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悪役令嬢ではなく、その母親に転生しました。娘が断罪される前に家庭環境から直します  作者: ローナ


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12/22

壁際の席

「お嬢様でいらっしゃいますね」


ドレーゼン伯爵夫人は、私の手を放すと、ゆっくり階段のほうへ顔を向けた。


「お隠れにならなくても、よろしいのよ。わたくしは、のぞかれるのが好きですの」


手すりの陰で、黒髪が小さく揺れた。ヴィオレッタは逃げなかった。一段、二段と降りてきて、ホールの床に足をつくと、教わったとおりの礼をとった。


「ヴィオレッタ・リヒテンベルクでございます。ようこそお越しくださいました」


声は少し固い。けれど、小指の角度まで、ケスラー夫人の石板どおりだった。


「まあ」


伯爵夫人は扇を口元に寄せた。


「三週間のお稽古と伺っておりましたけれど。大奥様、これは、お見事ですわ」


いつの間にか、マルガレーテが廊下の奥に立っていた。


「ヘルガ。来るなら来ると、文をよこしなさい」


「あら、文を出したら、あなたは部屋を片づけさせるでしょう。わたくしは、ふだんのお屋敷が見たかったのよ」


二人は、親しげに笑った。姑がこんな顔をするのを、私は初めて見た。


◇


応接間では、お茶が出された。


ヴィオレッタは、礼をとった直後に下がるよう言われた。扉の外へ出る前に、娘は一度だけ私を振り返った。私は、うなずいてみせた。


席には、私とマルガレーテ、そして伯爵夫人。


「クラリッサ様。今日は、お願いがあって参りましたの」


夫人は、カップを両手で包んだ。


「お嬢様の礼法を、少し見せていただいて、安心いたしました。実は、王妃陛下が、今度の茶会を、ただの茶会とはお考えでないものですから」


「と、おっしゃいますと」


「王太子殿下のお相手を、そろそろ、お探しになりたいのです」


予想はしていた。それでも、言葉になって耳に届くと、背中の芯が冷えた。


「殿下は九つでいらっしゃいます。お相手をお決めになるのは、まだ先でしょう」


「ええ。決めるのは、先です。ですから、今日は『打診』と申しましょうか。茶会で、陛下が令嬢方のお人柄をご覧になる。その中から、数人が、候補として残る。それだけのことです」


「それだけ、とは」


「ご辞退も、できますのよ。陛下が、お声をかけられる前なら」


伯爵夫人は、穏やかに言った。


「ただし、辞退の形は、よく選ばれませんと。王家の席から、公爵家の娘が自ら退いたとなれば、噂は、尾ひれがつきます。ですから、辞退するのなら、ご縁がなかったという形で、陛下のほうから見送っていただくのが一番ですの」


つまり、ヴィオレッタが目立たなければ、見送られる。


私の頭の中で、道筋が一つ、見えた。茶会で、娘を目立たせない。礼は完璧に、けれど、印象には残らない令嬢でいる。


「そのためには、どうすればよいとお思いですか」


「さあ。わたくしからは、何も」


夫人は、微笑んだ。


「ただ、お嬢様は、立っているだけで、目を引くお子様ですわ。黒髪に、紫の瞳。陛下がお好みの色でもありますし。……わたくしが推挙した理由を、お察しいただけるでしょう?」


「ヘルガの目は、確かです」


マルガレーテが、満足げに口を添えた。


「わたくしも、この子が茶会に出ることを、誇らしく思っております」


姑は、悪気なく言っているのだ。孫娘が王妃に選ばれることは、この家にとって、名誉でしかない。


私は、カップを置いた。


「お義母さま。ヴィオレッタは、王太子妃になりたいと、まだ一度も申しておりません」


「八つの子が、望みなど持つものですか」


「持ちます。あの子は、自分の望みを、言ってもいいのか迷っているだけです」


応接間が、静まった。


姑は、何かを言いかけて、口を結んだ。先日までなら、一刻は続いたはずの反論が、出てこない。かわりに、伯爵夫人が、おだやかに笑った。


「頼もしいお母様ですこと。壁際から、お嬢様を見ていらしてくださいな。母親が見ているのを、子は案外、ずっと覚えているものですから」


その言葉に、悪意は感じられなかった。それなのに、私の胸の中で、何かが小さく軋んだ。


◇


茶会の前日、私は約束を果たした。


「今度の休みに、一緒に何かを選びましょう」


ヴィオレッタと二人きりで馬車に乗り、市場の通りへ出たのは、思えば、これが初めてのことだった。


「何を買ってもいいのですか」


「ええ。一つだけ。あなたが、欲しいもの」


娘は、窓の外の人混みを、口を半分あけて眺めていた。屋台の果物、ひしめく露店、鳩の群れ。この子を街へ連れてきたことがなかったと気づいて、私は、またひとつ、自分の落ち度を数えた。


文具店の前で、ヴィオレッタが足を止めた。


「ここがいいです」


店の奥の棚に、白い紙を綴じた帳面が並んでいた。表紙は、濃い藍色の布張り。


「帳面?」


「鳥の絵を、描きたいのです。図鑑は、お父さまの本ですから、描き込めません」


私は、胸をつかれた。


「色のついた白墨も、あるわよ」


「いいえ。黒だけでいいです。ヒワの羽根は、黒と、白で描けます」


そう言って、娘は帳面を一冊だけ選んだ。値札を見て、思い直したように、もう一度、棚の端の小さな帳面を手に取る。


「こちらのほうが、安いです」


「大きいほうが、描きやすいでしょう」


「でも」


「お金のことは、お母さまが考えるわ」


娘は、逡巡した。それから、大きいほうの帳面を、胸に抱いた。


「……お母さま」


「なあに」


「お母さまは、お顔に出ます」


「また?」


「明日のことを、心配していらっしゃる」


私は、立ち止まった。娘は、帳面を抱えたまま、まっすぐ私を見上げていた。


「大丈夫です。わたくしは、お礼をいたします。お茶も、こぼしません」


「ええ」


「それで、もし、王妃陛下に、お声をかけられても」


言葉が、そこで途切れた。


「……お母さまが見ていてくださるなら、立っていられると思います」


壁際から、見ているだけ。あの日の、「見ているだけでした」という娘の言葉が、頭をよぎった。


「ええ。見ているわ」


私は、膝を折って、娘の目の高さに合わせた。


「でも、見ているだけでは、ないのよ。あなたが私を見たら、私は、いつでも目を合わせる。つらくなったら、紅茶の匙を、二度かき混ぜなさい。それが、合図」


「合図、ですか」


「ええ。そうしたら、お母さまは、咳をして、あなたを連れ出す口実を作るわ」


ヴィオレッタは、ぱちぱちと瞬きをした。それから、小さな、本当に小さな声で言った。


「……それは、嘘をつくことになりませんか」


「ええ。とても悪い嘘ね。お祖母さまには、内緒よ」


娘の唇が、ふるえた。笑いをこらえている。


「二度かき混ぜるのですね」


「そう。二度」


馬車に戻る道すがら、娘は何度も、帳面の表紙を、指でなぞっていた。


◇


その夜、屋敷が寝静まってから、私は窓辺で、原作の一行を思い返した。


──母は社交にしか関心のない人で、ヴィオレッタは母の部屋に入ったことすらなかった。


あの一行の母は、今夜、娘から「お母さまの部屋に入ってもいいですか」と聞かれ、扉を開けて待っている。


けれど、物語は、その母を、断罪の夜に、立たせなかった。


なぜ、クラリッサは、その場にいなかったのか。十年後の自分は、どこにいるのか。答えは、まだ、どこにもない。


そのとき、廊下から、足音がした。


扉が小さく叩かれ、顔をのぞかせたのは、寝間着姿のヴィオレッタだった。胸に、藍色の帳面。


「お母さま。眠れません」


「そう。おいで」


寝台の端に並んで座ると、娘は帳面を膝に開き、黒い炭筆で、ヒワを描き始めた。ぎこちない線が、翼の形をつくっていく。


私は、何も言わずに、隣で見ていた。


壁際ではなく、隣で。


明日の朝、この子の隣には、座れない。けれど、今夜は座れる。それが、今の私に許された、すべてだった。


窓の外で、夜風が鳴った。王宮の茶会は、あと一晩で、始まる。

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