桜色の手紙
封は、娘の手で切られた。
ペーパーナイフを使うのは初めてなのだろう。ヴィオレッタは慎重に刃を入れ、薄い桜色の便箋を二枚、取り出した。一枚は、整った女性の筆跡。もう一枚は、定規で線を引いたような、几帳面な子どもの文字だった。
食堂の全員が、息を詰めて見守っている。マルガレーテでさえ、茶器を持つ手を止めていた。
ヴィオレッタは、先に二枚目を読んだ。そして、ほんの少し口を開けたまま、止まった。
「……お母さま」
「読んでいいのよ。あなた宛だもの」
娘は、便箋を私に差し出した。
『先日は、ありがとうございました。ヒワに、まだ名前がありません。名前をつけると手放せなくなる、と言いましたが、あなたの意見を聞いてみたくなりました。母上が、そちらの屋敷へ、手紙を出してよいと言いました。アルフォンス』
素っ気ないほど短い文面だった。けれど、最後の署名の「ス」の字だけ、書き直した跡がある。
もう一枚は、王妃の手紙だった。小鳥小屋の見学に、月が変わる前の週の午後、また来るように。母親は、王宮の庭の入口まで付き添えばよい。
「行ってもいいのですか」
ヴィオレッタが、ぽつりと言った。
「誰が行かせないと言うの?」
「だって、お祖母さまが」
マルガレーテが、紅茶を置いた。
「王妃陛下のお招きを、わたくしが止める理由が、どこにあります」
姑は、顔を引き締めていた。嬉しさを隠そうとして、却って厳しい顔になっているのだと、私にはわかった。
「ただし、礼法は、さらにお励みなさい。一度うまくいったからといって、気を抜いてはなりません」
「……はい、お祖母さま」
娘は、頬を赤くして答えた。弟のレオンが、ミミを振りかざして叫んだ。
「おねえさま、すごい! また、おうきゅう!」
「レオン、手を振り回さないで。ミミが、お茶に落ちるわ」
笑い声が起きた。昨日までの、凍りついた食堂が、嘘のようだった。
◇
食堂を出る前に、マルガレーテが、オスカーを呼び止めた。
「仕立屋を呼びなさい。ヴィオレッタに、新しい外出着を。紫の絹で、袖は、王宮の流行に合わせて」
「お義母さま」
私は、思わず口を挟んだ。
「ドレスは、あの子の好きな色にしてやってはいけませんか」
「紫が、陛下のお好みです」
「それは、承知しています。ですが、あの子が自分で選んだ色を、一度は、着せてやりたいのです」
姑の眉が、ぴくりと上がった。
「また、あなたは、口を挟む」
「はい。申し訳ありません」
「謝る必要はありません。……ただ、わたくしには、王妃陛下のお気に入りの色を調べる知恵があり、あなたには、ないでしょう」
痛いところを突かれた。私は、言葉に詰まった。
「では、こうしましょう」
姑は、扇を閉じた。
「布は、紫を三種、あの子の前に並べます。その中から、あの子に選ばせなさい。それなら、陛下のお好みにも、反しません」
それは、譲歩というより、姑なりの折衷案だった。私は、静かに頭を下げた。
◇
その午後の授業のあと、私は勉強部屋に、ケスラー夫人と二人きりで残った。
窓の外は、よく晴れていた。夫人は石板を拭きながら、背中を向けたまま言った。
「お嬢様は、近ごろ、よくお笑いになりますね」
「お気づきでしたか」
「教える者は、子どもの顔を、よく見ております」
夫人は、布巾を置いた。
「公爵夫人。お嬢様を、褒めてやってください。ただし、ひとつだけ、申し上げておきます」
「何でしょう」
「人に喜ばれる子は、喜ばせる道を、よく見つけます。ですが、そのぶん、自分の望みを、あとまわしにすることを覚えます」
私は、息をのんだ。
「わたくしが、そうでした。母が望んだ教師になることを、望みだと思い込んで、三十年近く」
夫人の声は、淡々としていた。
「それが、不幸だったとは言いません。感謝してもおります。ただ、気づくまでが、長うございました」
「……何を、すればよいでしょう」
「何も。ただ、お嬢様が、『行きたい』と言ったとき、それが誰の望みなのか、一度、お尋ねになってください」
説教めいた響きは、少しもなかった。夫人自身の話を、そのまま置いていったような、静かな声だった。
◇
夕方、私は、ヴィオレッタの部屋の扉を叩いた。
「約束の、帳面を見せてもらいに来たわ」
娘は、少し緊張した顔で、藍色の帳面を差し出した。
頁をめくる。大きな頁には、炭筆の太い線で描かれた、ヒワの全身。次の頁は、翼だけ。次は、くちばしだけ。何度も描き直した跡が、紙の端に残っている。
「これは、羽根の付け根を、何度も描いたのね」
「どうして、わかるのですか」
「同じ場所が、こんなに黒くなっているもの。納得がいくまで、やめなかったのでしょう」
娘は、きょとんとして、それから、嬉しそうに口をゆがめた。
「……そうです。ヒワの羽根は、付け根が、むずかしいのです」
「ええ。見ていたら、お母さまにも、むずかしさがわかるわ」
「お母さまも、描いてみますか」
「私は、下手よ」
「下手でも、いいです。わたくしも、はじめは、まるい団子でした」
娘は、真面目な顔で、帳面の最初の頁を指さした。その隅の、古い絵だ。黒い団子に小さな三角が刺さった、何かが描かれていた。
最後の頁に、二羽のヒワが、並んでいた。昨夜、私が見た絵に、色のない影が、丁寧に足されている。
「殿下のお手紙に、お返事を、書かなくてはなりません」
「そうね」
「お母さま。お手伝いは、いりません」
「ええ。見ないでおくわ」
「でも」
ヴィオレッタは、帳面を胸に抱えた。
「……ひとつだけ、聞いてもいいですか」
「何でも」
「わたくしは、王宮に、行きたいです。ヒワに、会いたいからです。でも」
娘は、言葉を探して、足もとを見た。
「お祖母さまが、とても嬉しそうで。お父さまも、きっと、そうで。それが、少し、こわいのです」
私は、膝を折った。ケスラー夫人の言葉が、耳に残っていた。
「こわい、というのは?」
「わたくしが、行きたいから行くのか、みんなが喜ぶから行くのか。わからなくなりそうで」
八つの子の口から、こんな言葉が出るとは、思っていなかった。
私は、少し考えてから、正直に言った。
「お母さまにも、わからないわ。誰だって、そうなのよ。でも、ヒワに会いたい気持ちは、あなたのものでしょう」
「……はい」
「それなら、まず、そこから始めましょう。みんなが喜ぶかどうかは、あとで考えればいいわ」
ヴィオレッタは、小さくうなずいた。
その夜、娘は、一人で長い返事を書いたらしい。翌朝、封をした手紙を、オスカーに預けた。宛名の文字は、定規で線を引いたような、几帳面な子どもの文字に、少しだけ似ていた。
◇
返事が出た三日後の夕刻、ジークハルトが、予定より早く帰宅した。
書斎に呼ばれて入ると、夫は、机の上に、一通の書状を置いていた。赤い封蝋。王家の紋章。桜色ではない。公の、封だった。
「来た」
短く、夫は言った。
「王妃陛下の名で、正式な書状だ。王太子殿下の婚約者候補として、ヴィオレッタを、お迎えしたいと」
私は、息を吸った。
「返答の期限は」
「五日」
夫の灰色の瞳が、私を見た。
「約束どおり、猶予は、ある。聞くなら、今のうちだ」
私は、書状に目を落とした。公式の文面の最後に、小さく、別の筆跡が添えられていた。
『ドレーゼン伯爵夫人が、橋渡しを務めました。』
またその名だ。
「一晩、考える時間をください」
「構わない。ただし、三日目までには、ヴィオレッタの顔を、見せてもらう」
夫は、そう言って、書状を封筒へ戻した。灰色の瞳には、いつもより、わずかな揺らぎがあった。この人も、迷っているのだ。




