第50話 女心
レイは薬を受け取ると早々に診療所を後にする。
清雅のおかげで知りたかった情報を得ることができた。
受け取った薬をぐっと握りしめる。
「紫苑も無事だった……」
ほっと息を吐き出し、足を止める。
「稔も……」
ここ数日、気が気ではなかった。
町では、警察から漏れ出た病が、江戸に広がったのではという憶測が飛び交っている。
隊士の数人は状態が良くないため、診療所で隔離されているとも聞いた。
レイは診療所に行くことで、何か情報が得られることを期待していたのだ。
「あの二人が病に倒れることはなさそうね」
目を瞑り、心を落ち着かせる。
「わたし、何をやっているのかしら。
夫もいるというのに」
急に冷静になった。
安心すると、自分の焦りがバカみたいに思えてくる。
町にかかる橋の上から、細く流れる川を見下ろす。
「少しくらい遅く帰っても、誰も何も言わないわよね」
いつもの自分に戻れるよう深く息を吸い込んだ。
レイの夫は反物の商売で成功し、一代で店を大きくした。
その夫のもとに、最近毎晩のように人がやってきては、西洋との取引の話が話題に出るのだ。
たまたま廊下で聞こえてきた言葉に相良の名前が出てきた。
「あの男は邪魔だ」
思わず立ちすくむ。
立ち聞きなどしてはならない。
しかし……
「幕府からも目をつけられている」
レイは喉の奥がカラカラに乾くのを感じた。
(なんで?)
だが、検討はつく。
昨今の、相良をめぐる噂は、女子供でも知っている。
『西洋人を守った侍』
日本の侍を誇らしく語る男たちも多い。
そして、西洋との取引を仕切る地位についたことも……。
しかし、この話ばかりは、商人たちも面白くない。
侍ごときに、商売の何がわかるか。
(あなたは、どんどん遠くにいく)
レイは自分の本音を受け入れた。
認めたくないものだ。
隣を歩いていた男が、手の届かぬところへ行くのは。
もちろん、本心では嬉しくもある。
稔が、これほどまでに大きな人間になったことが。
それなのに心の奥底で置いて行かれた不安感がつのる。
自分の言葉ももう、届かなくなるのだろうと……
(心配が喜びを勝るものなの)
独りごちた。
「相良さん、えらく出世したみたいだね」
橋の上を渡る男が話しかけてきた。
顔馴染みの船頭さんだ。
相良と一ノ瀬、レイが頻繁に会っていたころからの知り合いだ。
「話はよく聞くようになりましたね」
話を合わせるように、当たり障りなく答える。
「ワシは誇らしいよ。
昔馴染みが大きくなるのを見るのは」
「そうですねぇ」
レイは複雑な思いをおさえつけ、口元に手をやり上品に笑って見せた。
船頭が去ると、レイの目に、腰の刀に手をやりながら、ぶらぶらと歩いてくる一人の男が目に止まった。
レイは橋の上に立ったまま、その男をじっと見る。
男はそのままレイの近くまで歩いてきた。
「久しぶりだな」
にっと白い歯で笑いかける。
「ワシを殴りつけて以来、会ってないが、相変わらず元気そうだな」
相良はレイを見下ろすと、そのまま横を通り過ぎようとした。
思わずレイは相良の袖をつかむ。
「どこに行くつもり?」
なぜか挑戦的に下から睨みつけてしまった。
「診療所」
端的に答える相良にレイは思わず「具合が悪いの?」と声を震わせた。
「いや。
警察の隊士が数人、数日戻ってこねぇ。
どんな具合か見に行くだけだ」
「あんたが?」
「そうだ」
「そういう立場じゃないでしょ」
(もし、病がうつったら、どうするつもりなのかしら)
また喧嘩になってしまいそうだ。
「お前は、いちいちワシのすることに文句を言うな」
相良は心底嫌そうにレイを見た。
そんな相良の目を見て、レイはかすかに傷つく。
その気持ちを隠すように相良を睨みつけると、乱暴に袖を放した。
「じゃあ、好きにすれば!」
言って、ぷりぷりと相良に背を向け歩き去った。
(ほんっとうに、わかってないんだから!)
相良はそんなレイの後ろ姿を、少し呆れたような、それでいて困ったような目でしばらく見つめていた。




