第五十話 消えない感覚
屋上でボールを握った感覚は、思っていた以上に残るものらしい。
消したつもりでも、身体は覚えている。
そんな夜の話です。
Bar Haven。
グラスを傾ける。
氷が鳴る。
指先に、まだ感覚が残っている。
視線を落とす。
自分の手。
――くだらないな。
小さく息を吐く。
酒が喉を通る。
それでも、消えない感覚。
カウンターの奥では、湊がグラスを拭いている。
いつもと同じ動き。
変わらないはずの光景。
グラスを置く。
そのとき。
湊の手が、わずかに止まった。
ほんの一瞬。
それだけ。
だが、視線がこちらに向く。
咲也は眉をひそめる。
「……何だ」
先に口を開く。
湊は顔を上げる。
「いえ」
短い返事。
だが、視線は外れない。
「……何だよ」
湊は少しだけ首を傾げた。
「手」
一言。
咲也の動きが止まる。
「……は?」
「残ってますね」
静かな声。
咲也は視線を落とす。
グラスを持つ手。
力の入り方。
――同じだ。
さっきと。
「……何がだ」
視線を逸らしたまま言う。
湊は少しだけ笑った。
「さあ」
沈黙。
氷が、ゆっくり鳴る。
グラスを持つ。
わずかにタイミングがずれる。
――くそ。
小さく息を吐く。
「……見すぎだ」
低く言う。
「見てませんよ」
すぐに続ける。
「目に入っただけです」
咲也は何も言わない。
グラスを見つめる。
氷が回る。
その音だけが残る。
手の感覚は消えない。
グラスを持ち直す。
同じ手で。
それを見て、湊は何も言わない。
ただ一瞬だけ、手を止めた。
それだけだった。
夜は、静かに続く。
咲也は、もう一度手を見た。
指。
開き。
力の入り方。
さっきと同じだ。
消えない。
消えないまま、残っている。
グラスを置く。
ほんのわずかに。
指が、形をなぞる。
――この感覚。
知っている。
忘れていない。
ずっと昔から。
身体に残っている。
視線が落ちる。
そのまま、動かない。
夜の音が遠のく。
静かに。
ゆっくりと。
沈んでいく。
――あのときも。
同じ感覚だった。
---
夜。
スタジアムは、満員だった。
ライトスタンドまで、人で埋まっている。
ざわめきが、波のように揺れる。
その中心。
マウンド。
咲也は立っていた。
照明が落ちる。
白い光。
影が足元に伸びる。
「――サクヤ!」
声が飛ぶ。
一つじゃない。
重なっていく。
名前。
歓声。
手拍子。
咲也は小さく息を吐く。
グローブを軽く叩く。
指先の感覚。
問題ない。
むしろ、軽い。
そのとき。
視線を感じる。
振り向く。
神代がいる。
同じユニフォーム。
ベンチの端。
少し離れた位置で、こちらを見ている。
目が合う。
一瞬。
神代の口元が、わずかに上がる。
隠しきれていない。
――いいな、って顔。
咲也は目を細める。
つられるように、口元が緩む。
前を向く。
キャッチャーが構える。
サイン。
頷く。
セット。
静まる。
ほんの一瞬。
スタジアムの音が遠のく。
振る。
ボールが走る。
ミットに収まる。
乾いた音。
一拍遅れて、歓声が爆発する。
「うおおおお!」
「ナイスボール!」
波が返ってくる。
熱。
音。
全部が身体に入る。
「……っ」
笑う。
勝手に。
抑えない。
二球目。
三球目。
リズムが合う。
観客と。
チームと。
全部。
投げるたびに、返ってくる。
会話みたいに。
ふっと、笑う。
――楽しい。
それだけだ。
神代の視線を感じる。
さっきより、少しだけ前のめり。
完全に見ている。
分かりやすい。
もう一球。
強く。
真っ直ぐ。
ミットに突き刺さる。
歓声が跳ねる。
神代が頷く。
今度は隠していない。
嬉しいときの顔。
咲也は肩を揺らす。
笑いながら。
もう一球。
振る。
音が弾ける。
夜空の下。
光の中。
咲也は、笑っていた。
――戻りたいなんて、思わなかった。
あのときは。
---
グラスの中で、氷が鳴る。
ゆっくりと、現実に戻る。
Bar Haven。
低い照明。
静かな音楽。
咲也は目を開ける。
手を見る。
さっきと同じ形。
少しだけ、力が入っている。
小さく息を吐く。
グラスを持つ。
今度は、少しだけ自然に。
「……戻るわけねえだろ」
誰にも聞こえない声。
それでも、はっきりと。
わずかに遅れて。
「……今さら」
付け足すように。
視線を上げる。
カウンターの奥。
湊がいる。
変わらない動き。
静かな距離。
咲也は何も言わない。
ただ、グラスを傾ける。
氷が鳴る。
その音だけが、残る。
――それでも。
手は、覚えている。
夜は、まだ続いていた。
戻らないと決めていても、
身体は覚えているものがある。
その“消えない感覚”が、
これからどう影響していくのか。
少しずつ、動き始めます。




