第五十一話 一番だよ
アメリカでプレーしていた頃の話。
まだ、何も変わっていなかった夜。
それは、まだアメリカで投げていた頃――
夕方。
まだ日が落ちきらない時間。
インターホンが鳴る。
咲也は玄関へ向かった。
扉を開ける。
「お疲れ」
神代が立っている。
ラフな格好。
キャップを後ろにずらし、手にはコンビニ袋。
「なんでいるんだよ」
「近く通った」
即答。
嘘だ。
「お前んちから、ここ逆方向だろ」
「上がっていいか」
もう靴を脱ぎかけている。
「聞く前に入るなよ」
「いいだろ別に」
ずんずんと、遠慮もなく上がり込む。
リビングへ。
「……はあ」
ため息をつきながら、咲也は後を追った。
神代はソファに座り、袋をテーブルに置く。
「これ」
「なんだよ」
「酒」
「お前、明日登板だろ」
「お前もだろ」
「俺は調整だよ」
「じゃあ軽くな」
勝手に開ける。
「おい、話を聞け」
返事はない。
完全に居座る気だ。
ため息をつき、咲也はキッチンへ向かう。
グラスを二つ出す。
戻ると、神代はもうテレビをつけている。
「おい」
「相変わらず、落ち着くなここ」
聞いていない。
「で、なんだよ」
神代は一瞬だけ黙る。
グラスを回し、視線を落とす。
「……振られた」
「は?」
「振られた」
咲也は一瞬止まる。
それから、ため息。
「帰れ」
「ひどくないか」
「なんで俺んとこ来てんだよ」
「なんとなく」
「なんとなくで来るな」
神代が少しだけ笑う。
弱い笑い。
「……お前ならいいかなって」
咲也は何も言わない。
グラスを持ち、一口飲む。
「で」
「何がダメだったんだ」
「分からん」
「分かれよ」
「分からんものは分からん」
神代はグラスを見つめたまま、
「まあ」
「投げてる方が楽しいな」
「は?」
「野球してる方がいい」
「お前、何言ってんだ。そんなの……」
一瞬の間。
咲也が、ニヤリと笑う。
「当たり前だろ」
「だよな」
少しだけ笑う。
今度は、ちゃんとした笑い。
いつもの軽口が戻る。
咲也はグラスを置く。
「明日、投げるんだろ」
「ああ」
咲也は一度だけ息を吐く。
「全部ぶつけてこい」
神代が顔を上げる。
それから、笑う。
「それな」
軽い。
もう、いつもの神代だ。
咲也は肩をすくめる。
「単純だな」
「悪いか」
「悪くない」
神代は立ち上がる。
「じゃあ帰る」
「早えな」
「来ただけだからな」
「迷惑だわ」
「また来る」
「来んな」
神代は笑いながら、玄関へ向かう。
「おい」
「ん?」
神代が振り向く。
「……なんか食ってけ」
視線は逸らしたまま。
「いいのか?」
「いいよ。作る」
神代の声が弾む。
「いいのか!?」
「……うるせえな」
神代が戻ってくる。
「咲也の飯、久しぶりだし」
「別に大したもんじゃねえよ」
キッチンに向かいながら言う。
「それがいいんだよ」
即答。
「懐かしいし、日本の味するし」
神代は少し視線を落とす。
「好きだし」
咲也は何も言わない。
冷蔵庫を開け、食材を取り出す。
「座ってろ」
「手伝うか?」
「いらん」
「そうか」
素直に引く。
それでも落ち着かないのか、少しだけ覗く。
「何作るんだ」
「適当」
「絶対うまいやつだろ、それ」
「知らねえよ」
「いや絶対だって」
包丁の音が鳴る。
一定のリズム。
神代はそれを聞いている。
さっきまでとは違う空気。
「なあ」
「なんだよ」
「こういうの、久しぶりだな」
包丁の音が止まる。
「何が」
「一緒に飯食うの」
「まあな」
音が戻る。
「神代、お前、ちゃんと食ってんのか」
「食ってる」
「絶対適当だろ」
神代が目を逸らす。
「栄養管理とか、苦手なんだよ」
軽く笑う。
「毎日、お前が作ってくれたらいいのにな」
「楽しようとすんなよ」
憎まれ口を叩きながら、視線を逸らす。
「……今度、弁当でも作ってやろうか」
一瞬、空気が弾む。
「マジで!? やった!」
「やかましい」
さっきまでの落ち込みが嘘みたいだ。
咲也は小さく息を吐く。
「なあ」
「なんだよ」
「明日、投げるんだよな」
「ああ」
「見に来るか?」
神代が言う。
咲也の手が、一瞬止まる。
「は?」
振り向く。
神代は少し笑っている。
「暇だろ」
「だから調整だって言ってんだろ」
「来いよ」
軽い。
でも、真っ直ぐだ。
咲也は少しだけ考える。
「気が向いたらな」
神代が笑う。
「来るな、それ」
「うるせえ」
料理を皿に盛る。
「ほら」
テーブルに置く。
神代がそれを見る。
一瞬だけ、表情が柔らぐ。
「やっぱいいな」
「何が」
「これ」
一口。
「うまい」
即答。
「そうかよ」
咲也も座る。
「お母さんの味だ」
「よし。お前はもう食わなくていい」
神代はもう一口食べる。
「なあ」
「なんだよ」
「明日、いい球投げるわ」
「当たり前だろ」
「見せてやる」
「勝手にしろ」
神代が目を丸くして、笑う。
「その顔で言うなよ」
「どんな顔だ」
「楽しみにしてるって顔」
「してねえよ」
「してるって」
軽い。
いつも通りみたいに。
「やっぱり、お前といるのが一番だよ」
神代が笑う。
いつものように。
咲也はそれを見て、わずかに目を細める。
――ああ、俺もだよ
その言葉は、いつも飲み込んでいた。
夜が、流れていく。
何気ない一言ほど、残るものかもしれません。




