第三十六 夜の決意
今回は湊視点のお話です。
これまで少しだけ語られていた「あの夜」の出来事。
同じ出来事でも、見えていたものは少し違っていたのかもしれません。
湊が何を知り、何を決めたのか。
そんな夜の話です。
リビングは静かだった。
ソファの上で、咲也が眠っている。
規則正しい寝息。
グラスは空になり、氷だけが小さく残っていた。
湊はしばらく、その顔を見ていた。
穏やかな寝顔だった。
不思議な人だ。
ホテルのロビーで見かけるときは、隙がない。
バーでは、どこか落ち着いている。
だが今は、ただ眠っている。
それだけの姿なのに、目が離せなかった。
湊は小さく息を吐く。
――最初に彼を見た日のことを思い出す。
――
最初に彼を見たのは、ホテルのロビーだった。
客として訪れただけの、何でもない日。
そのとき、ふと目を引いた。
ロビーに立つホテルマン。
背が高く、姿勢がいい。
動きに無駄がない。
ゲストに差し出す手の動きも、視線の流れも、どこか整っていた。
それだけなら、珍しくもない。
だが――
その人は、生き生きとしていた。
まるで、自分の立つ場所をきちんと知っている人のように。
気づけば、目を奪われていた。
それが、高宮咲也だった。
生きる目標を見失っていた、あの頃。
その姿は、ひどく鮮烈だった。
それからしばらくして、湊はホテルのバーで働くことになる。
そして、咲也と接する機会が増えた。
仕事終わりに、ふらりとバーに立ち寄る男。
多くは話さない。
それでも、短い会話があった。
それだけでよかった。
……そう思うことにしていた。
自分は同性愛者だ。
そして咲也は、おそらくノーマル。
だから、この気持ちは諦めるしかない。
最初から、分かっていたことだった。
けれど彼を知れば知るほど、思いは募っていく。
やがて、それが苦しくなった。
その思いを振り切るように――
あの夜。
湊は、発展場へ向かった。
――
店の灯りは暗かった。
低い音楽と、酒の匂い。
人は多いが、顔ははっきり見えない。
そういう場所だった。
湊はカウンターで水を一口飲む。
胸の奥が、妙に落ち着かない。
気分を変えたかった。
ただ、それだけのはずだった。
そのときだった。
カウンターの端に座る男に、目が止まる。
暗くて顔は見えない。
だが、その佇まいに見覚えがあった。
立ち方。
距離の取り方。
どこか、あの人に似ている。
気づけば、惹き寄せられていた。
隣に腰を下ろす。
「……初めてですか」
「いや」
短い答え。
わずかに震えている声。
少しの間。
「……奥、行きますか」
「ああ」
短い廊下。
左右に並ぶカーテン。
一室に入る。
狭い空間。
カーテンが閉まると、外の音楽が遠くなる。
向き合う。
暗くて表情は見えない。
それでも距離を詰める。
相手の指先が胸元に触れる。
震える指。
どこか遠慮がちだった。
こんな場所に来る男にしては、妙に不慣れな触れ方だった。
次の瞬間。
湊はその手首を掴んだ。
骨ばっていて、しなやかな手首。
ぐい、と引く。
体勢が入れ替わる。
相手の身体がベッドに沈む。
すぐ近くで、息を呑む音がした。
不意に、想い人の顔が浮かぶ。
振り払うように、首を振る。
――違う。
これは、あの人じゃない。
そのときだった。
名前を呼ばれたのは。
「……っ、蒼井くん」
――音が、消えた。
動きが一瞬だけ止まる。
喉の奥が、ひどく乾く。
――今、確かに名前を呼ばれた。
身代わりでは、ない。
――あの人だ。
胸の奥で何かが弾ける。
驚き。
怒り。
そして――喜び。
いろんな感情が一度に押し寄せる。
次の瞬間、強く抱き寄せていた。
手加減はできなかった。
やがて相手は、力が抜けるように眠りに落ちた。
いつの間にか夜が明けていた。
薄明かりが、わずかに差し込んでいる。
穏やかな寝顔。
見間違えるはずもなかった。
思い人の顔だった。
自分と同じ側の人だった。
その瞬間、迷いが消えた。
なら――
諦めない。
決意を込めて、そっと触れるだけのキスを落とした。
――
湊はゆっくり瞬きをした。
リビングは静かだった。
ソファで眠る咲也を見つめる。
湊は立ち上がった。
客間から布団を持ってくる。
そっとかける。
少しだけ迷う。
それでも、身を屈めた。
唇が触れる。
ほんの一瞬のキス。
「待ちます」
小さく呟く。
「でも」
少し笑う。
「諦めませんから」
そして静かに付け加える。
「……咲也さん」
湊は立ち上がる。
振り返らない。
客間へ戻る。
夜は、まだ静かだった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
この回は湊の「決意」の夜でした。
静かな話ですが、二人の関係にとっては大きな一歩になっています。
そして夜が明ければ、次は朝。
次回は少し空気の変わる回になります。




