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悪役令嬢ではなく、その母親に転生しました。娘が断罪される前に家庭環境から直します  作者: ローナ


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17/22

自分で言う

翌朝、私は、ヴィオレッタを三階の書庫に連れていった。


ジークハルトが、幼いころに隠れていた場所。この子が、叱られるたびに身を潜めてきた場所。そして、図鑑を一緒に見る約束を、ずっと果たせないままにしていた場所でもある。


「お母さま、ここは、お祖母さまが、嫌がるお部屋です」


「そうね。だから、誰にも聞かれないわ」


窓際の長椅子に並んで座り、私は、膝の上で図鑑を開いた。ヒワの頁は、紙の端がすり減っていた。何度も、この子の指がなぞったのだろう。


「ヒワは、冬に、群れで暮らすのですって」


「ええ。夏は、つがいで山に。冬は、里に降りてきます」


ヴィオレッタは、すらすらと答えた。図鑑の文字を指でたどりながら、少しずつ、肩の力が抜けていく。しばらくそうしてから、私は、できるだけ平らな声で切り出した。


「ヴィオレッタ。大事なお話があるの」


娘の指が、ぴたりと止まった。


「王妃陛下から、お父さまに、お手紙が来たわ。あなたを、王太子殿下の、婚約者の候補にしたいと」


「こんやくしゃ」


「大人になったら、殿下の奥様になるかもしれない、という約束の、いちばん最初のお話よ。まだ、決まったわけではないの。決める前に、あなたに、聞いておきたくて」


娘は、図鑑から目を上げなかった。長い沈黙のあいだ、窓の外で、風の音がした。


「……それは、ヒワを見に行くのと、同じことですか」


「いいえ。違うわ」


「違うのですか」


「ええ。ヒワを見に行くのは、見たらおしまいにできる。婚約は、おしまいにするのが、とてもむずかしいの」


嘘は、つかなかった。八つの子に、軽く言えることではない。ごまかせば、この子は、必ず見抜く。


ヴィオレッタは、しばらく考えてから、ぽつりと言った。


「……断ったら、どうなりますか」


胸が、きゅっと締まった。この子は、断る道があることを、自分で見つけたのだ。


「お父さまが、困るわ。お祖母さまは、がっかりなさる。王家にとっても、少し、気まずいことになる」


「お母さまは」


「お母さまは、あなたが断ると言うなら、お父さまに、そう頼むわ。でも、うまくいくとは、約束できないの」


正直に答えるのが、いちばん、苦しかった。


娘は、空の両手を、膝の上で組んだ。


「お母さまは、どちらがいいと思いますか」


「まだ、わからないの」


「ずるいです」


「ええ。ずるいわね。でも、本当にわからないの。あなたがどう感じるかを、先に聞きたいと思っているの」


ヴィオレッタは、唇をぎゅっと結んだ。それから、小さな声で言った。


「殿下は、悪い方ではありません。ミルクの話をしてくださいました。……でも、わたくしは、あの方のことを、まだ、ほとんど知りません」


「そうね」


「知らないのに、決められません」


八つの子の、あまりにも真っ当な言葉だった。


「もう一度、お会いしてから、決めたいです」


「それは、あなたの、お父さまに、言える?」


娘の顔が、さっと青ざめた。けれど、目はそらさなかった。


「……言います。自分で」


◇


その夜の夕食の席で、ヴィオレッタは、本当にそれを言った。


レオンは、ハンナに連れられて先に下がっていた。食卓にいたのは、ジークハルトとマルガレーテ、私の大人三人と、娘だけだった。


「お父さま。お祖母さま」


ヴィオレッタは、フォークを置いて、背筋を伸ばした。


「王妃陛下からのお手紙のことを、お母さまから聞きました」


マルガレーテの目が、私に向いた。私は、うなずいた。


「それで、お願いがあります。お返事を、四日目まで、待っていただきたいのです」


「なぜです」


姑の声は、冷たくはなかった。ただ、鋭かった。


「あと三日で、王宮の小鳥小屋に、お招きを受けております。その日に、殿下にもう一度お会いして、それから、自分で決めたいのです」


「子が決めることではありません」


マルガレーテが、きっぱりと言った。


「王家の婚約は、家と家の約束です。八つの子が、気に入る、気に入らないで、揺らいでよいものではない」


「お祖母さま」


娘は、震える声で、それでも言い切った。


「わたくしは、気に入る、気に入らない、で決めたいのではありません。……知らない人と、一生の約束をするのは、こわいのです」


食卓が、しんと静まった。


ジークハルトは、グラスを置いた。灰色の瞳が、娘をじっと見た。長い、長い時間のあと、夫は、低く言った。


「返答の期限は、五日だ」


「はい」


「四日目なら、期限の内だ」


「……あなた」


マルガレーテが、息子を見た。


「母上。期限の内です。王家に、不敬は働いておりません」


夫は、娘に向き直った。


「ただし、条件がある。四日目の夜に、お前自身の口で、私に答えを言え。誰かの言葉を借りるな」


「はい」


「それが、できるなら、聞く」


ヴィオレッタの顔が、ほっと、緩んだ。目の端に、うっすらと涙が光っていた。


姑は、しばらく何も言わなかった。やがて、食器を静かに置き、立ち上がった。


「……わたくしは、反対です」


そう言い残して、部屋を出ていった。けれど、扉を閉める前に、一瞬だけ、孫娘を振り返った。その目には、怒りよりも、戸惑いのほうが、濃かった。


◇


食後、廊下の突き当たりで、私はマルガレーテに呼び止められた。


「あなたが、言わせたのですか」


「いいえ。私は、お父さまに、自分で言えるかと尋ねただけです」


「同じことです」


姑は、扇を握りしめていた。


「八つの子が、家の大事を、大人の前で言い立てる。わたくしの時代には、考えられません」


「お義母さまは、どのように、お決まりになったのですか。先代公爵との、ご縁は」


問いは、少し意地が悪かったかもしれない。けれど、姑は、怒らなかった。


「十七の春に、父から、決まったと告げられました。相手の顔も、まだ知りませんでした」


声が、すこしずつ低くなる。


「誰も、わたくしに、尋ねませんでした。尋ねられるものだとも、思っていなかった。……だから、先ほどあの子が、あのように言ったとき」


そこで、姑は言葉を切った。


「羨ましいと、思ったのです。そう思った自分が、腹立たしかった」


私は、何も言えなかった。マルガレーテは、扇を懐に収め、いつもの顔に戻った。


「ですが、反対は反対です。王家の機嫌を損じれば、この家が傷つきます。それだけは、忘れないように」


「はい。肝に銘じます」


姑は、背筋を伸ばして去っていった。その背中は、いつもより少しだけ、小さく見えた。


◇


夜更け、自室で灯りを落とそうとしたとき、扉が小さく叩かれた。


ベルタだった。十九歳の侍女は、どこか言い出しにくそうに、手を前で組んでいる。


「奥様。お休みのところ、申し訳ありません」


「どうしたの」


「昼間、お使いで、市場に出ましたら」


ベルタは、言葉を選んでいた。


「薄紫の、お仕着せの女の人に、声をかけられました。伯爵様のお屋敷の、侍女だと」


私は、息を止めた。


「ドレーゼン夫人の、お屋敷?」


「はい。それで、聞かれたのです。お嬢様の、お好きなものは何か。夜は、お一人で寝ていらっしゃるか。叱られたときは、どこに隠れる癖があるか」


背筋が、冷たくなった。


「あなたは、何と答えたの」


「何も、お答えしませんでした。お使いの途中だと言って、逃げました」


ベルタは、うつむいた。


「でも、あの方は、お嬢様のことを、とてもよくご存じのようでした。まるで、ずっと前から、見ていたみたいに」


窓の外に、細い月がかかっていた。


ドレーゼン夫人の笑みが、頭をよぎる。口は悪くても、あの子の手は、あたたかい。


そう言った人は、いったい、いつから、娘を見ていたのだろう。

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