第五十四話 一回だけ
今いる場所と、かつていた場所。
どちらが正しいかではなく、どちらを選ぶか。
そんな問いを突きつけられる回です。
昼。
ホテルのロビーは静かだった。
咲也はロビーで、いつも通り動いている。
「……咲也」
声。
足を止め、顔を上げる。
神代が立っていた。
「……何だ」
「時間あるか」
短い。
「少しなら」
ロビーの端。
人の少ない場所。
神代が先に口を開く。
「やっぱり楽しいか、仕事」
「……ああ」
短い返事。
神代はうなずく。
「戻る気は」
わずかに区切る。
「ないのか」
空気が変わる。
「……ない」
即答だった。
神代は小さく笑う。
「だろうな」
だが、目は笑っていない。
「でも」
少しだけ視線を向ける。
「終わり方」
言葉を選ぶように。
「それでいいのか」
咲也は答えない。
神代は続ける。
「今、こっちで若いの見てる」
「育成」
「黒崎と」
それだけ。
説明しない。
咲也の指が、わずかに動く。
神代は気づいている。
「一回だけでいい」
続けて言う。
「見に来い」
言い切る。
「現場」
さらに一歩踏み込む。
「逃げずに来い」
静かに言う。
ロビーの音だけが残る。
咲也は視線を落とす。
何も言わない。
神代はそれ以上言わない。
一歩引く。
「それ見て」
少しだけ口調を緩める。
「それでもやらないなら、それでいい」
「じゃあな」
背を向ける。
咲也は呼び止めない。
足音が遠ざかる。
小さく息を吐く。
「……一回だけ、か」
ロビーは静かだった。
強く引き戻すのではなく、逃げ道を残したまま踏み込む。
神代のやり方は、少し不器用で、でもまっすぐです。
「一回だけ」
その言葉が、咲也にどう響くのか。




