冷酷公爵様、恋のためなら容赦なし
そのとき、廊下から控えめなノックが響いた。
「公爵閣下。宮廷より書状が届いております」
「……入れ」
侍女から封書を受け取ったエドガー様は、私の手をそっと放した。
……あ。途端に頭の中が静かになる。
彼は封を切り、折り畳まれた紙面に目を走らせた。私は紅茶を飲みながら、銀色の睫毛を眺めることにした。
しばらくして、エドガー様が書状を折り畳んだ。
「……明朝、宮廷へ伺うと伝えてくれ」
「かしこまりました」
侍女が一礼して下がる。
するとエドガー様は、当然のように私へ手を差し出した。
「……手を」
…………。
もう。
そんなに繋ぎたいなら、そう言えばいいのに。
私はにっこり笑って、その手を握った。
『……戻ってきた』
『……よかった』
『……やはり、セシリアの手は落ち着く』
『……一生握っていたい』
…………。
ふふ。
可愛い。
怖い怖いと言われる冷酷公爵が、実はこんなに甘えん坊だったなんて。
私は上機嫌で、冷めかけた紅茶に手を伸ばした。
『……それにしても、王太子殿下も懲りないな』
『……三年前も、あれほど手間をかけさせられたというのに』
…………ん?
『……まあ、セシリアとの婚約を認めさせるためには必要だった』
『陛下との交渉も、思いのほか長引いた』
…………。
…………。
「ぶふっ!!」
盛大にむせた。
「お、お嬢様!?」
侍女が慌てて駆け寄ってくる。
私は片手で口元を押さえ、もう片方の手でエドガー様の手を握りしめた。
離すものか。
今、絶対に聞き逃してはいけないことが聞こえた!!
「……セシリア」
「だ、大丈夫です!」
「……本当か」
『……紅茶が気管に入ったのか』
『苦しそうだ』
『……背中をさすったほうがいいだろうか』
エドガー様は椅子から腰を上げ、私の隣に膝をついた。
空いている手で、そっと背中をさすってくれる。
『……心配だ』
『……可愛いが、心配だ』
心配の途中に可愛いを挟まないで!!
私は咳き込みながら、必死に呼吸を整えた。
陛下との交渉?
婚約を認めさせる?
……何の話?
私は自分の婚約者を見つめた。
「エドガー様……」
「……何だ」
「私との婚約って、大変だったんですか?」
「……いや」
『……多少、手間はかかったが』
『皇帝陛下には、王太子殿下の補佐役を引き受けることで納得していただいた』
…………。
…………。
「はああああ!?」
思わず立ち上がった。
エドガー様も、繋いだ手に引かれるように腰を上げる。
「……セシリア?」
『……元気になった』
『……よかった』
よくない!!
全然よくない!!
王太子殿下の補佐!?
あの、帝国中の貴族ができれば避けたいと噂する、宮廷の激務!?
それを私との婚約のために引き受けたの!?
「エ、エドガー様!」
「……何だ」
「王太子殿下のお仕事って、大変ですよね!?」
「……そうだな」
『……週に三度は宮廷へ出向かねばならない』
『面倒な書類も増えた』
『……セシリアと過ごす時間が減った』
『……実に不本意だ』
…………。
そこ!?
不満はそこなの!?
『……しかし、仕方あるまい』
『王太子殿下がセシリアを望んでいたのだから』
…………。
…………。
…………は?
「…………」
私は、ゆっくりとエドガー様を見上げた。
『……殿下には悪いことをしたな』
『……あれほど真剣に妃候補として考えておられたのに』
…………。
…………。
ちょっと待って。
王太子殿下?
私を?
お妃様に?
「…………っ!?」
私は声にならない悲鳴を上げた。
そのまま後ずさろうとして、椅子の脚に踵をぶつける。
「痛っ!」
「……セシリア!」
エドガー様の腕が、すぐさま私の腰を支えた。
『……危ない』
『……怪我はないか』
『……やはり家具の配置には気をつけなければ』
『……新婚の寝室には、余計な椅子を置かないようにしよう』
今、新婚の寝室の話をするなーーー!!
私は涙目になりながら、彼の胸元をぎゅっと掴んだ。
……待って。
整理しよう。
王太子殿下が私を妃に迎えたかった。
エドガー様はそれを知っていた。
そして皇帝陛下と交渉して、王太子殿下の補佐役を引き受けた。
つまり。
この人、私と結婚するために皇帝陛下と取引したの!?
……なんということだ。
私はずっと、自分の顔面への執念だけで婚約を勝ち取ったと思っていたのに。
国家の最高権力者と交渉していたのは、むしろエドガー様のほうだった。
「エドガー様……」
「……何だ」
「王太子殿下って、私のことが好きだったんですか?」
「…………」
エドガー様の青い瞳が、わずかに細められた。
『……そうだ』
『……だが、セシリアは私と結婚すると言っていた』
『あの約束を反故にするつもりはなかった』
『……だから先に動いた』
…………。
先に?
『……殿下が正式に求婚する前に、皇帝陛下へ婚約の承認を求めた』
『公爵家の親族から出された反対意見も、すべて整理した』
『……ローゼンベルク家の家格を問題にする者には、過去の婚姻事例と家門の功績を示した』
『……反論できる材料は残さなかった』
…………。
…………。
怖っ!!
この人、仕事ができすぎて怖い!!
しかも、まだ続きがあった。
『……陛下には王太子の補佐を引き受けると申し出た』
『殿下には別の妃候補を探す時間が必要だったからな』
『……あの時点で婚約を成立させておいて正解だった』
『……あと一月遅ければ、正式な打診が来ていた』
…………。
…………。
「エドガー様!!」
「……何だ」
「私、そんなこと何も知らなかった!!」
「…………」
『……そうだろうな』
『……知らせる必要はなかった』
『セシリアには、喜んで婚約してほしかった』
…………。
あ。
それは。
……ずるい。
私は唇を噛んだ。
だって。
だって、そんなの。
嬉しいに決まってるじゃない!!
十年以上、ずっと追いかけてきた。
毎日、好きだと言い続けた。
私は自分ひとりで頑張っていると思っていた。
でも違った。
エドガー様だって。
私を手に入れるために、必死だったんだ。
「……エドガー様」
「……何だ」
「……私と、そんなに結婚したかったんですか?」
「…………」
『……当然だ』
『セシリア以外を妻にするつもりなどない』
『……ずっと昔から』
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
ああ。
もう。
どうしてこの人は。
こんなに。
『……それに』
『王太子殿下より、私のほうが顔がいい』
『……セシリアが選ぶのは当然だ』
…………。
…………。
感動を返してーーー!!
私は思わず、エドガー様の胸元をぽかぽかと叩いた。
「エドガー様の馬鹿!!」
「…………?」
『……なぜ叩かれているのだろう』
『……可愛いな』
「可愛いじゃない!!」
「…………?」
しまった。
また心の声に返事してしまった。
「な、何でもありません!」
「……そうか」
『……照れているのか』
『……可愛い』
…………。
もう。
本当に。
顔が良くなかったら、絶対に許していないんだから!
私はエドガー様の胸元を掴んだまま、そっと顔を上げた。
銀色の髪。
澄んだ青い瞳。
神様が本気を出しすぎたとしか思えない、完璧なお顔。
……ああ。
やっぱり好き。
大好き。
どうしよう。
顔だけでも十分すぎるほど好きだったのに。
中身までこんなに私のことが好きだなんて、聞いてない!!
「……セシリア」
「はいっ!」
「……そろそろ、離してくれるか」
「…………」
エドガー様の手が、上着を掴んでいた私の手にそっと重なった。
そのまま長い指が私の指先を包み込む。
『……もう少しこうしていたい』
『……だが、そろそろ戻らなければ』
『……残念だ』
…………。
この人の口と心、いつになったら仲直りするの!?
私は思わず、彼の上着を握る手に力を込めた。
「……嫌です」
「…………」
『……嫌なのか』
『……嬉しい』
『……可愛い』
…………。
ダメだ。
このままでは一生離れられない。
私は涙を呑んで、そっと彼から身体を離した。
重なっていた指先が離れた瞬間、頭の中に響いていた声もぴたりと止まる。
……あ。
静か。
なんだか急に寂しい。
いや、つい先ほどまで、うるさすぎると文句を言っていたのだけれど。
「……また来る」
エドガー様は、いつもどおりの無表情でそう告げた。
「絶対ですよ!」
「……ああ」
「明日でもいいですよ!」
「……明日は宮廷だ」
「では明後日!」
「……検討する」
検討。
検討ですって。
こんな美しい顔で言われなければ、絶対に文句を言っているところだ。
私は彼を見上げた。
相変わらず、まったく表情が変わらない。
眉ひとつ動かさず、澄んだ青い瞳でこちらを見つめている。
……ああ。
綺麗。
本当に綺麗。
まるで、精巧に作られた彫刻のようだ。
けれど。
ふと、ひとつの疑問が浮かんだ。
この完璧なお顔が、笑ったらどうなるのだろう。
長い睫毛に縁取られた青い瞳が細まり、形の良い唇が弧を描く。
…………。
…………。
見たい。
ちょっと待って。
ものすごく見たい!!
「エドガー様!」
「……何だ」
「笑ってみてください!」
「…………」
エドガー様が、ぴたりと動きを止めた。
「……笑う?」
「はい! 一度でいいので!」
「…………」
長い沈黙。
私は期待に胸を膨らませて、彼の顔を見つめた。
すると、エドガー様は静かに首を横に振った。
「……必要ない」
「えええっ!?」
必要ない!?
何ですか、その判断!!
「一度だけ! お願いします!」
「……無理だ」
「どうして!?」
エドガー様は、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「……母上に禁じられた」
…………。
…………はい?
お母様?
エレオノーラ様?
私は思わず目を瞬かせた。
「……どういうことですか?」
「……昔の話だ」
「昔?」
「……ああ」
それ以上、エドガー様は何も言わなかった。
……いやいや。
待って。
待ってください。
エドガー様の笑顔を禁止した人物がいる!?
しかも、お母様!?
どういうこと!?
私は慌てて彼の手を握ろうとした。
けれど、そのとき。
「公爵閣下。お迎えの馬車が到着いたしました」
執事の声が廊下から響いた。
エドガー様は静かに頷く。
「……わかった」
「あっ、待って!」
「……何だ」
「お母様に、どうして笑っちゃいけないって言われたんですか!?」
「…………」
エドガー様は、ぴたりと動きを止めた。
そして。
「……はあ」
深い。
それはもう、心の底からうんざりしたようなため息だった。
…………。
え?
何?
そんなに嫌なことなの?
エドガー様は眉間に指を当て、しばらく目を伏せた。
まるで、思い出したくもない過去を必死に追い払っているかのようだ。
……あれ?
私、そんなに大変なことを聞いてしまったのかしら。
「……エドガー様?」
「……面倒なことになる」
「……何がですか?」
「……いろいろと」
「いろいろ?」
「……ああ」
エドガー様は、珍しく疲れ切った様子で目を閉じた。
「……二度とごめんだ」
…………。
…………。
そんなに!?
私の婚約者は、いったい過去に何を経験したのだろう。
笑うだけで、そこまで嫌な思いをすることなんてある?
……いや。
このお顔で笑ったら、とんでもないことになるのは想像できるけれど。
それにしたって。
私はまじまじと彼を見つめた。
すると、エドガー様は私の頭をぽん、と撫でた。
「……またな」
…………。
ずるい。
その顔で頭を撫でるのは、ずるい。
私は一瞬で怒りを忘れてしまった。
「……はい。お気をつけて」
エドガー様は静かに頷き、執事に先導されて玄関へ向かった。
私はその背中を見送りながら、ひとつの決意を固めていた。
……お母様。
エレオノーラ様。
これは、ぜひともお話を伺わなければならない。




