冷酷公爵様、過去の自分に嫉妬する
…………。
…………。
え?
あれって。
まさか。
「……あなた」
エレオノーラ様が顔を上げた。
「……どうなさったの?」
「……これを探していると聞いた」
アルベルト様が、手にした肖像画を少し持ち上げた。
小さな額縁に収められているのは、銀髪の少年。
澄んだ青い瞳。
白い肌。
整った顔立ち。
そして。
満面の笑み。
…………。
…………。
…………。
「…………っ!!」
私は勢いよく立ち上がった。
ソファが小さく軋む。
「こ、これ!!」
アルベルト様が、私を見た。
「……エドガーだ」
…………。
知ってます!!
見ればわかります!!
だって、このお顔!!
この美しさ!!
間違いなくエドガー様じゃないですかーーー!!
私は震える手を伸ばしかけ、慌てて引っ込めた。
いけない。
国宝級の肖像画だ。
不用意に触れてはいけない。
「……セシリアさん?」
エレオノーラ様が、不思議そうに私を見ている。
「……大丈夫?」
「だ、大丈夫です!」
大丈夫なわけがない。
心臓が大変なことになっている。
私は肖像画を凝視した。
少年エドガーは、今より少し幼い顔立ちで、こちらに向かって無邪気に微笑んでいる。
青い瞳が細まり、頬がほんのり赤く染まっていた。
ああ。
なんて。
なんて。
天使なの!?
私は両手で口元を覆った。
……待って。
こんな顔で笑っていたの?
この人。
昔は、こんな顔で?
…………。
そりゃ令嬢たちも結婚したがるでしょうね!!
むしろ、この程度の騒ぎで済んだことを褒めたい。
もし私がこの笑顔を直接見ていたら。
…………。
……いや。
今と大して変わらないか。
結婚してくださいと追いかけ回していたのだから。
私は目の前の先代公爵夫妻を見つめた。
アルベルト様は、相変わらずエレオノーラ様を見つめている。
エレオノーラ様も、そんな夫を幸せそうに見つめ返している。
……すごい。
何も喋っていないのに、ものすごく仲がいい。
いや、正確には喋っているのだけれど。
「……エレオノーラ」
「……はい、あなた」
「……今日も美しい」
「…………!」
エレオノーラ様の頬が、ほんのり赤く染まった。
「……まあ。あなたったら」
…………。
言えるんだ。
アルベルト様、普通に褒められるんだ。
しかも、エドガー様よりずっとわかりやすい。
私は思わず身を乗り出した。
「アルベルト様!」
「……何だ」
「エレオノーラ様のどんなところがお好きなんですか!?」
「…………」
アルベルト様は、静かに妻を見た。
長い沈黙。
そして。
「……すべてだ」
…………。
お父様のほうが恋愛上手じゃないですか。
どうして息子だけ、あんなに言葉が足りないのだろう。
お父様をお手本にしたはずなのに。
……いや、待って。
もしかして、エドガー様のお父様への理解が根本的に間違っていたのでは?
そのとき、アルベルト様が肖像画をこちらへ差し出した。
「……近くで見るか」
「ぜひ!」
私は額縁に手を添えた。受け取ろうとした指先が、アルベルト様の指先に触れる。
『……エレオノーラ』
…………。
『……ああ、私のエレオノーラ』
『……今日も息を呑むほど美しい』
『……その声も、仕草も、何もかも愛おしい』
『……愛している』
『……一生、見つめていたい』
…………。
え。
ええ?
これ、アルベルト様の心の声!?
ほかの人の心まで聞こえるの!?
しかも、この方も奥様に夢中じゃないですか!
動揺した私の手元が揺れ、アルベルト様が額縁を支え直した。その拍子に指が離れ、声がぴたりと消えた。
「……大丈夫か」
「は、はい。ありがとうございます!」
私は額縁をお返しした。アルベルト様は何事もなかったように、また妻へ目を向ける。
……なるほど。
エレオノーラ様は、無口な夫が自分の内面を見てくれたと思っている。
でも、実際の頭の中は、息子とそっくりの溺愛ぶり。
しかも、ご本人たちはいたって幸せそう。
**エドガー様がああなった原因、全部このご夫婦じゃないですか!**
これはもう疑いようがない。親子そろって、頭の中が甘すぎる。
「……セシリアさん?」
エレオノーラ様が、不思議そうに首を傾げた。
「……どうしたの?」
「い、いえ! 何でもありません!」
いけない。
今はご夫婦の恋愛事情を調べに来たわけではない。
私には、もっと大切な使命がある。
そう。
エドガー様の幼少期の肖像画である。
私は再び、アルベルト様が手にしている額縁へ視線を戻した。
そこには、今の冷酷公爵からは想像もつかないほど、無邪気な笑顔を浮かべた銀髪の少年が描かれていた。
……ああ。
もう一度見ても素晴らしい。
できることなら、毎朝拝みたい。
「……あの、アルベルト様」
「……何だ」
「この肖像画、複製を作っていただくことは……」
「……構わん」
「本当ですか!?」
「……ああ」
私は思わず立ち上がり、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます! 一生大切にします!」
ああ、よかった。
これでいつでも幼いエドガー様の笑顔を拝める。
寝室に飾ろう。
いや、毎朝目覚めた瞬間に見える場所がいい。
……枕元?
それとも正面の壁?
悩ましい。
実に悩ましい。
私はそんなことを考えながら、再びソファに腰を下ろした。
「……でも、セシリアさん」
エレオノーラ様が、小さく首を傾げた。
「……今のエドガーでは駄目なの?」
…………。
確かに。
それはそう。
でも、少し違うのである。
「エレオノーラ様! 今のエドガー様と、昔のエドガー様は別なんです!」
「……別?」
「今のエドガー様は、もちろん世界一素敵です! でも、この笑顔は今では見られないんです。つまり、ものすごく貴重なんです!」
「……まあ」
「どちらも好きなんです! 選べません!」
私は胸を張って断言した。
すると。
「……そうか」
背後から、低い声がした。
…………。
ん?
今の声。
聞き覚えがある。
ものすごく。
私はゆっくりと振り返った。
応接室の入口に、ひとりの男性が立っていた。
銀色の髪。
澄んだ青い瞳。
彫刻のように整った、美しすぎる顔立ち。
そして、いつもどおりの無表情。
「エドガー様!?」
「……ああ」
なんということだ。
肖像画の本人が来た。
しかも二十八歳の完成版である。
私はソファから勢いよく立ち上がった。
その拍子に膝がテーブルへぶつかり、ティーカップが小さく跳ねる。
「きゃっ!」
慌てて手を伸ばした瞬間、エドガー様が素早く近づき、倒れかけたカップを押さえた。
「……危ない」
「す、すみません!」
「……怪我は?」
「ありません!」
「……そうか」
……ああ。
今日も顔がいい。
しかも動きまで格好いい。
転びそうな令嬢を支えるのではなく、まず紅茶を救うところも、なんだかエドガー様らしい。
「エドガー様! 今日は宮廷では?」
「……早く終わった」
「そうなんですか!」
「……ああ」
エドガー様はカップが安定したのを確かめると、静かに手を離した。
そして、テーブルを挟んだ向こう側へ視線を向ける。
アルベルト様が、肖像画を手に立っていた。
そこには、満面の笑みを浮かべた幼いエドガー様。
……あ。
本人に見つかった。
「……それは」
「エドガー様の肖像画です!」
「……見ればわかる」
「すっごく可愛いですね!」
「…………」
エドガー様は、しばらく肖像画を見つめた。
そして。
「……そうか」
……ん?
なんだか、いつもより声が低い?
「エドガー様?」
「……いや」
エドガー様は肖像画から視線を外し、私を見た。
「……帰るぞ」
「え?」
「……送る」
もう?
せっかくお会いできたのに。
「でも、私、もう少し肖像画を……」
そのときだった。
エドガー様が、私の正面へすっと移動した。
ちょうど、私とアルベルト様の間。
長身の彼がそこに立つと、向こう側の肖像画がすっぽり隠れてしまった。
…………。
あれ?
見えない。
私はエドガー様の肩越しに肖像画を見ようと、少し右へ身体を傾けた。
すると、エドガー様も右へ半歩動いた。
…………。
ん?
私は今度は左から覗き込もうとした。
エドガー様も左へ動く。
…………。
…………。
え。
何これ。
通せんぼ?
私はもう一度、右へ顔を出してみた。
エドガー様も、右へ。
左へ。
エドガー様も、左へ。
…………。
…………。
ちょっと待って。
この人、絶対わざとやってる。
私は目の前の婚約者を見上げた。
エドガー様は、いつもどおりの無表情で私を見下ろしている。
しかも、何事もなかったかのように背筋を伸ばしている。
……まさか。
いや、そんなはずは。
私はちらりと彼の後ろへ視線を向けた。
アルベルト様は、息子の奇妙な動きなどまるで気にならない様子で、妻を見つめていた。
エレオノーラ様は、そんな夫に穏やかな眼差しを向けている。
…………。
あの。
目の前で息子さんが、肖像画を隠すために左右へ動いているんですけど。
お二人とも、気にならないんですか?
……いや。
アルベルト様に至っては、そもそもこちらを見ていない。
奥様しか見ていない。
…………。
なんなの、この親子。
私はそっと息を吸った。
……よし。
確かめてみよう。
エドガー様が、なぜこんなことをしているのか。
普通に聞いても「……何でもない」と返されるに決まっている。
でも、今の私には方法がある。
本人の口が教えてくれないなら、心に聞けばいいのだ。
私は何食わぬ顔で、エドガー様の手を取った。
その瞬間。
『……まだ見るのか』
…………。
『……昔の私ばかり』
『……今の私も見てほしい』
…………。
え?
『……私もここにいるのだが』
『……肖像画の私には勝てないのだろうか』
『……いや、今のほうが顔立ちは整っているはずだ』
『……背も伸びた』
『……公爵位も継いだ』
『……それなのに』
『……昔の私が羨ましい』
…………。
…………。
自分に嫉妬してるーーー!?
ちょっと待って!!
そんなことある!?
自分の幼少期に嫉妬する人なんて、初めて見たんですけど!?
しかも、今の動き!
やっぱり肖像画を隠してたの!?
私は改めてエドガー様を見上げた。
銀色の髪。
澄んだ青い瞳。
どこまでも冷ややかな、美しい無表情。
その堂々とした立ち姿は、帝国屈指の名門公爵家を率いる当主そのもの。
……なのに。
やっていることは、自分の肖像画への通せんぼである。
どうしよう。
ものすごく面白い。
私は唇を噛みしめた。
笑ってはいけない。
ここで笑ったら、きっと傷つけてしまう。
……でも。
肩が震える。
「……セシリア?」
「な、何でもありません!」
『……なぜ震えている?』
『……寒いのか』
『……室温を上げさせよう』
…………。
違います。
あなたが面白すぎるんです。
私は必死に表情を整え、繋いでいた彼の手をもう片方の手でも包んだ。
「エドガー様!」
「……何だ」
「今のエドガー様も世界一素敵です!」
「…………」
『……本当か』
『……嬉しい』
『……やはり今の私のほうがいいのか』
……まだ勝負してる。
「昔のエドガー様も、今のエドガー様も、どっちも大好きです!」
「……そうか」
『……どちらも』
『……ならば問題ない』
『……しかし、今の私をもう少し見てほしい』
…………。
どれだけ見てほしいの、この人。
私は思わず頬を緩めた。
すると、エドガー様はほんの少しだけ身をかがめた。
……ん?
何?
顔が近い。
近いんですけど。
『……これなら見やすいだろう』
…………。
自分から顔を見せにきた。
しかも大真面目に。
……なんということだ。
この人、可愛すぎる。
私はもう我慢できなくなって、小さく吹き出した。
「ふふっ……!」
「……セシリア?」
「ごめんなさい! エドガー様が素敵すぎて!」
「……そうか」
『……嬉しい』
『……もっと近づいてもいいだろうか』
…………。
いえ、もう十分近いです。
心臓がもちません。
ふと、その肩越しに視線を向けると、アルベルト様はまだエレオノーラ様を見つめていた。
そしてエレオノーラ様もまた、夫に向かって幸せそうに目を細めている。
……すごい。
こっちはこっちで完全に二人の世界だ。
エドガー様が目の前で何をしていようと、まるで気にしていない。
もしかして、公爵家ではこれが普通なのだろうか。
すると、エレオノーラ様がようやくこちらへ顔を向けた。
「……エドガー」
「……母上」
「……セシリアさん、とても喜んでくださったのよ」
「……そうですか」
「……昔のあなたの笑顔を、そんなに気に入ってくださるなんて」
「…………」
『……笑顔か』
『……確かに、昔はよく笑っていたな』
『……しかし、今さら笑う必要はないだろう』
『……セシリアは今の私も好きだと言ってくれた』
『……嬉しい』
……ああ。
もう。
なんだか、この人が愛おしくなってきた。
私はぎゅっと手を握った。
「エドガー様!」
「……何だ」
「私、今のエドガー様をもっと見たいです!」
「…………」
『……もっと?』
『……見てくれるのか』
「だから、少しだけ二人きりになれませんか?」
…………。
あ。
言っちゃった。
エドガー様が、ぴたりと動きを止めた。
『……二人きり』
『……セシリアと』
『……今すぐ?』
…………。
今度は何を考え始めたのだろう。
非常に気になる。
エレオノーラ様は、私たちの繋いだ手へ視線を向けると、静かに頷いた。
「……ゆっくりしていらっしゃい」
「……母上」
「……大丈夫よ」
…………。
何が大丈夫なのだろう。
少なくとも、エドガー様の頭の中はまったく大丈夫ではない。
すると、彼が私の手を握り直した。
「……私の部屋へ行こう」
…………。
お部屋?
エドガー様のお部屋?
……え。
ちょっと待って。
十六年間憧れ続けた、あのエドガー様の私室!?
「い、いいんですか!?」
「……ああ」
『……二人きりになれる』
『……嬉しい』
『……しかし、私室か』
『……寝台がある』
『……いや、書斎にすべきか』
『……だが、セシリアと二人きりになりたい』
…………。
自分から誘っておいて、自分で悩んでいる。
この人、本当に大丈夫かしら。
私は吹き出しそうになるのをこらえ、にっこり微笑んだ。
「行きたいです!」
「……そうか」
『……よかった』
『……落ち着け』
『……まだ結婚前だ』
…………。
今からそんな調子で、二人きりになって大丈夫ですか!?




