冷酷公爵様、笑顔を封印されていました
エドガー様を乗せた馬車が、伯爵邸の門を抜けていった。
私は玄関前に立ったまま、その姿が見えなくなるまで見送った。
車輪の音が遠ざかり、やがて静寂が戻ってくる。
……さて。
私は、ゆっくりと両手を握りしめた。
エドガー様は、笑わない。
いや。
笑わないのではなく、笑うことを禁止されている。
しかも、その命令を下したのは、あのエレオノーラ様。
帝国でも有名な、絶世の美女である。
……ということは。
もしかして。
幼い頃のエドガー様は、笑っていたのでは?
…………。
…………。
見たい。
見たい見たい見たい!!
あのエドガー様が笑っていた時代が存在するのなら、ぜひとも拝見したい!!
写真なんてない時代だけれど、肖像画ならあるかもしれない。
公爵家なのだから、幼少期の肖像画くらい残しているはずだ。
いや、残していてほしい。
絶対に。
私は勢いよく振り返った。
「ねえ!」
「は、はいっ!」
後ろに控えていた侍女が、驚いて背筋を伸ばした。
「エレオノーラ様にお会いしたいの!」
「先代公爵夫人様でございますか?」
「そう! できるだけ早く!」
「……何か急ぎのご用件でしょうか?」
「ええ!」
私は胸の前で拳を握りしめた。
「人生を左右する、とても大切な問題なの!!」
侍女の顔色が変わった。
「そ、それは大変でございますね……!」
「そうなの! 大変なの!」
何しろ、帝国一の美貌を持つ婚約者の笑顔が見られるかどうかがかかっているのだ。
これ以上の大問題があるだろうか。
いや、ない。
断じて、ない。
そして数日後。
私はクラウゼル公爵邸の応接室にいた。
高い天井には繊細な装飾が施され、大きな窓からは美しく整えられた庭園が見渡せる。
白い大理石の暖炉の上には、歴代当主の肖像画。
重厚な調度品が並ぶ室内は、さすが帝国屈指の名門公爵家といったところだ。
……けれど。
私の目は、そんなものには向いていなかった。
目の前のソファに座る、一人の女性。
エレオノーラ・クラウゼル様。
淡く輝く銀色の髪に、澄んだ青い瞳。
年齢を重ねてもなお、その美しさは少しも衰えていない。
いや、むしろ年齢を重ねたことで、神秘的な魅力が増している。
……ああ。
美しい。
本当に美しい。
なるほど、エドガー様のお顔はここから来たのね!!
「……セシリアさん」
「はいっ!」
「……どうかなさった?」
エレオノーラ様が、静かに首を傾げた。
その表情は、ほとんど変わらない。
……似ている。
ものすごく似ている。
エドガー様が女性になったら、きっとこんな感じなのだろう。
私は思わず、両手を胸の前で組んだ。
「エレオノーラ様! 今日はどうしてもお聞きしたいことがあって参りました!」
「……まあ」
エレオノーラ様は、静かにティーカップを置いた。
「……何かしら」
「エドガー様のことです!」
「……エドガー?」
「はい!」
私は大きく息を吸った。
「エドガー様って、昔は笑っていたんですか!?」
…………。
エレオノーラ様の手が止まった。
青い瞳が、ほんのわずかに見開かれる。
「……あら」
…………。
あら?
「……そうね」
…………。
そうね?
「……昔は、よく笑う子だったわ」
…………。
…………。
やっぱりーーー!!
私は思わずソファから立ち上がった。
「本当ですか!?」
「……ええ」
「どんなふうに!?」
「……普通に」
…………。
普通!!
親子そろって普通!!
その普通が知りたいんですけど!?
私は興奮のあまり、思わず身を乗り出した。
「肖像画はありますか!?」
「……肖像画?」
「はい! 笑っているエドガー様の!」
「…………」
エレオノーラ様は、少し考え込んだ。
そして。
「……確か、あったと思うわ」
…………。
…………。
あったーーー!!
私は思わず両手を握りしめた。
「み、見せていただけますか!?」
「……ええ。構わないわ」
「ありがとうございます!!」
私は勢いよく立ち上がり、深々と頭を下げた。
エレオノーラ様は、そんな私をしばらく見つめていた。
そして、控えていた侍女に静かに声をかける。
「……幼い頃のエドガーの肖像画を探してきてちょうだい」
「かしこまりました」
「……確か、東棟の書庫に保管してあったはずよ」
「承知いたしました」
侍女が一礼して部屋を出ていった。
私はそっとソファに腰を下ろす。
……東棟の書庫。
つまり。
クラウゼル公爵家には、エドガー様の幼少期の肖像画が保管されている!!
ああ。
どうしよう。
見たい。
今すぐ見たい。
できれば持って帰りたい。
……いや、待って。
さすがにそれは失礼だ。
でも、お願いしたら複製を作っていただけるだろうか。
額縁は金色がいい。
寝室の壁に飾ろう。
……いえ、毎朝必ず目に入る場所がいい。
どこがいいかしら。
「……セシリアさん」
「はいっ!」
「……そんなに楽しみ?」
「ものすごく!!」
私は勢いよく頷いた。
「エドガー様の笑顔なんて、一度も見たことがないんです!」
「……そうね」
エレオノーラ様は、どこか懐かしそうに目を伏せた。
「……あの子も、昔はよく笑う子だったのよ」
「そうなんですか!?」
「……ええ」
エレオノーラ様は静かに頷いた。
「……でも、少し苦労してね」
そこから、エドガー様が笑わなくなった理由を聞かせていただいた。
幼い頃、微笑みかけただけで令嬢たちから婚姻を申し込まれたこと。
何気ない親切を好意と勘違いされ、次々と恋文が届いたこと。
そして、そんな状況に困り果てたエドガー様が、お母様に相談したこと。
「……それで、わたくしが教えたの」
「……何をですか?」
「……無理に笑わなくてもいいのよ、って」
エレオノーラ様は、静かにティーカップを持ち上げた。
「……わたくしも、同じだったから」
…………。
同じ?
「……エレオノーラ様も?」
「……ええ」
エレオノーラ様は、少しだけ視線を落とした。
「……幼い頃は、わたくしもよく笑う子だったの」
…………。
…………。
まさかの親子そろって!?
私は目の前の絶世の美女を凝視した。
銀色の髪。
澄んだ青い瞳。
ほとんど動かない表情。
……なるほど。
これは遺伝ではなく、経験の問題だったのね。
「……でもね」
エレオノーラ様が、静かに続けた。
「……そんなわたくしを、初めて理解してくださった方がいたの」
「……え?」
「……アルベルト様よ」
先代公爵。
アルベルト・クラウゼル様。
銀色の長い髪を持つ、寡黙な美丈夫。
エドガー様と同じく、ほとんど笑わないことで有名な方だ。
「……あの方だけは違ったの」
エレオノーラ様は、幸せそうに目を細めた。
「……ほかの殿方は、わたくしの容姿ばかりを褒めたわ」
「……はい」
「……でも、アルベルト様は何もおっしゃらなかった」
「……何も?」
「……ええ。わたくしの話を、ただ静かに聞いてくださったの」
…………。
…………。
え?
「……だから思ったの。この方だけは、わたくしの外見ではなく、心を見てくださっているのだと」
…………。
…………。
…………あれ?
何だろう。
ものすごく聞き覚えのある話だ。
無表情。
無言。
じっと見つめる。
…………。
まさか。
まさか、そんな。
「……あの、エレオノーラ様」
「……何かしら」
「アルベルト様って……その……」
私は恐る恐る尋ねた。
「……本当に、エレオノーラ様のお話を理解されていたんでしょうか?」
「……もちろんよ」
エレオノーラ様は迷いなく頷いた。
「……だって、あの方はいつも、わたくしを見つめてくださるもの」
…………。
…………。
それ、ただ見惚れていただけなんじゃないですかーーー!?
私は心の中で絶叫した。
いや。
待って。
まだ決めつけるのは早い。
アルベルト様は、本当にエレオノーラ様の内面を理解していたのかもしれない。
……でも。
あのエドガー様のお父様である。
何とも言えない不安が、胸の奥に広がっていく。
そのときだった。
応接室の扉が、控えめに叩かれた。
「……エレオノーラ」
低く、落ち着いた声。
振り返ると、そこには銀色の長い髪を後ろで束ねた、美しい男性が立っていた。
先代クラウゼル公爵。
アルベルト様である。
しかも。
その手には、一枚の肖像画があった。




