少女たちの茶会
子どもたちが下がったあと、食堂には大人だけが残った。
ハンナがレオンを、ベルタがヴィオレッタを連れて出ていく。扉が閉まるのを待ってから、ジークハルトは封蝋を割った。
マルガレーテは、すでに居住まいを正していた。この人は、手紙が来る前から、その中身を知っていたような顔をしている。
夫は、紙面に目を走らせた。読み終えるまでに、さほど時間はかからなかった。
「王妃陛下からだ」
低い声が、食卓の上に落ちた。
「来月の七日、王宮で、少女たちの茶会が開かれる。八歳から十歳までの、公爵家と侯爵家の令嬢が招かれる。……ヴィオレッタにも、招待が来た」
私は、指先の冷たさを悟られないよう、膝の上で手を組んだ。
茶会。王宮。八歳から十歳の令嬢たち。
原作の中で、ヴィオレッタが十歳で王太子の婚約者になったことは、一行で書かれていた。その前に何があったのか、原作は語らない。けれど、こういう場が、その入口なのだろう。
「それだけですか」
「いや」
ジークハルトは、手紙の末尾に目を落とした。
「ヘルガ・ドレーゼン伯爵夫人の、ご推挙とある」
マルガレーテが、小さく息を吸った。
「ヘルガが」
「ご存じの方ですか、お義母さま」
「若いころからの、友人です」
姑の声に、わずかな熱があった。
「王妃陛下の、茶会の取り仕切りも任される方です。ヴィオレッタを、推してくださったのですね。ありがたいこと」
「待ってください」
私は、思わず口を挟んだ。
「あの子は、まだ八つです。ケスラー夫人の授業が始まって、ようやく半月。礼法を整える時間が、足りません」
「三週間ある」
夫は、手紙を畳みながら言った。
「その間に、仕上げればいい」
「仕上げる、というのは」
「王妃陛下の前に出して、恥ずかしくない程度に。それだけだ」
簡単に言ってくれる、と思った。
「あの子の気持ちは、いかがですか」
「気持ち?」
「王宮の茶会は、八つの子にとって、決して楽な場ではありません。何人もの令嬢が並んで、比べられる。あの子は、できると思われることを、怖がる子です」
「その怖がりを、直すための場でもある」
ジークハルトの声は、いつもの淡々としたものに戻っていた。
「できると思われることを、避けていては、公爵家の娘は務まらない」
「先日は、できない日は、できないと言いなさい、とおっしゃいました」
「言った。それと、茶会は別だ」
別ではない、と言いかけて、私は唇を結んだ。
この人は、変わりかけている。けれど、まだ、家の外の世界に対しては、昔のままだ。公爵家の娘は、王家の招きを断れない。その常識を、夫は一度も疑ったことがないのだろう。
「辞退は、できないのですね」
「できない。王家からの招待を断れば、財務卿の私が、王宮でどう見られるか。わかるだろう」
財務を預かる公爵が、王家の招待を蹴る。それは、娘一人の事情では済まない。
私は、静かに息を吐いた。
「では、せめて、私も同席させてください」
「母親の同席は、慣習として許されている」
「ええ。それは、存じています」
マルガレーテが、口を挟んだ。
「クラリッサ。あなたが付き添うのは、よろしい。ただし、茶会の席で、ヴィオレッタに余計な口出しをしないように」
「口出しは、しません」
「隣に座っていたいのでしょう。あの子が、そう望んだのですから」
姑は、そこだけ、少し柔らかい声で言った。
「ただし、王宮では、母親は隣の席には座れません。壁際の席です。それは、覚悟なさい」
壁際。見ているだけ。
胸の奥で、小さなものが、ちくりと痛んだ。
◇
翌日の勉強部屋で、ケスラー夫人は、茶会の知らせを淡々と受け止めた。
「三週間、ですか」
「はい。難しいでしょうか」
「難しいかどうかは、お嬢様次第です」
夫人は、石板に、茶会の作法を一つずつ書き出していった。入室の礼。席につく順序。王妃陛下への最初の言葉。カップの持ち方。他の令嬢に話しかけられたときの、答え方。
ヴィオレッタは、石板を見つめていた。顔が、少しだけ青い。
授業が終わったあと、娘は、私の袖を引いた。
「お母さま」
「どうしたの?」
「王太子殿下は、どんな方ですか」
私は、一瞬、言葉に詰まった。
原作を読んだ私は、アルフォンスという少年の、断片を知っている。聡明で、真面目で、ヒロインを愛する人。けれど、それは十五歳以降の姿だ。九歳の彼が、どんな少年なのか、私は知らない。
「お母さまも、お会いしたことがないの」
「そうなのですか」
「ええ。会ってみないと、わからないわね」
娘は、うつむいた。
「お父さまは、きっと、気に入られてほしいと思っていらっしゃいます」
「そうかもしれないわね」
否定は、しなかった。嘘をつきたくなかった。
「でも、もし、気に入られなかったら」
「気に入られなくても、あなたが、あなたであることは、変わらないわ」
そう言ってから、少し、陳腐な言葉だったと思った。娘の目が、疑うように細くなる。
「……それは、気に入られなかったら、がっかりなさる、ということですか」
「お父さまは、そうかもしれない。でも、お母さまは、がっかりしないわ」
「本当ですか」
「ええ」
ヴィオレッタは、しばらく私の顔を見つめていた。それから、ふっと視線を落として、小さく言った。
「お母さまは、お顔に出ます」
「え?」
「少し、困っていらっしゃいます」
見抜かれた。
私は、苦笑するしかなかった。
「ええ。少し、困っているわ。あなたが、嫌な思いをするかもしれないと思って」
「それなら、いいです」
娘は、小さく息をついた。
「困っていると、言ってくださったほうが、安心です」
◇
それから三週間、ヴィオレッタは毎日、茶会の練習をした。
入室の礼を、扉の前で何度も繰り返す。カップを持ち上げるときの小指の角度。笑うべきところと、黙っているべきところ。夫人は、一度も声を荒らげなかった。ただ、足りないところを淡々と指摘し、娘が直すまで、静かに待った。
ある日の夕方、勉強部屋の外から、笑い声が聞こえた。
のぞいてみると、レオンが、ハンナの肩掛けを頭からかぶって、椅子の上に立っていた。胸には、ミミ。
「ぼくが、おうひさま!」
「王妃陛下は、椅子の上には立ちません」
ヴィオレッタが、真面目な顔で礼をとった。
「王妃陛下、本日はお招きにあずかり、光栄に存じます」
「うむ。くるしゅうない」
「それは、王様の言葉です」
「じゃあ、えーと、よきにはからえ」
「それも違います」
そう言いながら、娘の肩は小さく震えていた。笑いをこらえているのだ。窓の外からのぞく私に気づくと、ぱっと表情を引き締めた。
「お母さま。見ていらしたのですか」
「ええ。とても上手な礼だったわ」
「……練習ですから」
ヴィオレッタは、ちらりと弟を見た。レオンは、肩掛けの中で、満足げに胸を張っている。
「レオンのおかげで、少しだけ、緊張しなくなりました」
小さな声で、そう言った。
◇
茶会の三日前、屋敷の玄関に、見慣れない馬車が停まった。
深い緑の車体に、金の縁取り。家紋の入った扉が、従僕の手で開かれる。
玄関ホールにいた私のところへ、オスカーが、足早にやってきた。
「奥様。ドレーゼン伯爵夫人が、お見えになりました」
「……予定では、なかったはずですが」
「大奥様が、お通しするようにと」
ホールの向こうから、軽やかな足音が近づいてくる。
扇を片手に、薄紫のドレスをまとった女性が、ゆったりと階段を下りてきた。五十を少し越えたくらいだろうか。穏やかな笑みを湛えた顔は、どこか、人を安心させる。
「クラリッサ様ね」
その声は、柔らかな、少し低い、耳に心地よい声だった。
「お目にかかれて、光栄ですわ。ヘルガ・ドレーゼンと申します。大奥様には、長いことお世話になっておりまして」
差し出された手を、私は握った。
指先は、温かかった。
けれど、その瞳は、私の手を握りながら、私の背後を、見ていた。
階段の上、ヴィオレッタが、手すりの陰から、こちらを覗いている。




