第三十一話 今
過去の話をする人と、
今を見ている人がいました。
そして当の本人は、
あまり何も語りません。
神代は出されたグラスを手に取り、ゆっくり一口飲んだ。
それから咲也を見る。
「随分、静かな仕事してるんだな」
咲也は顔をしかめた。
「悪いか」
神代は肩をすくめる。
「いや」
「似合ってるよ」
しばらく沈黙が落ちる。
神代はグラスを回した。
「だが……」
「野球してる時は」
咲也の指先が、わずかに止まる。
少し間を置いて、
「もっと楽しそうだった」
咲也は視線を落とした。
グラスの中で氷がゆっくり回っている。
「……昔の話だ」
その時だった。
「違います」
静かな声。
咲也は顔を上げる。
湊だった。
神代の視線が、わずかに鋭くなった気がした。
「ほう」
湊は落ち着いたまま言った。
「今の仕事をしている時も、楽しそうですよ」
少し間を置く。
「生き生きして、輝いています」
店の空気が一瞬だけ止まった気がした。
黒崎が口元を押さえて笑いをこらえている。
神代はしばらく黙ったまま、グラスを傾けた。
それから小さく笑う。
「……そうか」
視線がこちらへ戻る。
「だそうだ」
黒崎が笑う。
「いいじゃねえか」
「ちゃんと見てくれてるやつがいて」
咲也は睨んだ。
「うるさい」
カウンターの奥で、マスターが静かにグラスを磨いている。
その音だけが、ゆっくり店に流れていた。
神代の視線が、もう一度湊へ向く。
さっきより少し長い。
咲也はそれを横目で見ていた。
神代はグラスを傾ける。
氷が静かに鳴る。
「……なるほど」
それ以上は何も言わなかった。
咲也はグラスを持ち上げる。
一口飲む。
それから小さく息を吐いた。
「……蒼井くん」
湊が顔を上げる。
「はい?」
咲也は視線を逸らしたまま言う。
「余計なこと言うな」
湊は少し笑った。
Bar Havenの夜は、まだ続いていた。
咲也はポケットに手を入れる。
指先に、小さな感触が触れた。
星を抱えたクマのキーホルダー。
咲也はそれを、そっと指で確かめる。
それから何も言わず、グラスを傾けた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
再会、距離、そして今。
三話にわたって、咲也の過去と現在が少しだけ交差しました。
神代が見ているのは、かつての咲也。
湊が見ているのは、今の咲也。
そして咲也自身は、まだ何も言いません。
ポケットの中の小さなクマが、
今の咲也の答えかもしれません。
次から、物語はまた少し動きます。




