自分で言う
翌朝、私は、ヴィオレッタを三階の書庫に連れていった。
ジークハルトが、幼いころに隠れていた場所。この子が、叱られるたびに身を潜めてきた場所。そして、図鑑を一緒に見る約束を、ずっと果たせないままにしていた場所でもある。
「お母さま、ここは、お祖母さまが、嫌がるお部屋です」
「そうね。だから、誰にも聞かれないわ」
窓際の長椅子に並んで座り、私は、膝の上で図鑑を開いた。ヒワの頁は、紙の端がすり減っていた。何度も、この子の指がなぞったのだろう。
「ヒワは、冬に、群れで暮らすのですって」
「ええ。夏は、つがいで山に。冬は、里に降りてきます」
ヴィオレッタは、すらすらと答えた。図鑑の文字を指でたどりながら、少しずつ、肩の力が抜けていく。しばらくそうしてから、私は、できるだけ平らな声で切り出した。
「ヴィオレッタ。大事なお話があるの」
娘の指が、ぴたりと止まった。
「王妃陛下から、お父さまに、お手紙が来たわ。あなたを、王太子殿下の、婚約者の候補にしたいと」
「こんやくしゃ」
「大人になったら、殿下の奥様になるかもしれない、という約束の、いちばん最初のお話よ。まだ、決まったわけではないの。決める前に、あなたに、聞いておきたくて」
娘は、図鑑から目を上げなかった。長い沈黙のあいだ、窓の外で、風の音がした。
「……それは、ヒワを見に行くのと、同じことですか」
「いいえ。違うわ」
「違うのですか」
「ええ。ヒワを見に行くのは、見たらおしまいにできる。婚約は、おしまいにするのが、とてもむずかしいの」
嘘は、つかなかった。八つの子に、軽く言えることではない。ごまかせば、この子は、必ず見抜く。
ヴィオレッタは、しばらく考えてから、ぽつりと言った。
「……断ったら、どうなりますか」
胸が、きゅっと締まった。この子は、断る道があることを、自分で見つけたのだ。
「お父さまが、困るわ。お祖母さまは、がっかりなさる。王家にとっても、少し、気まずいことになる」
「お母さまは」
「お母さまは、あなたが断ると言うなら、お父さまに、そう頼むわ。でも、うまくいくとは、約束できないの」
正直に答えるのが、いちばん、苦しかった。
娘は、空の両手を、膝の上で組んだ。
「お母さまは、どちらがいいと思いますか」
「まだ、わからないの」
「ずるいです」
「ええ。ずるいわね。でも、本当にわからないの。あなたがどう感じるかを、先に聞きたいと思っているの」
ヴィオレッタは、唇をぎゅっと結んだ。それから、小さな声で言った。
「殿下は、悪い方ではありません。ミルクの話をしてくださいました。……でも、わたくしは、あの方のことを、まだ、ほとんど知りません」
「そうね」
「知らないのに、決められません」
八つの子の、あまりにも真っ当な言葉だった。
「もう一度、お会いしてから、決めたいです」
「それは、あなたの、お父さまに、言える?」
娘の顔が、さっと青ざめた。けれど、目はそらさなかった。
「……言います。自分で」
◇
その夜の夕食の席で、ヴィオレッタは、本当にそれを言った。
レオンは、ハンナに連れられて先に下がっていた。食卓にいたのは、ジークハルトとマルガレーテ、私の大人三人と、娘だけだった。
「お父さま。お祖母さま」
ヴィオレッタは、フォークを置いて、背筋を伸ばした。
「王妃陛下からのお手紙のことを、お母さまから聞きました」
マルガレーテの目が、私に向いた。私は、うなずいた。
「それで、お願いがあります。お返事を、四日目まで、待っていただきたいのです」
「なぜです」
姑の声は、冷たくはなかった。ただ、鋭かった。
「あと三日で、王宮の小鳥小屋に、お招きを受けております。その日に、殿下にもう一度お会いして、それから、自分で決めたいのです」
「子が決めることではありません」
マルガレーテが、きっぱりと言った。
「王家の婚約は、家と家の約束です。八つの子が、気に入る、気に入らないで、揺らいでよいものではない」
「お祖母さま」
娘は、震える声で、それでも言い切った。
「わたくしは、気に入る、気に入らない、で決めたいのではありません。……知らない人と、一生の約束をするのは、こわいのです」
食卓が、しんと静まった。
ジークハルトは、グラスを置いた。灰色の瞳が、娘をじっと見た。長い、長い時間のあと、夫は、低く言った。
「返答の期限は、五日だ」
「はい」
「四日目なら、期限の内だ」
「……あなた」
マルガレーテが、息子を見た。
「母上。期限の内です。王家に、不敬は働いておりません」
夫は、娘に向き直った。
「ただし、条件がある。四日目の夜に、お前自身の口で、私に答えを言え。誰かの言葉を借りるな」
「はい」
「それが、できるなら、聞く」
ヴィオレッタの顔が、ほっと、緩んだ。目の端に、うっすらと涙が光っていた。
姑は、しばらく何も言わなかった。やがて、食器を静かに置き、立ち上がった。
「……わたくしは、反対です」
そう言い残して、部屋を出ていった。けれど、扉を閉める前に、一瞬だけ、孫娘を振り返った。その目には、怒りよりも、戸惑いのほうが、濃かった。
◇
食後、廊下の突き当たりで、私はマルガレーテに呼び止められた。
「あなたが、言わせたのですか」
「いいえ。私は、お父さまに、自分で言えるかと尋ねただけです」
「同じことです」
姑は、扇を握りしめていた。
「八つの子が、家の大事を、大人の前で言い立てる。わたくしの時代には、考えられません」
「お義母さまは、どのように、お決まりになったのですか。先代公爵との、ご縁は」
問いは、少し意地が悪かったかもしれない。けれど、姑は、怒らなかった。
「十七の春に、父から、決まったと告げられました。相手の顔も、まだ知りませんでした」
声が、すこしずつ低くなる。
「誰も、わたくしに、尋ねませんでした。尋ねられるものだとも、思っていなかった。……だから、先ほどあの子が、あのように言ったとき」
そこで、姑は言葉を切った。
「羨ましいと、思ったのです。そう思った自分が、腹立たしかった」
私は、何も言えなかった。マルガレーテは、扇を懐に収め、いつもの顔に戻った。
「ですが、反対は反対です。王家の機嫌を損じれば、この家が傷つきます。それだけは、忘れないように」
「はい。肝に銘じます」
姑は、背筋を伸ばして去っていった。その背中は、いつもより少しだけ、小さく見えた。
◇
夜更け、自室で灯りを落とそうとしたとき、扉が小さく叩かれた。
ベルタだった。十九歳の侍女は、どこか言い出しにくそうに、手を前で組んでいる。
「奥様。お休みのところ、申し訳ありません」
「どうしたの」
「昼間、お使いで、市場に出ましたら」
ベルタは、言葉を選んでいた。
「薄紫の、お仕着せの女の人に、声をかけられました。伯爵様のお屋敷の、侍女だと」
私は、息を止めた。
「ドレーゼン夫人の、お屋敷?」
「はい。それで、聞かれたのです。お嬢様の、お好きなものは何か。夜は、お一人で寝ていらっしゃるか。叱られたときは、どこに隠れる癖があるか」
背筋が、冷たくなった。
「あなたは、何と答えたの」
「何も、お答えしませんでした。お使いの途中だと言って、逃げました」
ベルタは、うつむいた。
「でも、あの方は、お嬢様のことを、とてもよくご存じのようでした。まるで、ずっと前から、見ていたみたいに」
窓の外に、細い月がかかっていた。
ドレーゼン夫人の笑みが、頭をよぎる。口は悪くても、あの子の手は、あたたかい。
そう言った人は、いったい、いつから、娘を見ていたのだろう。




