2話:捕食者たちのお茶会
会議は、すでに二時間を経過していた。
分厚い遮音壁の外で、この学園という小さな国家は、いつもと変わらぬ午後を過ごしている。生徒たちは訓練に汗を流し、食堂は賑わい、誰もこの一室で何が話し合われているかを知らない。もっとも、知ったところで、彼女たちにできることは何もないのだが。
会長・神楽坂玲緒奈は、この二時間、一度として背もたれに体を預けなかった。彫刻のように直立した姿勢を、二時間も保つことに、彼女がどれほどの意義を見出しているのかは分からない。少なくとも、疲れているようには見えない。疲れるという概念が、そもそも彼女には存在しないのかもしれなかった。
「——以上が、今年度の予算配分案です」
第一副会長・西園寺椿の報告は、抑揚を削ぎ落とした、正確無比な数字の羅列だった。研究局からの予算申請が前年比三八〇パーセント増だと読み上げられた時、玲緒奈の口角がわずかに上がった。この程度の異常な数字を前に、微笑みで済ませてしまう度量を、部下たちは頼もしいと思うべきか、恐ろしいと思うべきか、今の時点では判断がつかない。
「アヤメのところね」
まるで、いたずらな子猫を微笑ましく見守るような口調だった。何を作ろうとしているのか自分の耳で聞きに行く、と玲緒奈は言った。予算が四倍近く膨らんだ理由を、後から聞くつもりらしい。順序としては、いささか逆であるように思われる。
議事は、滑らかに進んだ。十人以上の人間がこの部屋に詰めているが、実質的に発言しているのは玲緒奈と椿の二人だけだ。残りの出席者は、時折頷くための首を持ってきただけの置物のようだった。これを合議と呼ぶには、いくらか無理があるだろう。
議題は、南方の学園連合——武蔵野庭園学園に移った。
戦略情報局長・如月零が立ち上がる。彼女の眼差しは、対象を人間として見ているのか、それとも数値の集合体として見ているのか、傍からは判別がつかない。おそらく本人にとっては、その区別自体に意味がないのだろう。
「工作員の浸透に成功しました。留学生の名目で三名が潜伏中です」
淡々と、天気予報でも読み上げるように、零は続けた。声には、何の湿度もない。
手順は、いつも通りだった。まず、対象の学園が抱える弱点を洗う。武蔵野の場合は、それは「善良さ」だった。困窮した学園への留学生受け入れ制度。撫子が同盟の輪を広げるために整えたその制度そのものが、最初の扉になった。三名の少女が、架空の小学園の生徒として、正規の手続きを踏んで送り込まれる。書類は本物だ。経歴も、本物として通用するように、何ヶ月も前から丁寧に組み立てられている。この学園には、こういう「本物の偽物」を用意するための部署が、常設で存在している。
送り込んだ後は、待つだけだ。三ヶ月、あるいは半年。友人を作り、部活動に入り、先輩に懐き、時には涙を見せて、時には笑って、周囲の信頼を積み上げていく。信頼というものは、積み立てておけば、いつか使える資産になる。それだけの、単純な話だった。
今この瞬間も、三名の少女は、武蔵野の校舎のどこかで、誰かと笑い合い、誰かに頼られ、誰かの日常の一部として過ごしているはずだった。この報告の一言には、その事実は含まれていない。含める必要がないのだろう。潜伏という言葉一つで、彼女たちが積み上げてきた三ヶ月分の演技も、丁寧に紡いできた偽りの友情も、すべて要約できてしまう。この学園にとってそれは驚くべきことではなかった。これまでに滅んだ、あるいは滅ぼされた学園の数だけ、同じ手順が、同じ淡々とした報告として、この部屋で繰り返されてきたのだから。
「武蔵野を落とせば、傘下の三十校は自然と膝を折るでしょう。降伏を受け入れれば、校名と体制の維持は許可します。傀儡としての存続——それが、こちらにとっても最も損耗の少ない道筋かと」
穏当な言葉だった。この部屋で語られる中では、比較的、穏当な部類に入る言葉だった。三十校が、このまま大人しく膝を折れば、彼女たちはそれぞれの校名を保ったまま、ただ主人だけを替えて生き延びることになる。それが、今日この場で描かれている、最も血の少ない未来だった。
推定捕虜数、八千名。今年度の蘇生コストを補って余る「黒字」。
黒字。この一語が、この部屋では何の違和感もなく、ホログラムの上に浮かんでいる。八千という数字の内側に、それぞれ名前を持つ、それぞれ誰かの友人であった八千の生涯が畳み込まれていることに、この部屋の誰も、今のところ気を留めていない。人間一人の命が、この一室では会計簿の一行に収まっている。生きた人間を殺すより、帳簿の数字を一つ動かす方が、よほど手間がかからないのかもしれない。少なくとも、この部屋にいる誰の手も、直接血で汚れることはない。
武蔵野の会長、清川撫子について、零は「理想主義者」と評した。
一言だった。それだけで、彼女の人生——弱小な学園を束ね、方針を公に批判し、それでも周囲の信頼を勝ち得てきたはずの、ある一人の少女の全て——が、この部屋の中では処理済みの案件として、次のページへ流れていく。理想主義者。この学園において、その四文字が、褒め言葉として響いた例を、私は知らない。むしろ、この部屋では、それは診断書に近い。ある種の欠陥を示す、事務的な符号だ。
「だからこそ、今ね」
玲緒奈が、出席者を一人一人、順に見渡した。
その視線は、急ぐ様子も、迷う様子もなかった。まるで、すでに動かないと分かっている駒を、一つずつ確認しているだけのようだった。この視線に晒された者たちが一瞬、呼吸を止めた、という話は、おそらく本当だろう。この部屋の空気は、いつも少しだけ薄い。息を吸うたびに、何か大事なものを一緒に吸い込んでしまう気がして、誰もが浅い呼吸で、この時間をやり過ごしている。
「異論は?」
沈黙。誰も、手を挙げない。当然だ。手を挙げるという行為の代償を、この部屋の全員が正しく理解している。
一人を除いて。
「——異論があります」
司法局長・九条院紗夜だった。背筋を伸ばし、玲緒奈を真っ直ぐに見据えている。
「武蔵野庭園学園は、現在いかなる挑発行為も行っていません。一方的な宣戦布告は、学園陶冶競争法の理念からも逸脱します」
見事な正論だった。この部屋で、正論というものが実際に何かを動かした例を、私はまだ一つも見つけられていない。それでも彼女は、律義に、あるいは愚直に、毎回それを口にする。
玲緒奈は、ただ紗夜を見ていた。怒りも、呆れもない。あるのは、底の見えない空虚さだけだった。
「法的根拠が薄いねぇ。そう。それで?」
「……侵攻の再考を、提言します」
「そう」
それだけだった。正論は机の上の塵のように片付けられた。この部屋における「議論」とは、しばしばこの程度の重さしか持たない。
「作戦名はサクラチル。開戦は三週間後にしましょう」
指示は淡々と続いた。遠征軍への通達、突撃隊の先行浸透。椿がそれを機械的に書き留めていく。紗夜は、もう何も言わなかった。二度言っても結果は変わらないと、彼女自身もよく分かっているようだった。
会議が終わったとき、玲緒奈はすでに次の資料を開いていた。今しがた決めた三週間後の惨劇に、感傷を挟む余地はないらしい。
出席者が退出していき、最後に椿と玲緒奈だけが残った。
扉が閉まる。
「玲緒奈様」
「なに」
「九条院紗夜の最近の言動ですが、今回に限らず反論が増えています。今後の会議への招集は、再考されることをお勧めします」
もっともな進言だった。組織の管理としては正しい判断だろう。
「駄目よ」
「……理由を伺っても」
「組織というのはね、椿。全員が同じ方向を向いていたら、死角が生まれるの。私が間違えた時に、誰も止められない」
聞こえのいい理屈である。おそらく本人も、心からそう信じているのだろう。
「紗夜は使える子よ。物おじせずに言える子が一人いるだけで、組織の質が変わる」
椿は、それ以上何も言わなかった。彼女もまた、玲緒奈の判断に二度目の反論を試みるつもりはないようだった。
窓の外。広大な敷地で、名もなき生徒たちが、いつも通り訓練に励んでいる。彼女たちの誰一人として、自分たちの運命が、紅茶の香り漂う一室で、この日、静かに決定されたことを知らない。
玲緒奈が飲み干した紅茶は、流れる血のように赤かった。
三週間後、武蔵野の空に、転移門が開く。
読みに来てくれてありがとう!!
次回、3話:嵐の前の静けさ です!5月20日 12時更新予定です!
しばらくは毎日投稿予定ですっ!
感想、ブクマ、評価などいただけると、更新のエネルギー(生贄コスト)になります! よろしくお願いします!




