考えるための部屋
朝食のあと、私は北の廊下を歩いた。
窓の少ない、あの暗い廊下だ。突き当たりの小さな扉の前に、マルガレーテが立っていた。手には、蝋燭を灯した燭台を持っている。
「来ましたね」
「はい」
「鍵は、昨日のうちに外させました」
姑は、そう言って扉を押し開けた。
蝋燭の光が、窓のない部屋の壁を照らした。古い椅子が一脚。小さな卓が一つ。それから、石壁。
「こちらへ」
マルガレーテは、部屋の奥の壁際に、燭台を寄せた。腰の高さのあたりを、光が照らす。
壁の石に、細い傷が刻まれていた。
三本の縦線が、一組。その隣に、別の組。さらにその下に、不揃いな、子どもの指で引っかいたような、数十本の線。
「これは」
「わたくしが入れられた回数です。三本」
姑の声は、平らだった。
「この横の傷は、わたくしのものではありません」
そう言って、指先が、その下の傷をなぞった。縦線の列の端に、小さな文字が掘り込まれている。
「J」
私は、息をのんだ。
「ジークハルトです」
「……旦那様も」
「あの子が八つのときです。わたくしは、あの子が何度、この部屋に入っていたのかを、数えたことがありませんでした。いえ、数えようとしなかった」
蝋燭が、小さく揺れた。
「あの子は、本を読む子でした。紙の匂いのする書庫が、好きだった。叱られた日は、いつも書庫に隠れていた。わたくしは、それを知っていて、見ないふりをしました」
「どうして、見ないふりを」
「あの子を、強くしたかったのです」
マルガレーテは、壁から目を離さなかった。
「この家を継ぐ子は、泣いてはいけない。できない日があってはならない。そうわたくしは教えました。そして、あの子は、泣かない大人になりました。何も、言わない大人に」
あの夜、書庫で夫が語った言葉が、頭をよぎった。できない日が、あった。何度も。だが、そう言える者は、誰もいなかった。
「先日、ケスラーに言われたのです。わたくしの教え方が、あの子の口を、塞いでしまったのではないかと」
「夫人は、そこまで」
「ええ。あの人は、遠慮というものを知りません」
マルガレーテは、ほんのわずかに、笑った。
「腹が立ちました。三十年、この家を守ってきた女に、そのような口をきくのかと。けれど、あの夜、ジークハルトが孫を抱いて書庫から降りてくるのを、階段の上から見てしまいました。あの子が人を抱くところを、わたくしは初めて見たのです。それで、言い返せなくなりました」
姑は、燭台を卓に置いた。
「見せたかったのは、これだけです。あなたにこれを見せて、それから、お願いしたいことがあります」
「何でしょう」
「この部屋を、変えたいのです」
意外な言葉に、私は目を見開いた。
「壊すのではなく。わたくしの代で、この部屋の使い方を変えたい。けれど、どう変えればよいのか、わたくしにはわかりません」
私は、部屋の中を見回した。冷たい石壁。小さな椅子。窓のない天井。
「考えるための部屋にしませんか」
「考えるため?」
「罰を受ける場所ではなく、気持ちが落ち着かないときに、自分から来る場所に。灯りを増やして、座りやすい椅子を置いて、本を一冊でも置く。出入りは、誰でも、自由に」
「それでは、誰も反省しなくなります」
「かもしれません。でも、反省とは、閉じ込めて、させるものではないと思うのです」
姑は、長いあいだ、黙っていた。
「……あなたが言うことは、いつも、わたくしの三十年を否定します」
「否定したいわけではありません」
「わかっています」
マルガレーテは、ふっと息を吐いた。
「ただ、否定されて、腹が立たなくなったのは、今日が初めてです」
それが、姑の、最大限の譲歩だったのだろう。
「灯りは、増やしましょう。椅子も替えます。窓は……来年の春まで、考えさせなさい」
「ありがとうございます」
「ただし、罰がなくなるわけではありません。人の物を壊したら、償う。嘘をついたら、正す。それは、変わりません」
「はい。私も、そう思います」
「では、よろしい」
姑は、そこだけは、きっぱりと念を押した。譲っても、この人の芯は、少しも曲がっていない。それが、不思議なほど心強かった。
「何度、礼を言うのです。あなたは、礼を言いすぎる」
そう言って、姑は、少し乱暴に燭台を持ち上げ、先に部屋を出ていった。
◇
その日の夕方、私は、自分の部屋の裁縫箱から、灰色の糸の束を取り出した。
紫の束の隣にあった、薄い灰色の絹糸だ。それを小さな紙で包み、ヴィオレッタの部屋へ向かった。
娘は、机の前で書き取りをしていた。私が入ると、ぱっと手を止める。
「お母さま。何か、ご用ですか」
「渡したいものがあるの」
糸の包みを差し出すと、ヴィオレッタは、きょとんとした顔をした。
「ミミの耳を、灰色に直してあげると、レオンと約束したでしょう。そのための糸よ。鋏も、針も、一緒に」
娘の目が、大きく見開かれた。
「……お母さまは、知っていらしたのですか。わたくしが、縫ったことを」
「ええ。縫い目を見れば、わかるわ。それに、あなたの指が、教えてくれたの」
ヴィオレッタは、しばらく黙っていた。それから、包みを両手で受け取った。
「あの」
「なあに」
「わたくしが、ミミの耳を、引っぱった理由を、お話ししてもいいですか」
私は、椅子を引き寄せた。
「聞くわ」
「ハンナが、言ったのです。あの縫いぐるみは、お母さまが、レオンの誕生日に、お与えになったものだと」
その言葉は、私の胸に、ずしりと沈んだ。
「お母さまが、何かをくださったのは、それが初めてだったと。だから、レオンは、とても大切にしているのだと」
「そう」
「わたくしは、お母さまから、何もいただいたことがありません」
声は、静かだった。怒りでも、悲しみでもなく、ただの事実を告げる声だった。
「あの朝、レオンの部屋に入って、ミミを見つけて……持ち上げたら、とても柔らかくて、あたたかくて。気づいたら、耳を、強く引っぱっていました」
紫の瞳が、うるんでいる。
「取れたとき、とても怖かったです。レオンの、一番の宝物を、壊してしまったと。それで、あの夜、お母さまの糸を借りて」
娘の言葉は、そこで途切れた。
私は、何も言わずに、娘の小さな手を取った。包みを握りしめた手は、冷たかった。
「ヴィオレッタ。あなたに、何も贈ってこなかったこと、気づいていなかったの。ごめんなさい」
「謝らないでください。お母さまは、今、糸を、くださいました」
「それは、ミミの修理のためのものよ」
「でも、わたくしの、もの、です」
娘の頬が、赤くなった。
私は、笑ってしまった。
「ええ。あなたのものよ。……今度の休みに、一緒に、何か選びましょう。あなたが、欲しいものを」
ヴィオレッタは、ためらいがちにうなずいた。
翌朝から、ヴィオレッタは刺繍の時間のあと、毎日少しだけ、ミミの耳に針を入れるようになった。レオンが、隣の椅子で足をぶらぶらさせながら、それを眺めている。
「おねえさま、まだ?」
「上手になったら、と言ったでしょう。急かすと、また曲がります」
「じゃあ、ぼく、ここで、まってる」
呆れた顔をしながら、娘は、弟の席を少しだけ自分の側に寄せた。
それから数日後の夕食の席に、オスカーが銀の盆を持って現れた。盆の上には、赤い封蝋のついた手紙。
封蝋の紋章を見て、ジークハルトの手が、わずかに止まった。
王家の紋章だった。
夫は、封を切る前に、一度だけ私を見た。何かを言いかけて、やめる。そして、家令に命じた。
「子どもたちを、先に下がらせろ」
食堂の空気が、それまでとは違うものに変わった。




