ヒワは誰のものでもない
「……ありがとうございます、陛下」
ヴィオレッタの声は、小さかった。けれど、はっきりしていた。
「菫は、お庭の隅で、見たことがあります。……わたくしの目が、あんなに小さな花と同じとは、知りませんでした」
言ってから、娘の頬が赤くなった。令嬢たちのあいだに、くすりと小さな笑いが起きる。馬鹿にする笑いではなかった。王妃も、扇の陰で目を細めた。
「面白い子ね。お好きなものは、何かしら」
「鳥です」
即答だった。
「特に、ヒワが好きです。小さくて、黄色くて、冬でも鳴きます」
「まあ」
王妃は、意外そうに身を乗り出した。
「うちの息子も、鳥が好きなのよ。庭に小鳥小屋をこしらえて、毎朝、世話をしているの。ねえ、ヘルガ。アルフォンスを呼んでちょうだい」
ドレーゼン夫人が、微笑んでうなずいた。扇の動きが、ほんの少しだけ優雅すぎるように見えたのは、気のせいだろうか。
◇
東屋に現れた王太子アルフォンスは、背筋の伸びた、真面目そうな少年だった。
栗色の髪に、青灰の瞳。九歳にしては落ち着いているけれど、手に握りしめた帽子のつばは、くしゃりと潰れていた。
「母上のお召しにより、参りました」
台詞を、暗記してきたのだろう。続けて、令嬢たちへ向き直る。
「本日は、ようこそ。……楽にしてください」
そのひと言で、堅苦しかった空気が、少し緩んだ。
王妃が、悪戯っぽく言う。
「アルフォンス。こちらのヴィオレッタ嬢が、ヒワがお好きなんですって」
少年の目が、ぱっと見開かれた。
「ヒワが?」
「は、はい」
「僕の小屋に、二羽いるんです。冬に、庭で拾って。見ますか」
先ほどまでの暗記の調子が、跡形もなく消えている。ヴィオレッタは、一瞬、迷うように私を見た。私は、うなずいた。
「……見たいです」
「では、案内します」
そこで、セシリアが声を上げた。
「殿下。わたくしも、鳥は好きですわ」
「そうですか。では、皆さんで」
王太子は、ぎこちなく、全員を招いた。令嬢たちが、ざわざわと立ち上がる。
母親たちも腰を浮かせかけたところで、ドレーゼン夫人の柔らかい声が響いた。
「お母様がたは、こちらで、お茶をもう一杯いかがかしら。お子様がたの邪魔をしては、無粋ですわ」
王妃の前で、そう言われては、誰も逆らえない。
私は座り直した。視線の先、庭の奥へ向かう子どもたちの列の中で、黒髪がひとつ、小さく揺れていた。
壁際ではなく、さらに遠く。この距離では、娘の声は聞こえない。
ドレーゼン夫人が、私のカップに、自ら茶を注いだ。
「ご心配ですの?」
「ええ。少し」
「正直なお方ね」
夫人は、微笑んだ。
「ひとつ、お聞かせしましょうか。わたくしがお嬢様を推挙した理由を」
私は、カップから顔を上げた。
「二年前の、冬至の礼拝でしたわ。礼拝堂の隅で、侍女に叱られて泣いている子がおりましたの。皆、目をそらしておりました。そこへ、小さな黒髪のお嬢様が、黙って近づいて、その子の手を握ったのです。何も言わずに」
「……ヴィオレッタが、ですか」
「ご存じなかったのね」
夫人の声は、どこまでも柔らかかった。
「口は悪くても、あの子の手は、あたたかい。わたくしは、そういう子が、王家には必要だと思いましたの」
嘘とも、本当とも、聞こえた。
私は知らなかった。娘が、人の手を握る子だということを。そして、それを知っていた他人が、目の前にいることを。
茶の湯気の向こうで、ドレーゼン夫人の目は、笑っていた。
◇
小鳥小屋は、庭の奥の、薔薇の垣根の陰にあった。
ヴィオレッタは、小屋の前で、アルフォンスの隣に立った。檻の中には、黄色い小鳥が二羽。大きいほうが雄で、小さいほうが雌だと、王太子が説明した。
「名前は?」
「まだ、ありません。名前をつけると、手放せなくなるから」
「……それは、わかります」
娘は、小さく言った。
そこへ、セシリアが割り込んだ。
「殿下、見てください。この子、わたくしの指に乗りましたわ」
「本当だ。人に慣れているんですね」
「ええ。わたくし、小鳥には好かれますの。ヒワなら、いつでも飼えますわ。うちに、取り寄せられますもの」
王太子が、感心したようにうなずく。ヴィオレッタは、横で唇を結んだ。
胸の奥で、何かが、ふくれあがっていく。
自分が先に好きだと言ったのに。自分が先に、ヒワのことを話したのに。
「……ヒワは」
声が、自分でも驚くほど、尖っていた。
「ヒワは、わたくしが、先に好きだと言いました」
沈黙が落ちた。
セシリアが、むっとして振り向く。
「好きに、先も後もありませんわ」
「ありますっ。わたくしが先です。あなたは、あとから、わたくしのまねをしました」
自分でも、おかしなことを言っていると、わかっていた。わかっていて、止められない。喉が熱い。目の奥が、じんじんと痛む。
アルフォンスは、二人を交互に見て、困ったような顔をした。
そして、ぽつりと言った。
「ヒワは、誰のものでもないと思います」
二人の少女が、同時に、彼を見た。
「僕のヒワだって、僕のものではないんです。拾っただけで。……あなたたちが、先でも後でも、ヒワは、ヒワです」
当たり前のことを、当たり前の声で言われて、ヴィオレッタは言葉を失った。
しばらくして、娘は、顔を真っ赤にしたまま、小さな声で言った。
「……失礼いたしました。変なことを、言いました」
「変じゃないです」
王太子は、首をかしげた。
「好きなものを、取られたくないのは、普通だと思います。僕も、ミルクは、取られたくありません」
「ミルク?」
「朝の。僕の、一番の楽しみなので」
セシリアが、ふっと吹き出した。ヴィオレッタも、つられて、口元がゆるんだ。気づけば、三人で小鳥小屋の前に並んで、笑っていた。
◇
小屋の前で何があったかを、私が知ったのは、帰りの馬車に乗ってからだった。
東屋の外の庭から、子どもたちが戻ってくるのは、遠くから見えた。三人並んで、時折、肩を揺らして。ヴィオレッタが笑っているのを、私は初めて、あんなに遠くから見た。
そして、王妃は、帰りの挨拶のとき、ただ一言、こう言った。
「ヴィオレッタ嬢。また、いらっしゃい」
馬車の中で、娘は、頬を赤く染めたまま、小さな声で語り終えると、窓の外を見た。
「お母さま。わたくし、変なことを、言いました。ヒワは、わたくしが先に好きだと」
「ええ。聞いたわ」
「怒られると、思いました。でも、殿下は、変じゃないと」
「そう」
「お母さまは、がっかりなさいましたか」
私は、首を横に振った。
「いいえ。ちゃんと、謝ったのでしょう」
「はい」
「それなら、いいの。取られたくないと思うのは、悪いことではないわ。口に出す前に、一度だけ、息をするのよ」
「……息、ですか」
「そう。一度だけ。次は、できるかもしれない」
ヴィオレッタは、小さくうなずいた。
しばらくすると、娘の頭が、こくりと私の肩に落ちてきた。慣れない場で、使い果たしたのだろう。穏やかな寝息が、聞こえ始める。
私は、娘の黒髪を、そっと撫でた。
今日の娘の顔は、確かに、輝いていた。小鳥小屋の前で、友と呼べそうなものを、初めて得たかのように。
けれど、私は知っている。この輝きから、原作の婚約は始まったのかもしれない。
屋敷の窓では、きっと、レオンがミミを抱いて待っている。マルガレーテは、玄関で何も言わずに迎えるだろう。夫は、夜遅くに戻って、娘の顔を見てから、私に結果を尋ねるはずだ。
誰もが、今日の答えを待っている。けれど、娘自身の答えは、まだ、出ていない。
窓の外では、日が傾いていた。
馬車は、王都ルーヴェンの石畳を、ゆるやかに、屋敷へと向かって進んでいった。




