第四十話 知らない話
少し前に、
この店で交わされた話があります。
まだ、知らない人がいます。
神代が帰ったあと。
Bar Haven は、また静かな夜に戻った。
客はもういない。
カウンターの上には、片付け途中のグラスが並んでいる。
湊はそれを一つずつ拭いていた。
そのとき。
扉が開く。
ベルが小さく鳴った。
湊が顔を上げる。
「高宮さん」
咲也が入ってくる。
「ちょっと長引いた」
店内を見回す。
「まだやってるか」
湊は時計を見る。
「もうすぐ閉店ですけど」
少し笑う。
「一杯くらいなら」
咲也はカウンターに腰を下ろした。
「じゃあ」
「いつもの」
湊は頷く。
氷を入れる。
カラン、と小さな音。
酒を注ぎ、グラスを差し出す。
咲也はそれを受け取り、一口だけ飲んだ。
しばらく黙る。
店には、低い音楽だけが流れていた。
やがて咲也が口を開く。
「……神代」
湊が顔を上げる。
「はい?」
咲也はグラスを見たまま言う。
「ロビーにいた」
湊の手が、ほんの少し止まる。
「そうなんですか」
咲也はグラスを傾ける。
氷が鳴る。
「何しに来たんだか」
少し考える。
偶然立ち寄っただけなのかもしれない。
そう思うと、考えすぎなのかもしれない。
自分でもよく分からない。
咲也は顔を上げる。
ふと、思い出したように。
「ここ、来たか?」
湊は少し考える。
「さあ、どうでしょうか」
それから、ふっと笑った。
「でも」
「焼けちゃいますね」
咲也が顔を上げる。
「咲也さんに、そんなに気にしてもらえるなんて」
「……え?」
咲也は一瞬、言葉を失った。
今、名前で呼ばれた気がした。
じわりと顔が熱くなる。
不意打ちだった。
視線を逸らす。
「……蒼井くん」
「いきなり名前で呼ぶのは……勘弁してくれ」
湊は少し首を傾げる。
「そうですか?」
小さく笑う。
「俺のことも、名前で呼んでいいですよ」
「……!」
咲也は言葉を失う。
グラスを持ち上げる。
氷が鳴る。
「……」
一度、口を開く。
「……み」
そこで止まる。
小さく息を吐く。
「……蒼井くん」
「君、たまに意地悪だな」
湊は小さく笑った。
グラスの中で、氷が静かに鳴った。
同じ夜でも、
知らない話はあるものです。




