第四十五話 選択肢
少しだけ、話が動きます。
ただ、それはまだ“決断”ではありません。
ホテルのロビーは、昼の光に満ちていた。
大きな窓。
行き交う人の足音。
低く流れる音楽。
その中で、ひときわ落ち着いた動きがあった。
咲也だ。
背筋はまっすぐで、動きに無駄がない。
視線の運びも、言葉の間も、すべてが整っている。
神代は少し離れた場所から、それを見ていた。
――やっぱりな。
悪くない。
小さく息を吐く。
神代は近くにいたスタッフに声をかけた。
「悪い、彼を呼んでくれるか」
スタッフは小さく一礼する。
「かしこまりました。高宮ですね」
奥へと向かっていく。
しばらくして。
「お客様」
声をかけられる。
咲也だった。
神代は軽く手を上げる。
咲也が近づいてくる。
「何かご用ですか」
仕事の顔だった。
神代は少しだけ笑う。
「呼んでおいてなんだが」
軽く肩をすくめる。
「顔を見たくなってな」
咲也は眉をひそめる。
「……業務中だ」
「見て分かるだろ」
神代は小さく笑う。
「だろうな」
周囲の音が、ゆるく流れる。
神代は視線を外したまま言う。
「……ここは」
咲也がわずかに首を傾げる。
「どうだ」
短い言葉。
だが意味は通じる。
咲也は一瞬だけ黙る。
それから、はっきりと答えた。
「いい職場だ」
迷いはない。
神代は小さくうなずく。
「そうか」
少し間が落ちる。
神代は軽く続ける。
「じゃあ」
咲也が視線を向ける。
「もう一回やる気はないのか」
一瞬。
空気が、わずかに変わる。
咲也の視線が止まる。
「……何の話だ」
神代は視線を合わせない。
ロビーの奥を見たまま言う。
「野球」
短く。
それだけ。
わずかな静けさ。
人の足音が遠くを通る。
咲也はゆっくり息を吐いた。
「……ないな」
間はあった。
だが、迷いはなかった。
神代は小さくうなずく。
「だろうな」
それ以上は踏み込まない。
少し間。
それから、さりげなく続ける。
「……コーチ、とか」
咲也の眉が、わずかに動く。
「……は?」
神代は肩をすくめる。
「教える側」
軽い調子は崩さない。
だが、ほんの少しだけ真っ直ぐだ。
「向いてると思うがな」
咲也は黙る。
神代を見る。
その目は、さっきまでとは少し違っていた。
だが、すぐに逸らす。
「……考えたこともない」
神代はうなずく。
「そうか」
一拍。
声の調子が、わずかに落ちる。
「まあ」
「選択肢くらいには、入れとけ」
押しつけない。
答えも求めない。
咲也は何も言わない。
ただ、視線を落とす。
ロビーの光が、床に広がっている。
しばらくして。
「……仕事に戻る」
短く言う。
神代は軽く手を上げた。
「ああ」
咲也はそのまま歩き出す。
いつもの歩き方。
いつもの背中。
だが。
ほんのわずかに、何かが残っている。
神代はそれを見送った。
小さく息を吐く。
「……言ったからな」
誰に向けたわけでもなく。
それだけだった。
ロビーは、変わらず静かだった。
答えはまだ出ていません。
けれど、その前にあるものが、ひとつ増えました。




