第五話 誤認
暗い場所では、人の輪郭は曖昧になります。
似ている気がする横顔。
見覚えのある目元。
けれど、それが本当に誰なのかは、
その場でははっきりしないものです。
朔也にとっては、ただの「ガス抜き」のはずだった夜。
それでも、ほんの些細な違和感が残りました。
今回はそんな一夜のお話です。
水を一口飲む。
胸の奥の熱が、少しだけ落ち着く。
……いや、落ち着かせようとしているだけだ。
ふと、視線を感じる。
まっすぐな視線。
一瞬、呼吸が止まる。
淡く照らされた横顔。
見慣れている気がする。
――違う。
こんな場所に、あいつがいるはずがない。
暗がりは人の輪郭を曖昧にする。
そう自分に言い聞かせながらも、視線が外せない。
やがて、隣に腰を下ろす気配。
「……初めてですか」
低い声。
喉が、わずかに震える。
「いや」
短く答える。
沈黙。
近い。
清潔な匂いが、わずかに混じる。
「……奥、行きますか」
試すでもなく、強いるでもなく。
ただ確認するような声音。
この男はネコだろう、と勝手に決めつける。
細身で、どこか整いすぎている。
力で押してくるタイプには見えない。
自分は逆だ。
体格のせいか、タチだと思われることが多い。
何度かミスマッチを経験している。
今回も、そうなるだけだ。
途中で噛み合わずに終わる。
それでいい。
確認できれば、それで。
「ああ」
立ち上がる。
短い廊下。
左右に並ぶカーテン。
一室に入る。
狭い空間。
カーテンが閉まると、外の音楽が遠のいた。
向き合う。
暗くて表情ははっきり見えない。
だが、目だけは分かる。
真っ直ぐに、こちらを見ている気がした。
ほんの一瞬、迷う。
それでも距離を詰める。
指先が、相手の胸元に触れる。
シャツ越しの体温が、思っていたよりも熱い。
その熱に、わずかに息が乱れる。
次の瞬間。
手首を掴まれた。
ぐい、と引かれる。
体勢が入れ替わる。
背中がシーツに沈む。
主導権を奪われる。
荒い呼吸が耳元で混ざる。
思っていたのと、違う。
身体が、先に理解する。
押し寄せる熱に、堪えきれず声が漏れる。
なぜその名前が浮かんだのか、自分でも分からないまま。
「……っ、蒼井……くん」
――しまった。
一瞬、呼吸が止まる。
相手の動きが、一瞬だけ止まる。
まるで息を呑んだように。
だが、何も言わない。
次の瞬間、強く抱き寄せられた。
より深く抱き寄せられる。
かかる息の熱さに、目眩がする。
呼吸が重なり、熱が混ざる。
時間の感覚が曖昧になる。
呼吸も、熱も、どこまでが自分でどこからが相手なのか分からなくなる。
抱き寄せられたまま、深く沈んでいく。
遠くで音楽が鳴っていた気がする。
その記憶も、すぐに途切れた。
*
目を開けたとき、天井が視界にあった。
どれだけ眠ったのか分からない。
隣から、規則正しい寝息が聞こえる。
そこでようやく、現実が戻る。
朝だった。
嘘だろう。
気絶するほど良かったなんて。
首をゆっくりと傾ける。
薄い光の中で浮かぶ横顔。
目元の線が、妙に見覚えがある気がした。
やはり、似ている。
――あり得ない。
これは、ただの偶然だ。
ただのガス抜き。
それだけのはずだ。
なのに。
身体は、まだ余韻を覚えている。
天井を見つめたまま、低く呟く。
「どうして、こうなった」
ゆっくりと体を起こす。
隣の男は、まだ眠っている。
顔を確かめる気にはならなかった。
静かにベッドを抜ける。
服を整え、靴を履く。
振り返らない。
振り返れば、何かが変わる気がした。
扉を開ける。
廊下は薄暗く、音楽だけが遠くで流れている。
受付に鍵を返す。
外に出ると、朝の空気が冷たい。
胸の奥の熱が、ようやく少しだけ落ち着いた。
――ただの夜だ。
そう思い込むようにして、歩き出す。
振り返らない。
了解です。
余韻を壊さない 短め版に整えました。
⸻
後書き(短め)
ここまで読んでくださってありがとうございます。
朔也は「ただの夜だった」と思い込もうとしています。
さて、本当にそうだったのでしょうか。
次はホテルでのいつもの仕事の一日。
静かな日常に戻るはずですが、その夜——。




