王宮の茶会
王宮へ向かう馬車の中で、ヴィオレッタは膝の上で両手を重ねたまま、一言も口をきかなかった。
向かいの席には、私だけ。ジークハルトは財務の会議で先に王宮へ入っている。マルガレーテは「祖母が出る場ではありません」と、屋敷の玄関で見送った。見送る手が、ほんの少し長く娘の肩に触れていたのを、私は見逃さなかった。
「ヴィオレッタ」
「はい」
「一つ、聞いておきたいの。昨日、聞きそびれたことよ」
娘が顔を上げた。
「今日、あなたは、どうしたい?」
「どう、とは」
「王妃陛下に気に入られたいか。目立たずに帰りたいか。どちらでもないか。お母さまは、あなたの望みを先に聞いておきたいの」
昨夜、私は一つ、間違いに気づいていた。ドレーゼン夫人の話を聞いて、私は勝手に「目立たせない」道筋を組み立てた。けれど、それは私が決めることではない。
ヴィオレッタは、しばらく窓の外を見ていた。石畳の上を、馬車の車輪が規則正しく鳴らす。
「……わかりません」
「そう」
「でも、お祖母さまは、気に入られてほしいと思っていらっしゃいます。お父さまも。お母さまは、そうではないのですか」
「お母さまは、あなたが嫌な思いをしないことを、一番に思っているわ」
「それは、答えになっていません」
八つの子に、痛いところを突かれた。
「そうね。……正直に言うと、お母さまは、あなたに王太子妃になってほしいかどうか、まだ決められていないの。あなたがどうしたいのかを、知ってからでないと」
「わたくしにも、決められません」
娘は、小さく息をついた。
「だから、今日は、会ってみてから決めます」
私は、何も言えなかった。それは、八歳の少女としては、ひどく大人びた答えだった。
◇
王宮の回廊で、ジークハルトが待っていた。
会議の合間に抜けてきたのだろう。財務の書類を脇に抱えたまま、娘の前に立つ。
「来たか」
「はい、お父さま」
「……」
夫は、何か言うべき言葉を探しているように見えた。以前なら、「恥ずかしくないように」の一言で済んだはずだ。
「疲れたら、そう言え」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
ヴィオレッタが、目を丸くする。
「できない日は、できないと言えと言った。……今日が、その日になっても、私は、叱らない」
「叱らない、のですか」
「叱らない。ただし、王妃陛下の前では、自分で礼を尽くせ」
最後の一言は、やはり夫らしかった。けれど、娘の肩から、わずかに力が抜けたのが見えた。
夫は私に視線を寄越し、小さく顎を引いて、会議へ戻っていった。
◇
王宮の庭に面した白い東屋には、円卓が据えられていた。
円卓を囲む椅子は、十脚。すでに六人の令嬢が着席し、母親たちは、壁沿いの長椅子に、扇を手に並んでいる。話し声はひそやかで、けれど視線は、ひっきりなしに円卓を往復していた。
「ヴィオレッタ・リヒテンベルク公爵令嬢、ご到着」
侍従の声に、東屋の空気が一瞬、止まった。
娘は、教わったとおりに歩いた。入室の礼。席の前で、もう一度。顔は、わずかに青いが、背筋は伸びている。
私は壁際の長椅子へ向かった。そこで、隣に座った婦人が、扇の陰から声をかけてきた。
「リヒテンベルク公爵夫人。昼の茶会にお出ましとは、お珍しいこと」
ハルトマン侯爵夫人。娘のセシリアは、円卓の向かい側で、金色の巻き毛を揺らしていた。
「ご無沙汰しております」
「夜会では、いつもお見かけいたしますのに。昼間にお嬢様をお連れになるのは、初めてではなくて?」
そう言う声には、棘というより、純粋な好奇心があった。原作のクラリッサは、社交の場に出ても、娘を連れてはいなかったのだ。
「娘も八つになりましたので」
そう答えると、侯爵夫人は意外そうに目を瞬かせ、それ以上は何も言わなかった。
円卓では、王妃陛下の席だけが空いていた。上座の隣に、薄紫のドレスの背中が見える。ドレーゼン夫人が、場の取り仕切りとして、令嬢たちに茶を注いで回っていた。
その背中が、ヴィオレッタの後ろで、ほんの一瞬だけ止まった。
茶を注ぎながら、夫人が娘の耳元へ、何かをささやいたのが見えた。ヴィオレッタが小さく目を見張る。口の動きは、読めなかった。
あとで聞いた話だが、夫人はこう言ったのだという。
「お母様のほうは、あまりご覧にならないほうがよいわ。陛下は、ご自分の足で立っている子が、お好きですから」
娘はそのとき、うなずかなかった。うなずけなかったのだと思う。
◇
「まあ、紫の瞳」
最初に口を開いたのは、セシリアだった。
「おばあさまが、おっしゃっていましたわ。紫の瞳は、少し、不吉なのですって」
円卓の令嬢たちが、息をのんだ。母親たちの扇が、一斉に止まる。
私の背中に、汗が走った。
ヴィオレッタは、カップを持ち上げようとしていた手を、止めた。顔から、さっと血の気が引く。次の瞬間、頬が赤くなった。
「……失礼ですが」
低い声だった。
「不吉なのは、人の見た目を、陰で口にするほうだと思います」
東屋が、凍った。
セシリアの顔が、みるみる歪んだ。「何ですって」と立ち上がりかける。侯爵夫人が、扇をぱたりと閉じた。
私は、息を止めていた。
これが、原作の最初の一行だったのかもしれない。悪役令嬢と呼ばれるヴィオレッタは、きっと、こうして敵を作っていった。
ヴィオレッタが、私を見た。
助けを求める目ではなかった。合図を出すかどうかを、迷っている目だった。銀の匙は、まだ、カップの縁にかかっただけで、動いていない。
行けば、止められる。咳をして、席を立つ口実を作って、娘を連れ出せる。
けれど、それをしたら。
娘は、自分が言ったことの結末を、一度も引き受けないまま、この場を去ることになる。
私は、動かなかった。
ただ、目を合わせた。昨日の約束どおり、いつでも目を合わせる、それだけを守った。
ヴィオレッタは、一度、唇を噛んだ。
それから、セシリアのほうへ向き直った。
「……言い方が、悪かったです。でも、不吉と言われたのは、悲しかったです」
声が震えていた。けれど、最後まで、目をそらさなかった。
セシリアは、口を開けたまま、立ち尽くしていた。やがて、ぷいと横を向き、小さな声で言った。
「わたくしも、おばあさまの言葉を、そのまま言いました。……ごめんなさい」
隣の侯爵夫人が、扇の陰で、ぽつりとつぶやいた。
「……お嬢様がた、どちらも、ご立派なこと」
その声は、私にではなく、自分の娘に向けたものだったかもしれない。膝の上の私の手は、気づけば、ドレスの布を固く握りしめていた。助けなかったことが、正しかったのか。答えは、まだ出ない。
その瞬間、東屋の入口から、衣擦れの音がした。
侍従の声が響いた。
「王妃陛下、ご到着」
全員が、一斉に立ち上がった。
現れたのは、淡い金の髪を結い上げた、四十代半ばの女性だった。優雅な足取りで円卓の上座に進み、令嬢たちを順に見渡す。その視線が、ヴィオレッタのところで、ほんの少し止まった。
「まあ。今、何か、ございましたか」
誰も答えなかった。
ドレーゼン夫人が、一歩進み出て、扇を傾けた。
「いいえ、陛下。令嬢方が、お互いに、ご挨拶を交わしておられただけですわ」
その声は、柔らかく、淀みなかった。
王妃は、ゆるやかに微笑んだ。
「それは何より。……ヴィオレッタ嬢」
名を呼ばれた娘が、びくりと肩を揺らす。
「はい、陛下」
「あなたの瞳は、とてもきれいね。春先の菫の色」
王妃の声には、ひとかけらの揶揄もなかった。
ヴィオレッタが、答えに詰まった。助けを求めるように、壁際の私を見る。
私は、ほんの少しだけ、うなずいてみせた。
匙は、一度も、動かなかった。




