壁際の席
「お嬢様でいらっしゃいますね」
ドレーゼン伯爵夫人は、私の手を放すと、ゆっくり階段のほうへ顔を向けた。
「お隠れにならなくても、よろしいのよ。わたくしは、のぞかれるのが好きですの」
手すりの陰で、黒髪が小さく揺れた。ヴィオレッタは逃げなかった。一段、二段と降りてきて、ホールの床に足をつくと、教わったとおりの礼をとった。
「ヴィオレッタ・リヒテンベルクでございます。ようこそお越しくださいました」
声は少し固い。けれど、小指の角度まで、ケスラー夫人の石板どおりだった。
「まあ」
伯爵夫人は扇を口元に寄せた。
「三週間のお稽古と伺っておりましたけれど。大奥様、これは、お見事ですわ」
いつの間にか、マルガレーテが廊下の奥に立っていた。
「ヘルガ。来るなら来ると、文をよこしなさい」
「あら、文を出したら、あなたは部屋を片づけさせるでしょう。わたくしは、ふだんのお屋敷が見たかったのよ」
二人は、親しげに笑った。姑がこんな顔をするのを、私は初めて見た。
◇
応接間では、お茶が出された。
ヴィオレッタは、礼をとった直後に下がるよう言われた。扉の外へ出る前に、娘は一度だけ私を振り返った。私は、うなずいてみせた。
席には、私とマルガレーテ、そして伯爵夫人。
「クラリッサ様。今日は、お願いがあって参りましたの」
夫人は、カップを両手で包んだ。
「お嬢様の礼法を、少し見せていただいて、安心いたしました。実は、王妃陛下が、今度の茶会を、ただの茶会とはお考えでないものですから」
「と、おっしゃいますと」
「王太子殿下のお相手を、そろそろ、お探しになりたいのです」
予想はしていた。それでも、言葉になって耳に届くと、背中の芯が冷えた。
「殿下は九つでいらっしゃいます。お相手をお決めになるのは、まだ先でしょう」
「ええ。決めるのは、先です。ですから、今日は『打診』と申しましょうか。茶会で、陛下が令嬢方のお人柄をご覧になる。その中から、数人が、候補として残る。それだけのことです」
「それだけ、とは」
「ご辞退も、できますのよ。陛下が、お声をかけられる前なら」
伯爵夫人は、穏やかに言った。
「ただし、辞退の形は、よく選ばれませんと。王家の席から、公爵家の娘が自ら退いたとなれば、噂は、尾ひれがつきます。ですから、辞退するのなら、ご縁がなかったという形で、陛下のほうから見送っていただくのが一番ですの」
つまり、ヴィオレッタが目立たなければ、見送られる。
私の頭の中で、道筋が一つ、見えた。茶会で、娘を目立たせない。礼は完璧に、けれど、印象には残らない令嬢でいる。
「そのためには、どうすればよいとお思いですか」
「さあ。わたくしからは、何も」
夫人は、微笑んだ。
「ただ、お嬢様は、立っているだけで、目を引くお子様ですわ。黒髪に、紫の瞳。陛下がお好みの色でもありますし。……わたくしが推挙した理由を、お察しいただけるでしょう?」
「ヘルガの目は、確かです」
マルガレーテが、満足げに口を添えた。
「わたくしも、この子が茶会に出ることを、誇らしく思っております」
姑は、悪気なく言っているのだ。孫娘が王妃に選ばれることは、この家にとって、名誉でしかない。
私は、カップを置いた。
「お義母さま。ヴィオレッタは、王太子妃になりたいと、まだ一度も申しておりません」
「八つの子が、望みなど持つものですか」
「持ちます。あの子は、自分の望みを、言ってもいいのか迷っているだけです」
応接間が、静まった。
姑は、何かを言いかけて、口を結んだ。先日までなら、一刻は続いたはずの反論が、出てこない。かわりに、伯爵夫人が、おだやかに笑った。
「頼もしいお母様ですこと。壁際から、お嬢様を見ていらしてくださいな。母親が見ているのを、子は案外、ずっと覚えているものですから」
その言葉に、悪意は感じられなかった。それなのに、私の胸の中で、何かが小さく軋んだ。
◇
茶会の前日、私は約束を果たした。
「今度の休みに、一緒に何かを選びましょう」
ヴィオレッタと二人きりで馬車に乗り、市場の通りへ出たのは、思えば、これが初めてのことだった。
「何を買ってもいいのですか」
「ええ。一つだけ。あなたが、欲しいもの」
娘は、窓の外の人混みを、口を半分あけて眺めていた。屋台の果物、ひしめく露店、鳩の群れ。この子を街へ連れてきたことがなかったと気づいて、私は、またひとつ、自分の落ち度を数えた。
文具店の前で、ヴィオレッタが足を止めた。
「ここがいいです」
店の奥の棚に、白い紙を綴じた帳面が並んでいた。表紙は、濃い藍色の布張り。
「帳面?」
「鳥の絵を、描きたいのです。図鑑は、お父さまの本ですから、描き込めません」
私は、胸をつかれた。
「色のついた白墨も、あるわよ」
「いいえ。黒だけでいいです。ヒワの羽根は、黒と、白で描けます」
そう言って、娘は帳面を一冊だけ選んだ。値札を見て、思い直したように、もう一度、棚の端の小さな帳面を手に取る。
「こちらのほうが、安いです」
「大きいほうが、描きやすいでしょう」
「でも」
「お金のことは、お母さまが考えるわ」
娘は、逡巡した。それから、大きいほうの帳面を、胸に抱いた。
「……お母さま」
「なあに」
「お母さまは、お顔に出ます」
「また?」
「明日のことを、心配していらっしゃる」
私は、立ち止まった。娘は、帳面を抱えたまま、まっすぐ私を見上げていた。
「大丈夫です。わたくしは、お礼をいたします。お茶も、こぼしません」
「ええ」
「それで、もし、王妃陛下に、お声をかけられても」
言葉が、そこで途切れた。
「……お母さまが見ていてくださるなら、立っていられると思います」
壁際から、見ているだけ。あの日の、「見ているだけでした」という娘の言葉が、頭をよぎった。
「ええ。見ているわ」
私は、膝を折って、娘の目の高さに合わせた。
「でも、見ているだけでは、ないのよ。あなたが私を見たら、私は、いつでも目を合わせる。つらくなったら、紅茶の匙を、二度かき混ぜなさい。それが、合図」
「合図、ですか」
「ええ。そうしたら、お母さまは、咳をして、あなたを連れ出す口実を作るわ」
ヴィオレッタは、ぱちぱちと瞬きをした。それから、小さな、本当に小さな声で言った。
「……それは、嘘をつくことになりませんか」
「ええ。とても悪い嘘ね。お祖母さまには、内緒よ」
娘の唇が、ふるえた。笑いをこらえている。
「二度かき混ぜるのですね」
「そう。二度」
馬車に戻る道すがら、娘は何度も、帳面の表紙を、指でなぞっていた。
◇
その夜、屋敷が寝静まってから、私は窓辺で、原作の一行を思い返した。
──母は社交にしか関心のない人で、ヴィオレッタは母の部屋に入ったことすらなかった。
あの一行の母は、今夜、娘から「お母さまの部屋に入ってもいいですか」と聞かれ、扉を開けて待っている。
けれど、物語は、その母を、断罪の夜に、立たせなかった。
なぜ、クラリッサは、その場にいなかったのか。十年後の自分は、どこにいるのか。答えは、まだ、どこにもない。
そのとき、廊下から、足音がした。
扉が小さく叩かれ、顔をのぞかせたのは、寝間着姿のヴィオレッタだった。胸に、藍色の帳面。
「お母さま。眠れません」
「そう。おいで」
寝台の端に並んで座ると、娘は帳面を膝に開き、黒い炭筆で、ヒワを描き始めた。ぎこちない線が、翼の形をつくっていく。
私は、何も言わずに、隣で見ていた。
壁際ではなく、隣で。
明日の朝、この子の隣には、座れない。けれど、今夜は座れる。それが、今の私に許された、すべてだった。
窓の外で、夜風が鳴った。王宮の茶会は、あと一晩で、始まる。




