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悪役令嬢ではなく、その母親に転生しました。娘が断罪される前に家庭環境から直します  作者: ローナ


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9/22

出られる扉

マルガレーテの部屋の扉は、深い樫の木でできていた。


ヴィオレッタは、その前で足を止めた。図鑑は部屋に置いてきた。両手が空になると、娘は何度もスカートの前をつまんだ。


「お祖母さまのお部屋に、入るのは初めてです」


「そうなの?」


「いつも、廊下か、応接間でした」


私は、娘の肩の高さまで膝を折った。


「入るとき、私が先に扉を叩くわ。そのあと、あなたが自分で名乗って。言葉は、短くてもいいのよ」


「……はい」


扉を叩くと、中から短い返事が聞こえた。


「入りなさい」


部屋は、思ったよりも質素だった。分厚い織物の敷物と、背の高い書き物机。寝台の脇の小さな卓の上に、刺繍の枠と、細い銀の針。壁には、先代公爵の肖像が、無言で掛かっていた。


マルガレーテは、窓辺の椅子に座っていた。膝の上で、手が重ねられている。私と、その後ろに立つ孫を、順に見た。


「こんな時刻に、二人揃って。何事です」


「お祖母さま」


ヴィオレッタは、一歩前に出た。私は、娘の隣に、半歩下がって立った。


「反省室のことで、謝りに来ました」


姑の指先が、わずかに動いた。


「わたくしが、香水瓶を割りました。ベルタのせいにしました。お祖母さまの前で、割っていないと言いました。ごめんなさい」


声は、震えていなかった。けれど、言い終わると同時に、娘は唇を噛んだ。


マルガレーテは、しばらく孫を見つめていた。


「それだけですか」


「いいえ」


ヴィオレッタは、顔を上げた。


「あの部屋は、暗くて寒くて、誰も来ませんでした。それは、まだ許していません」


私は息をのんだ。


言ってはいけないことを、娘は言った。叱責を覚悟する前に、あの子は、最後まで言い切ったのだ。


マルガレーテは、怒らなかった。ただ、静かに、膝の上の手を組み替えた。


「許さなくて、よろしい」


予想外の言葉だった。


「謝罪は、許しを求めるためのものではありません。あなたが何をしたかを、自分の口で言えること。それだけで、半分は済んでいます」


その声には、いつもの鋭さがなかった。


「ミミの耳を縫ったのも、あなたですね」


「……はい」


「手が、傷だらけだった。わたくしは、気づいていました」


ヴィオレッタが、目を見開いた。


「どうして、黙っていらしたのですか」


「あなたが、自分で言い出すのを待っていたのです」


姑は、そこで小さく息をついた。


「待つのは、得意ではありません。けれど、ケスラーに言われました。待つことのほうが、杖より効くこともあると」


その名を聞いて、私は思わず瞬きをした。あの人は、姑にまで根回しをしていたらしい。


◇


「クラリッサ」


マルガレーテは、ヴィオレッタに部屋から下がるよう命じた。扉の外には、ベルタが待っている。娘は、不安そうに私を見た。


「すぐ行くわ。廊下で待っていて」


扉が閉まると、姑は椅子から立ち上がり、窓の外を見た。


「あなたに、聞かせておくことがあります」


「はい」


「あの反省室は、わたくしが嫁いだ年に、使われた部屋です」


意味がすぐには呑み込めなかった。


「わたくしは、先代公爵の妻になって半年のあいだに、三度、あの部屋に入れられました。夫の母が決めたことです」


マルガレーテは、振り返らなかった。


「実家の作法と、リヒテンベルク家の作法が、違っていたのです。茶の注ぎ方、礼の角度、客人の迎え方。わたくしは、一つ覚えるごとに、あの部屋で、何が悪かったのかを考えさせられました」


「そんな」


「ええ。ひどいことだと、今なら言えます。けれど、当時のわたくしは、そうは思わなかった。あの部屋で考えたからこそ、わたくしは、この家の女主人になれたのだと、信じてきたのです」


肩が、わずかに揺れた。


「それが正しいかどうかは、わたくしにはわかりません。ただ、あの部屋を、孫に使わなければ、わたくしの三十年は、何だったのかと思ってしまう。そういう気持ちが、なかったとは言えません」


私は、何も言えなかった。


この人は、悪い人ではない。ただ、傷を傷だと認めてしまえば、自分を支えてきたものが崩れてしまう。そういう人なのだ。前世でも、何人も見た。


「お義母さま」


「同情は、いりません」


きっぱりとした声だった。


「ただ、条件があります」


「条件?」


「あの部屋を、完全には、閉じません。ただし、鍵はかけません。時間も、半日ではなく、一刻まで。そして、あの子が出たいと言えば、いつでも出られるようにする」


私は、目を見開いた。


「それで、いいのですか」


「いいも悪いもありません。わたくしは、あなたに譲ったのではありません。わたくしが、考えを改めたのです」


その言葉は、どこまでも、この人らしかった。


「半日が一刻になったところで、あの子にとっては、変わらないかもしれません。でも、出られる扉と、出られない扉は、同じではないはずです」


私は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


「礼を言われる筋合いはありません。それより、お菓子の件です」


姑は、わずかに口元を引き結んだ。


「謝罪は受け取りました。明日から、午後のお菓子は、元に戻します。ただし、レオンと分け合うこと」


「分け合う、ですか」


「あの子が、レオンに算術を教えているのを、廊下で見ました。……ああいうことを、続けなさい」


私は、思わず目を丸くした。マルガレーテは、そっぽを向いた。


「何です、その顔は」


「いえ。承知いたしました」


◇


扉を出ると、ヴィオレッタが、廊下の壁にもたれて待っていた。ベルタが、少し離れたところで、手を組んで立っている。


「お母さま」


「お祖母さまは、あなたの謝罪を受け取ったわ」


「許さなくて、いいと言われました」


「ええ。聞こえていたの?」


「少しだけ。扉が、厚くなかったので」


娘は、小さく鼻をすすった。それから、ぽつりと言った。


「お母さまは、ずっと、隣にいてくださいました」


「ええ。約束だもの」


ヴィオレッタは、うつむいたまま、私の袖をつまんだ。昨日までの、つまみ方とは、少し違う。ためらいが消えて、まるで、そこにあるのが当たり前のような、自然な指だった。


「お母さまの部屋に、また、入ってもいいですか」


「いつでも」


そう答えながら、私は、廊下の先にいるベルタと目が合った。若い侍女は、慌ててうつむいた。その目元が、少し赤かった。


◇


翌日の午後、一週間あまりぶりに、焼き菓子が食卓に並んだ。


蜂蜜を塗った小さな丸いパンが、皿の上に四つ。ヴィオレッタとレオンの前に、二つずつ置かれるはずだった。けれど、給仕の手が滑って、一つが皿からこぼれ、テーブルの上に転がった。


三つになった。


レオンの目が、ぱっと丸くなる。ヴィオレッタは、一瞬、迷うように三つを見下ろして、それから、さっと自分の手元に二つを引き寄せた。


「おねえさま」


「わたくしのぶんです。ずっと、我慢していたのだから」


「でも、ぼくも、たべたい」


「あなたは、昨日も、一昨日も、お薬のあとにお菓子をもらっていたでしょう」


声が尖っている。レオンの下唇が、震え始めた。ミミが、膝の上で、くたりと折れ曲がる。


私は、口を出さずに見ていた。ここで私が分け方を決めてしまえば、この子が自分で選ぶ機会を、奪うことになる。


ヴィオレッタは、二つのパンを抱えたまま、動かなかった。顔が、苦しそうにゆがんでいる。独り占めしたい気持ちと、泣きそうな弟の顔。その二つが、小さな体の中でぶつかっているのが、手に取るようにわかった。


やがて、娘は、ぎこちなく手を伸ばした。


「……半分、あげます」


「ほんと?」


「ひとつは、半分に割ります。あなたが、先に選んでいいです」


不承不承の声だった。それでも、パンを割る指先は、丁寧だった。


レオンの顔が、輝いた。ヴィオレッタは、ぷいと横を向いた。


「ずるいです。わたくしだけ、半分になりました」


「でも、ぼく、うれしい」


「……それは、よかったです」


私は、お茶に口をつけるふりをして、笑いをこらえた。


食堂の戸口に、マルガレーテが立っていた。いつからいたのか、わからない。姑は、孫たちの様子を、ただ黙って見ていた。


やがて、私と目が合うと、短く言った。


「クラリッサ。明日の朝食のあと、あの部屋へいらっしゃい」


「あの部屋、とは」


「反省室です。見せたいものがあります」


そう言って、姑は、返事も待たずに背を向けた。

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