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第四十九話 一球だけ

ほんの少しのつもりでした。

それだけのはずのことが、形を変えていきます。


屋上庭園は、昼の光に包まれていた。


手入れされた植え込み。

静かな風。

街の音は遠い。


咲也はフェンスのそばに立っていた。


特に理由はない。


ただ、足が向いた。


ポケットに手を入れる。


指先に触れる感触。


星を抱えたクマのキーホルダー。


取り出すことはしない。


そのまま、指で転がす。


風が抜ける。


そのとき。


「やっぱりここか」


背後から声がした。


振り向く。


神代だった。


「こういうとき、屋上来るよな。昔から」


軽い調子で続ける。


手には、ボール。

もう片方の手には、使い込まれたグローブ。


白い。

見慣れた形。


咲也は一瞬だけ視線を落とす。


それから、逸らす。


「……何してる」


神代は肩をすくめる。


「散歩だ」


何でもないように言う。


ボールを軽く放って、受ける。


それから、咲也に向けて放る。


咲也の手が、反射的に出る。


掴む。


乾いた音。


そのまま、止まる。


指先に伝わる感触。

重さ。

硬さ。

縫い目。


咲也は何も言わない。


視線だけが、わずかに動く。


神代が言う。


「一球だけ」


軽い調子。


だが、押しつける感じはない。


「投げてみろよ」


咲也は眉をひそめる。


「……やらない」


即答。


神代はうなずく。


「だろうな」


それ以上は言わない。


ただ、ボールを手の中で転がす。


少し間。


風が吹く。


咲也は小さく息を吐く。


「ここ、ホテルだぞ」


「一球くらいなら平気だろ」


神代はあっさり言う。


「誰もいないしな」


咲也は黙る。


視線が、ボールに向く。


白い縫い目。


指に馴染む感触。


――来る。


思うより先に、身体が反応する。


咲也は動かない。


ボールを見つめる。


握ったまま。


神代は何も言わない。


待っている。


咲也は小さく息を吐いた。


「……一球だけだぞ」


神代がわずかに笑う。


何も言わない。


咲也は位置を取る。


足を開く。

重心を乗せる。


構える。


自然に。


考える前に、形ができる。


腕が上がる。


振る。


ボールが離れる。


一直線。


風を切る音。


神代のグローブに収まる。


乾いた音が、庭園に響いた。


その一瞬。


空気が変わる。


咲也の手が、わずかに震える。


すぐに止める。


神代は何も言わない。


ただ、ボールを見ている。


それから、咲也を見る。


咲也は視線を逸らした。


「……終わりだ」


短く言う。


それ以上はない。


踵を返す。


歩き出す。


背中に声はかからない。


ただ、風だけが通り抜ける。


手の感覚が残っている。


消えないまま。


咲也はポケットに手を入れる。


キーホルダーに触れる。


そのまま、握る。


何も言わない。


屋上庭園には、また静けさが戻っていた。




たった一度でも、身体は覚えています。

その感覚は、簡単には消えません。


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