2話:捕食者たちのお茶会
【東京霞学園 本部棟 役員会議室】
二時間が過ぎた。
分厚い遮音壁が地上の喧騒を遮断し、室内には低く唸る空調の作動音だけが満ちている。天井まで届く書棚。深い緑のクロスが敷かれた長テーブル。
神楽坂玲緒奈は、一度も背もたれに体を預けていない。
漆黒のスーツ。指先に光る一粒のリング。
彫刻のような静止。彼女が資料に目を落としている間、室内の酸素が少しずつ削られていくような錯覚に陥る。
「——以上が、今年度の予算配分案です」
西園寺椿が、手元のタブレットから視線を上げた。
抑揚を削ぎ落とした声。
「各部署からの追加要望ですが、研究局から」
提示された資料。
「……先月比、三百八十パーセント増の予算申請が来ております」
玲緒奈の口角が、わずかに上がった。
指先が卓上を叩く。コツ、コツ、と一定の刻み。
「アヤメのところね」
温度のない声。
「今度直接聞きに行くわ。何を作ろうとしているのか、私自身の耳で」
「ご予定を押さえます」
端末へ書き込む指。
十人以上の人間が詰まっている部屋。けれど、誰も口を挟まない。玲緒奈と椿。二人の間で交わされる言葉だけで、意思決定が完結していた。
玲緒奈がカップを持ち上げる。
午後の光を透かし、深く、どろりと赤く輝く液体。一口含み、再びテーブルへ。
微かに漂うのは、アールグレイの苦い香り。
「次の議題を」
部屋の端から声が上がった。
「南方の学園連合の件を報告いたします」
戦略情報局|長・如月零が立ち上がる。
対象を正確に測定するような、鋭い眼光。
「武蔵野庭園学園について」
ホログラムディスプレイに展開された、青い光の地図。
「工作員の浸透に成功しました。現在、留学生の名目で三名が潜伏。情報を収集させています」
「スケジュールは」
「同盟強制破棄まで、残り二十日。その直前の侵攻を推薦します。盟主である武蔵野を即日制圧すれば、傘下の学園は恐怖から結束を失う。裏切りを誘発させるには、最適なタイミングかと」
玲緒奈は地図を見つめたまま動かない。
沈黙。
零はそれを当然のこととして受け入れ、淡々と数字を並べた。
「現時点での推定捕虜数は、敵総生徒数約二万名に対し、八千名前後。今年度の蘇生コスト枯渇分を補填して余る黒字です」
「武蔵野の会長は」
「清川撫子。理想主義者です。我々の方針を公に批判し、弱小な学園を束ねて同盟を組織しました。ただし——外交的な手腕は高い。内部の求心力も強い。そのまま成長させれば、将来的に厄介なことになります」
「だからこそ、今ね」
玲緒奈が、地図から視線を外した。
一人一人の顔を、ゆっくりと、確認するように。
視線に晒された者の呼吸が、同時に止まる。
「異論は?」
静寂。
誰も、手を挙げない。
一秒、二秒。
「——異論があります」
テーブルの端から、低く、張り詰めた声。
司法局長・九条院紗夜だ。
背筋を伸ばし、真っ直ぐに玲緒奈を見据える。指先が、資料の端を強く握りしめていた。
「武蔵野庭園学園は、現在いかなる挑発行為も行っていません。一方的な宣戦布告は、学園陶冶競争法の理念からも逸脱します。法的根拠が薄い侵攻は、将来的な外交的批判を受けるリスクになり得ます」
しんと、静まり返る。
視線が玲緒奈へ集まる。
玲緒奈は、ただ、紗夜を見ていた。
怒りもない。呆れもない。そこにあるのは、底の見えない空虚。
「法的根拠が薄い。そう。それで?」
「……侵攻の再考を、提言します」
「そう」
それだけだった。
玲緒奈は紗夜から視線を外し、再び全員を見渡す。
「作戦名はサクラチル。開戦は三週間後にしましょう」
指示が淡々と続く。遠征軍への通達、突撃隊の先行浸透。
椿がそれを、機械的に書き留めていく。
紗夜はもう、何も言わなかった。
会議が終わったとき、玲緒奈はすでに次の資料を開いていた。
出席者が次々と部屋を出ていき、最後には椿と玲緒奈だけが残った。
扉が閉まる。
廊下を歩く足音が、遠ざかっていく。
椿が、端末から視線を上げた。
「玲緒奈様」
「なに」
「九条院紗夜の最近の言動ですが、今回に限らず反論が増えています。外部との接触も確認されており——今後の会議への招集は、再考されることをお勧めします」
資料をめくる手が、止まった。
沈黙が部屋を支配する。
「駄目よ」
「……理由を伺っても」
「組織というのはね、椿」
玲緒奈が資料を閉じ、椿を見た。
「全員が同じ方向を向いていたら、死角が生まれるの。私が間違えた時に、誰も止められない」
椿は答えなかった。
「紗夜は使える子よ。物おじせずに言える子が一人いるだけで、組織の質が変わる。情報局に目をつけられてもなお言ってくる——それがどれだけ得難いか、あなたには分かるでしょう」
「……承知しました」
椿が一礼し、再び端末に視線を戻す。
玲緒奈は、また資料を開いた。
窓の外。
広大な敷地に、名もなき影たちが、今日も訓練のために走り回っている。
武蔵野庭園学園の生徒たちの運命が、紅茶の香り漂う一室で決定された。
玲緒奈が飲み干した紅茶は、流れる血のように赤かった。
三週間後、武蔵野の空に、転移門が開く。
読みに来てくれてありがとう!!
次回、3話:嵐の前の静けさ です!5月20日 12時更新予定です!
しばらくは毎日投稿予定ですっ!
感想、ブクマ、評価などいただけると、更新のエネルギー(生贄コスト)になります! よろしくお願いします!




