出られる扉
マルガレーテの部屋の扉は、深い樫の木でできていた。
ヴィオレッタは、その前で足を止めた。図鑑は部屋に置いてきた。両手が空になると、娘は何度もスカートの前をつまんだ。
「お祖母さまのお部屋に、入るのは初めてです」
「そうなの?」
「いつも、廊下か、応接間でした」
私は、娘の肩の高さまで膝を折った。
「入るとき、私が先に扉を叩くわ。そのあと、あなたが自分で名乗って。言葉は、短くてもいいのよ」
「……はい」
扉を叩くと、中から短い返事が聞こえた。
「入りなさい」
部屋は、思ったよりも質素だった。分厚い織物の敷物と、背の高い書き物机。寝台の脇の小さな卓の上に、刺繍の枠と、細い銀の針。壁には、先代公爵の肖像が、無言で掛かっていた。
マルガレーテは、窓辺の椅子に座っていた。膝の上で、手が重ねられている。私と、その後ろに立つ孫を、順に見た。
「こんな時刻に、二人揃って。何事です」
「お祖母さま」
ヴィオレッタは、一歩前に出た。私は、娘の隣に、半歩下がって立った。
「反省室のことで、謝りに来ました」
姑の指先が、わずかに動いた。
「わたくしが、香水瓶を割りました。ベルタのせいにしました。お祖母さまの前で、割っていないと言いました。ごめんなさい」
声は、震えていなかった。けれど、言い終わると同時に、娘は唇を噛んだ。
マルガレーテは、しばらく孫を見つめていた。
「それだけですか」
「いいえ」
ヴィオレッタは、顔を上げた。
「あの部屋は、暗くて寒くて、誰も来ませんでした。それは、まだ許していません」
私は息をのんだ。
言ってはいけないことを、娘は言った。叱責を覚悟する前に、あの子は、最後まで言い切ったのだ。
マルガレーテは、怒らなかった。ただ、静かに、膝の上の手を組み替えた。
「許さなくて、よろしい」
予想外の言葉だった。
「謝罪は、許しを求めるためのものではありません。あなたが何をしたかを、自分の口で言えること。それだけで、半分は済んでいます」
その声には、いつもの鋭さがなかった。
「ミミの耳を縫ったのも、あなたですね」
「……はい」
「手が、傷だらけだった。わたくしは、気づいていました」
ヴィオレッタが、目を見開いた。
「どうして、黙っていらしたのですか」
「あなたが、自分で言い出すのを待っていたのです」
姑は、そこで小さく息をついた。
「待つのは、得意ではありません。けれど、ケスラーに言われました。待つことのほうが、杖より効くこともあると」
その名を聞いて、私は思わず瞬きをした。あの人は、姑にまで根回しをしていたらしい。
◇
「クラリッサ」
マルガレーテは、ヴィオレッタに部屋から下がるよう命じた。扉の外には、ベルタが待っている。娘は、不安そうに私を見た。
「すぐ行くわ。廊下で待っていて」
扉が閉まると、姑は椅子から立ち上がり、窓の外を見た。
「あなたに、聞かせておくことがあります」
「はい」
「あの反省室は、わたくしが嫁いだ年に、使われた部屋です」
意味がすぐには呑み込めなかった。
「わたくしは、先代公爵の妻になって半年のあいだに、三度、あの部屋に入れられました。夫の母が決めたことです」
マルガレーテは、振り返らなかった。
「実家の作法と、リヒテンベルク家の作法が、違っていたのです。茶の注ぎ方、礼の角度、客人の迎え方。わたくしは、一つ覚えるごとに、あの部屋で、何が悪かったのかを考えさせられました」
「そんな」
「ええ。ひどいことだと、今なら言えます。けれど、当時のわたくしは、そうは思わなかった。あの部屋で考えたからこそ、わたくしは、この家の女主人になれたのだと、信じてきたのです」
肩が、わずかに揺れた。
「それが正しいかどうかは、わたくしにはわかりません。ただ、あの部屋を、孫に使わなければ、わたくしの三十年は、何だったのかと思ってしまう。そういう気持ちが、なかったとは言えません」
私は、何も言えなかった。
この人は、悪い人ではない。ただ、傷を傷だと認めてしまえば、自分を支えてきたものが崩れてしまう。そういう人なのだ。前世でも、何人も見た。
「お義母さま」
「同情は、いりません」
きっぱりとした声だった。
「ただ、条件があります」
「条件?」
「あの部屋を、完全には、閉じません。ただし、鍵はかけません。時間も、半日ではなく、一刻まで。そして、あの子が出たいと言えば、いつでも出られるようにする」
私は、目を見開いた。
「それで、いいのですか」
「いいも悪いもありません。わたくしは、あなたに譲ったのではありません。わたくしが、考えを改めたのです」
その言葉は、どこまでも、この人らしかった。
「半日が一刻になったところで、あの子にとっては、変わらないかもしれません。でも、出られる扉と、出られない扉は、同じではないはずです」
私は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言われる筋合いはありません。それより、お菓子の件です」
姑は、わずかに口元を引き結んだ。
「謝罪は受け取りました。明日から、午後のお菓子は、元に戻します。ただし、レオンと分け合うこと」
「分け合う、ですか」
「あの子が、レオンに算術を教えているのを、廊下で見ました。……ああいうことを、続けなさい」
私は、思わず目を丸くした。マルガレーテは、そっぽを向いた。
「何です、その顔は」
「いえ。承知いたしました」
◇
扉を出ると、ヴィオレッタが、廊下の壁にもたれて待っていた。ベルタが、少し離れたところで、手を組んで立っている。
「お母さま」
「お祖母さまは、あなたの謝罪を受け取ったわ」
「許さなくて、いいと言われました」
「ええ。聞こえていたの?」
「少しだけ。扉が、厚くなかったので」
娘は、小さく鼻をすすった。それから、ぽつりと言った。
「お母さまは、ずっと、隣にいてくださいました」
「ええ。約束だもの」
ヴィオレッタは、うつむいたまま、私の袖をつまんだ。昨日までの、つまみ方とは、少し違う。ためらいが消えて、まるで、そこにあるのが当たり前のような、自然な指だった。
「お母さまの部屋に、また、入ってもいいですか」
「いつでも」
そう答えながら、私は、廊下の先にいるベルタと目が合った。若い侍女は、慌ててうつむいた。その目元が、少し赤かった。
◇
翌日の午後、一週間あまりぶりに、焼き菓子が食卓に並んだ。
蜂蜜を塗った小さな丸いパンが、皿の上に四つ。ヴィオレッタとレオンの前に、二つずつ置かれるはずだった。けれど、給仕の手が滑って、一つが皿からこぼれ、テーブルの上に転がった。
三つになった。
レオンの目が、ぱっと丸くなる。ヴィオレッタは、一瞬、迷うように三つを見下ろして、それから、さっと自分の手元に二つを引き寄せた。
「おねえさま」
「わたくしのぶんです。ずっと、我慢していたのだから」
「でも、ぼくも、たべたい」
「あなたは、昨日も、一昨日も、お薬のあとにお菓子をもらっていたでしょう」
声が尖っている。レオンの下唇が、震え始めた。ミミが、膝の上で、くたりと折れ曲がる。
私は、口を出さずに見ていた。ここで私が分け方を決めてしまえば、この子が自分で選ぶ機会を、奪うことになる。
ヴィオレッタは、二つのパンを抱えたまま、動かなかった。顔が、苦しそうにゆがんでいる。独り占めしたい気持ちと、泣きそうな弟の顔。その二つが、小さな体の中でぶつかっているのが、手に取るようにわかった。
やがて、娘は、ぎこちなく手を伸ばした。
「……半分、あげます」
「ほんと?」
「ひとつは、半分に割ります。あなたが、先に選んでいいです」
不承不承の声だった。それでも、パンを割る指先は、丁寧だった。
レオンの顔が、輝いた。ヴィオレッタは、ぷいと横を向いた。
「ずるいです。わたくしだけ、半分になりました」
「でも、ぼく、うれしい」
「……それは、よかったです」
私は、お茶に口をつけるふりをして、笑いをこらえた。
食堂の戸口に、マルガレーテが立っていた。いつからいたのか、わからない。姑は、孫たちの様子を、ただ黙って見ていた。
やがて、私と目が合うと、短く言った。
「クラリッサ。明日の朝食のあと、あの部屋へいらっしゃい」
「あの部屋、とは」
「反省室です。見せたいものがあります」
そう言って、姑は、返事も待たずに背を向けた。




