第三十五話 答えを急がない距離
少し静かな夜の話です。
客間を出る。
どうにも寝付けなかった。
廊下は暗い。
リビングの灯りだけが、ぽつんとついていた。
咲也がソファに座っている。
テーブルの上には酒とグラス。
氷が静かに鳴った。
咲也はグラスを手に取る。
湊は少し立ち止まる。
「起きてたんですか」
「ああ」
それ以上、言葉は続かなかった。
「僕も、いいですか」
咲也は軽く頷く。
「ああ。座ってな」
咲也は立ち上がり、キッチンへ向かった。
もう一つグラスを持って戻ってくる。
湊はソファの隣に腰を下ろした。
咲也はテーブルにグラスを置き、酒を少しだけ注ぐ。
氷が小さく鳴る。
二人の間に、静かな夜が落ちた。
しばらくして、咲也が言った。
「……蒼井くん」
湊が顔を向ける。
「はい」
咲也はグラスを見たまま言う。
「さっきの話、夏希のやつ」
肩をすくめる。
「双子の前でさ」
「昔の男がどうとか」
「余計なこと言う」
湊は首を傾げる。
少しだけ、酒が回っているのかもしれない。
どこか拗ねたような口調だった。
こんな咲也を見るのは、初めてだった。
咲也はグラスを見つめる。
氷がゆっくり回っている。
「……まあ」
肩をすくめる。
「そうなんだけどな」
それから、ぽつりと続けた。
「ああ。好きだったよ」
湊は黙って聞いている。
「でも言えなかった」
少し笑う。
「言う前にさ」
グラスを傾ける。
「結婚するって言われた」
氷がまた小さく鳴る。
「おめでとうって」
「ようやく、それだけ言えた」
咲也は一口飲む。
それから静かに言った。
「好きだった」
「……未練はない」
グラスを見たまま言う。
「多分な」
湊は小さく笑った。
咲也がちらりと見る。
「なんだよ」
湊は首を振る。
「いえ」
少し考えてから言った。
「正直だなと思って」
咲也は鼻で笑う。
「うるさい」
グラスを傾ける。
しばらくして、咲也がぽつりと言った。
「……蒼井くん」
湊が顔を上げる。
「はい」
咲也は視線を外したまま言う。
「……蒼井くんは?」
湊が顔を上げる。
「はい?」
「好きだったやつとか」
「いないのか」
湊はグラスの縁を指でなぞった。
それから静かに言う。
「いましたよ」
咲也がちらりと見る。
「そうか」
湊は少し笑う。
「でも」
グラスを見つめたまま続ける。
「気づいてもらえませんでした」
氷がゆっくり回る。
「なんで」
湊は少し考えた。
それから肩をすくめる。
「その人」
「鈍いんです」
咲也は眉をひそめる。
「……なんだそれ」
湊は小さく笑った。
「ずっと近くにいるのに」
「ちっとも気づいてくれなくて」
咲也はグラスを傾ける。
「それは」
咲也は少し考えてから、
「辛いな」
湊は首を振る。
「でも」
「今も近くにいるので」
「振り向いてもらえるように頑張りますよ」
咲也の手が、わずかに止まった。
氷が静かに鳴る。
咲也はゆっくりグラスを置いた。
「……蒼井くん」
湊が顔を上げる。
「はい?」
咲也は少し困った顔で言う。
「まさかと思うがそれ」
「俺じゃないよな」
湊は少しだけ笑った。
それからグラスを持ち上げる。
氷が小さく鳴る。
一口飲んでから、静かに言った。
「さあ」
「どうでしょう」
咲也の手が止まる。
「……おい」
湊は肩をすくめた。
咲也はしばらく黙っていた。
グラスを見つめる。
氷がゆっくり回る。
それから小さく息を吐いた。
「……蒼井くん」
湊が顔を上げる。
「はい」
咲也は視線を外したまま言う。
「そういう冗談」
「よくないぞ」
耳のあたりが、わずかに赤い。
湊は少し笑った。
「冗談に聞こえますか?」
咲也が振り向く。
「お前な」
湊は静かにグラスを置いた。
それから穏やかに言う。
「でも」
「返事は、急がなくていいですよ」
「咲也さん」
咲也の手が止まる。
グラスの中で、氷だけが音を立てた。
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ゆっくり進んでいきます。




