咳は嘘ではない
屋敷に着いたのは、日がすっかり落ちてからだった。
眠ったままの娘をミーナに預けると、玄関ホールの奥から、マルガレーテがゆっくりと歩み出てきた。濃紺のドレスに、黒玉の首飾り。待っていたのだとは、決して言わない顔をしている。
「戻りましたか」
「はい、お義母さま」
「それで」
姑は、そこで言葉を切った。
「……王妃陛下は、あの子を、お気に召しましたか」
その聞き方は、まるで、結果を知るのが怖いかのようだった。
「帰り際に、『また、いらっしゃい』と」
マルガレーテの肩が、わずかに落ちた。息を吐いたのだと、遅れて気づいた。
「そうですか。……ヘルガの言ったとおりでした」
「ドレーゼン夫人は、何と」
「あの子は、陛下のお心に適う、と。わたくしは、半信半疑でしたが」
姑は、そこで、ほんの少し唇の端を持ち上げた。
「あなたの教え方も、悪くなかったのでしょう」
珍しい褒め言葉だった。礼を言おうとして、私は、昼間のドレーゼン夫人の目を思い出した。穏やかに、笑っていた。あの笑みを、姑は、旧友の善意としてしか受け取っていない。
それを、今ここで言うべきではない。
◇
夫が帰ったのは、深夜近かった。
書斎の扉を叩くと、ジークハルトは、まだ上着を着たまま、机に向かっていた。
「ヴィオレッタは」
「眠っています。疲れたのでしょう」
「そうか」
夫は、手元の書類から目を上げた。
「結果を聞こう」
私は、茶会での出来事を、ありのままに話した。セシリアとの諍い。王妃の言葉。小鳥小屋。ただ、娘が最初に「不吉なのは見た目を陰で言うほうだ」と言い返した件を、ぼかしはしなかった。
聞き終えて、夫は、しばらく何も言わなかった。
「……陛下は、気にしておられなかったのだな」
「その場には、いらっしゃいませんでした」
「侯爵家との関係は」
「ヴィオレッタが、先に言い直しました。令嬢のほうも、謝りました」
「そうか」
夫は、ゆっくりうなずいた。
「悪くない。いや、思っていた以上だ」
その声に、安堵と、かすかな誇らしさが混じっていた。そして、それは、次の一言で、私の予想した方向へ、静かに傾いた。
「王家から、正式な打診が来るだろう。そのときは、お受けするつもりだ」
「お待ちください」
「待つ理由が、どこにある」
「あの子の気持ちを、まだ、聞いていません」
夫の眉が、わずかに動いた。
「九つの子に、望みも何もあるものか。王太子妃の座は、望んで得られるものではない。与えられるものだ」
「あなたは、先日、おっしゃいました。できない日は、できないと言いなさいと」
「言った」
「それなら、嫌な日は、嫌だと言える娘でなければ、困るのではありませんか」
書斎が、しんとした。
夫は、ペンを置いた。灰色の瞳が、じっと私を見る。
「……それを、言う権利が、あの子にはあると、お前は考えているのか」
「はい」
「公爵家の娘が、王家の求めを、拒む権利が」
「拒むと決めているのではありません。聞いてからにしたいのです。聞かずに受けて、あとから娘が、自分は選ばれたのではなく、差し出されたのだと知るほうが、私は怖いのです」
長い沈黙があった。
ジークハルトは、ふっと息を吐いた。
「正式な打診には、返答の猶予がある。三日か、五日か。その間なら、聞いてやれる」
「ありがとうございます」
「勘違いするな」
夫は、目をそらした。
「返事を決めるのは、私だ。ただ……娘の顔は、見ておく」
それが、この人の、今できる精一杯なのだろう。私は、深く頭を下げた。
◇
書斎を出たあと、私は、娘の部屋の扉をそっと開けた。
ヴィオレッタは、藍色の帳面を枕元に置いたまま、寝息を立てていた。毛布の端から、小さな拳が、はみ出している。帳面の開いた頁には、拙い線で二羽のヒワが描かれていた。大きいほうと、小さいほう。名前は、まだ書かれていない。
私は、帳面を閉じようとして、手を止めた。
頁の隅に、鉛筆より薄い字で、こう書いてあった。
『お母さまに、いちばんに見せる』
胸の奥で、あの日、娘に言われた言葉が重なる。お母さまから、何もいただいたことがありません。
私は、帳面を開いたまま、枕元に戻した。明日の朝、この子が、最初に見るように。
◇
その翌朝、食堂は、いつもより少し騒がしかった。
ヴィオレッタが、昨日の茶会の話を、弟に聞かせている。
「王太子殿下の小鳥小屋には、ヒワが二羽いるのです。黄色くて、冬に拾ったのですって」
「ぼくも、みたい!」
「あなたは、行けません。王宮は、遠いのです」
そう言いながらも、娘の声は弾んでいた。頬が上気している。レオンは、ミミを抱いたまま、目をきらきらさせて聞いている。
ヴィオレッタは、食卓の端から端へ、ちらちらと私を見ていた。帳面を見せたいのだと、顔に書いてある。けれど、弟の前では、言い出せないらしい。
その途中で、レオンが、こほん、と咳をした。
一度。二度。
私は、思わず立ち上がった。昨年の冬、この子は、咳から熱を出した。ハンナが駆け寄り、レオンの額に手を当てる。
「熱は、ありません。ただ、朝の冷えでしょう」
「お薬を、一応」
私は、レオンの背をさすった。
そのとき、ヴィオレッタが、ぽつりと言った。
「……また、咳」
声が、平坦だった。
「嘘でしょう」
食堂の空気が、凍った。
「本当は、咳なんて、出ていないのです。そうすれば、お母さまが、来てくださるから」
「ヴィオレッタ」
「だって、いつも、わたくしがお話をしているときに、限って」
娘は、自分の口を、手で押さえた。
言ってしまってから、顔が青ざめた。目が、泳ぐ。レオンの顔が、くしゃりと歪んだ。
「ぼく、うそなんて」
「わかっているわ」
私は、レオンを抱き寄せた。ハンナの腕の中で、小さな体が震えている。
マルガレーテの視線を、背中に感じた。姑は、何も言わなかった。ただ、待っている。
私は、娘のほうを見た。
「ヴィオレッタ」
「……はい」
「今のは、レオンに、謝ることよ」
「でも」
「でも、は、あとで聞くわ。まず、息を一度だけ」
娘の肩が、びくりと揺れた。昨日、馬車で教えた言葉だ。口に出す前に、一度だけ。出てしまったあとなら、どうだろう。
ヴィオレッタは、ぎゅっと目を閉じた。細い息が、鼻から抜けていく。
「……ごめんなさい、レオン」
声は、かすれていた。
「咳が、嘘だなんて、思っていません。……わたくしが、さびしかっただけです」
レオンは、しばらく姉を見つめていた。それから、ミミの耳を、そっと差し出した。
「おねえさま、これ、さわっていいよ」
灰色の絹糸で繕われた耳が、揺れた。
ヴィオレッタは、一瞬、泣きそうな顔をした。それから、そっと指先で、耳に触れた。
「言い直したことは、認めます」
マルガレーテが、短く言った。紅茶の湯気の向こうで、視線は、孫に向いていた。
「ただし、人の咳を疑うのは、二度としないこと。咳は、誰にも、止められませんからね」
「……はい、お祖母さま」
「それから、朝食は、冷めないうちに食べなさい」
厳しい言い方だった。けれど、それ以上は、追及しなかった。かつての姑なら、反省室へ向かう道を、すでに指さしていたはずだ。
私は、ヴィオレッタの隣へ行き、耳元で、囁いた。
「あとで、あなたの帳面を、見せてね。いちばんに」
娘は、目を見開いて、それから、こくりとうなずいた。
食堂の戸口で、オスカーが、銀の盆を持って立っていた。
「失礼いたします、奥様。王宮より、お手紙が」
盆の上の封蝋は、赤ではなく、淡い桜色だった。
宛名は、「ヴィオレッタ・リヒテンベルク様」。




