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第五十二話  近くて、遠い

それは、まだ同じ場所にいた頃の話。


同じ球場。

同じ時間。


ただ、立っている場所が違うだけで、

見える景色は、少しずつ変わっていく。




夜。

スタジアムの光が、通路に滲んでいる。

歓声が、壁越しに低く響く。


咲也は、少しだけ足を止めた。


同じ球場。

同じ時間。


ただ――場所が違うだけ。


軽く息を吐く。


関係者通路。

見慣れた景色。


ロッカールーム。


ユニフォームの匂い。

ロジンの粉。

わずかに残る汗の気配。


ロッカーに手をかける。


タオル。

グローブ。


少しだけ指を動かす。


肩を回す。

違和感はない。


――調整は、もう終わっている。


試合前に、軽く投げてある。

確認は済んでいる。


一瞬、止まる。


このまま、帰ることもできる。


――行かない理由は、いくらでもある。


人が多い。

声が近い。

距離が、近すぎる。


それでも。


視線は、グラウンドの方へ向く。


今、あいつが投げている。


見ないままでもいい。


そう思いながらも、


足が動く。


ベンチには向かわない。


少し回り込んで、階段を上る。


照明が、わずかに暗くなる。


通路。


開けた場所に出ると、急に明るくなる。


関係者席は人がほとんどいない。

グラウンドがよく見える。


空いている席に座る。


深くは座らない。

すぐに動ける位置。


一人で、見える場所。


前を見る。


マウンド。


神代が立っていた。


変わらない。

いや、変わっている。


フォーム。

無駄がない。

整っている。


最初に見たときより、ずっと。


サインに頷く。


投げる。


速い。

低い。


ミットに収まる。

乾いた音。


一拍遅れて、歓声。


「ナイスピッチ!」

「カミシロー!」


咲也は肘を膝に乗せる。

少しだけ前に出る。


視線が動く。


ボール。

腕。

リリース。

回転。


――いいな。


もう一球。


テンポがいい。

観客の呼吸を置いていく。

合わせない。

押し切る。


「……らしいな」


神代らしかった。


小さく呟く。


神代は、表情をほとんど変えない。

ただ、頷くだけ。


でも、分かる。


ほんのわずか。


――楽しんでる。


咲也は視線を落とす。


自分の手。

指。


無意識に形を作る。


ほどく。


もう一度、前を見る。


神代が投げる。


球筋が変わった。

でも、変わっていない。


芯は同じだ。


「……いい球だ」


小さく。


試合が進む。


崩れない。

淡々と。

でも、力強い。


気づけば、前のめりになっている。

一球ごとに、追っている。


終盤。


打者が構える。


神代がセットに入る。

一瞬、動きが止まる。


視線が上がる。

スタンドの奥。


咲也のいる方。


神代はすぐに視線を外し、前を向く。


投げる。


速い。


空振り。


ミットに収まる。


「ストライク!」


歓声が弾ける。


咲也は小さく息を吐く。


――気づいてたな。


試合が終わる。


神代がマウンドを降りる。


拍手。

歓声。


それを背に受けて、ベンチ裏へ消える。


咲也は立ち上がる。


来たときと同じように、静かに。


そのまま通路へ戻る。


交わらない距離のまま。


それでいい。


外に出る。


夜の空気。

少し冷たい。


ポケットの中で、スマホが震える。


取り出す。

メッセージが一件。


『見てただろ』


咲也は少しだけ笑う。


指を動かす。


『知らん』


送る。


すぐに返る。


『嘘つけ。スタンドにいただろ』


咲也は空を見上げる。


スタジアムの光が滲む。


指を動かす。


『見るな。試合に集中しろ』


送る。


『いい球だったろ』


歩きながら、打つ。


『まあな』


送信。


ポケットに戻す。


それ以上は来ない。


それでいい。


小さく息を吐く。


口元が、わずかに緩む。


――近くて、遠い。


それくらいが、ちょうどいい。


夜が、静かに続いていく。





近くにいるのに、交わらない。


それでも、ちゃんと届いている。


そんな距離が、

あの頃の二人には、ちょうどよかった。


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