

動きは粗い。


だが、真っ直ぐだ。


神代が軽く手を上げる。


黒崎もいた。


少し離れた場所で、メモを取っている。


数人のスタッフが、グラウンドの端で様子を見ている。


「見てるだけでいい」


神代が言う。


「今日はな」


咲也はうなずく。


視線はすでにグラウンドに向いている。


キャッチボール。


フォーム。


足の運び。


癖。


自然と、目で追う。


――違う。


一人。


腕の振り。


タイミング。


「……遅いな」


神代が横目で見る。


何も言わない。


少しして。


さっきの少年が投げる。


ボールが抜ける。


ミットの上。


神代が言う。


「おい」


呼ばれる。


少年が振り向く。


「そこ」


神代は顎で示す。


「もう一回」


少年が構える。


投げる。


また、少し抜ける。


咲也が動く。


気づけば、近づいていた。


「……手」


少年が驚いて見る。


咲也はそのまま続ける。


「開いてる」


短い。


それだけ。


少年は少し戸惑いながらうなずく。


もう一度投げる。


今度は、ミットの低い位置に収まる。


「……そう」


それだけ言う。


咲也は一歩下がる。


――何やってる。


神代が笑う。


小さく。


「見るだけじゃなかったな」


咲也は顔をしかめる。


「……たまたまだ」


神代は何も言わない。


ただ、前を見る。


グラウンド。


声。


土を踏む音。


ボールの音。


全部が混ざる。


咲也は立ったまま、動かない。


「……どうだ」


神代が言う。


咲也は答えない。


すぐには。


それから、ぽつりと。


「……悪くない」


神代はうなずく。


それ以上は聞かない。


空は高かった。


ボールが、その下を飛ぶ。


咲也の視線が、それを追う。


踏み込むつもりはなかった。


それでも、手は動いていた。


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